第二章 テルストラ都市国家連合
二、テルストラ都市国家連合
神父メティスは、アース・フェマルコート帰還の翌日から執務に入っていた。肩の傷は癒えていない。帰還当日から病院に復帰してメティスの手当てをしていたアースからは、執務を止められていたが、やらなければならないことがたくさんある。休んでいる暇などなかった。アースが帰還したことは、すぐに噂となってマリンゴートを駆け巡ることだろう。
中央マリンゴートにそれが届くのも時間の問題だった。アースは病院に復帰した。ナギがいなくなったからだ。突然彼女が消えたことに皆一度は戸惑ったが、ケンが意外と冷静にナギの言葉を説明したことで、皆納得した。病院には十年前、アースが常にいたころから勤務していた医者も多く、その帰還に喜びの声を上げるものは多かった。もちろん、新しい職員のほうが多いのだが、皆、名医と言われたアースの存在は知っていて、病院への復帰に、伝説の医者が来たと喜んでいた。いい空気が出来上がってきている。ナギはそのことさえも見越していたのだろうか。不思議な女性だった。
メティスは、目の前に置かれた書類を見て、一瞬のめまいを覚えた。病院から抜け出してきてしまったのだが、今頃アースは探しているだろうか。彼はメティスの主治医だった。外来診察や病棟での仕事もある。そのなかで、行方不明になったメティスを探させているとなったら申し訳ないことをした。ただでさえ忙しいのに。
肩の痛みは治まっていない。包帯もろくに替えていないのに出てきてしまった。めまいがだんだんひどくなって、書類がかすんで見えていた。
その時、ドアをノックする音がした。強い力で三回ノックする音が聞こえる。メティスはそれに返事ができなかった。すでに体力が限界だったからだ。やはり執務は無理だったのだろうか? そう思いながらノックの音を聞いていると、ドアが開いた。誰かが入ってきて、椅子から机に倒れこむメティスを急いで支えて抱えた。
「やはり。先生!」
そう言ったのはケンだった。メティスを支え、医者を呼ぶ。入ってきたのはアースだった。かすむ目でそれを確認すると、メティスは気を失ってしまった。
「言わんこっちゃない。ケン、外に運ぶぞ。ストレッチャーが来てる」
「分かりました」
ケンはそう言うと、アースとともに二人がかりで部屋の外にいた看護師らにメティスを預け、執務室を後にした。
病室に着いて、メティスをベッドに寝かせると、アースは手早く包帯を替えた。彼は、マリンゴートの誇る救護隊の創設者の一人だ。元軍医なだけのことはある。けがの手当ての素早さはどの医者よりも優れていた。痛み止めの点滴をメティスの腕に差し込むと、一息ついてこう言った。
「行動パターンが丸見えなんだよ、お前は」
その横で、ケンが苦笑してため息をついた。メティスは、目を覚ましていた。
「すまない。そうだ、アース、私はなぜこんなけがを? あの暗殺者の少年はかなり強かった。なぜ、あれほどの力を?」
「ああ、それなんだが」
アースは、そう言ってため息をついた。「厄介なことになっていてな。メティス、あの暗殺者は、お前の月だ」
「月?」
そう言ってベッドから起き上がりそうになったメティスをケンが抑えた。
「ああ、第三の月のシリンだ。この星の月のシリンはお前の親父さん、つまり、ウェイン・ランダーと、お前の双子の妹のうちのメアリーとケリーで二つの月だったんだ。第一の月はウェイン、第二の月があの双子。そして、第三の月があの少年だ」
「では、あれだけ強かったのは?」
「お前の、つまり、惑星のシリンの顔を模倣できるのは月だけだ。なぜかそれを突き止めた中央の誰かが、あの月の少年にお前の顔を整形で写し、惑星のシリン並みの戦闘力を与えたんだろうな。それに加えて戦闘訓練を仕込んだんだろうから、何もしていないお前より強いのは当たり前だ」
「そういうわけだったのか。でも、君には敵わなかった」
メティスが、アースの言葉に相槌を打つと、ケンが乗り出してきた。
「当然です! 先生より強い人なんて、そうはいませんよ!」
「そうだね」
メティスは、笑って返した。
第三の月が見つかった。確かに、今地球に修行に出している妹二人は二人でひとつの月だった。第三の月を探している途中ではあったのだ。しかし、それにこんな形で出会おうとは。
「それで、今、その少年はどうしている?」
メティスが尋ねると、ケンが答えた。
「薬で眠らせてあります。東に捕まったことが悔しいのか何なのか、ひどく暴れるので、ベッドに縛り付けてありますよ。すごい力なんです、僕たちも押さえつけるのがやっとで、先生が来てようやくおとなしくなったんですよ。先生が自分の名前を言ったら、急におとなしくなったんで、その時に薬を使わせてもらいました」
「君の名を聞いておとなしくなったのか、アース?」
「ああ、まさかとは思ったが。ある程度は中央の洗脳が効いているらしい」
「洗脳?」
アースが、頷いた。
「少し、来るのが遅かったかもしれない」
そんなことはないですよ、と、ケンが必死で訴えると、緊張していたアースの顔が少し和らいだ気がした。
その姿を見て、メティスは周りを見渡した。この病室は個室だ。入っているのが様々な政治的秘密を共有するメティスだから当然のことなのだろうが、少しうれしかった。これで、メティスは仕事の半分を寝ながらこなすことができる。アースやケンとこうやって話すことができるのもそのおかげだった。
「その、少年のことなんだが」
メティスは、少し考えて言葉を放った。
「アース、彼を我々の仲間にできないだろうか?」
「仲間に?」
ケンが、声を裏返して反応した。あんなひどい洗脳を受けている人間を仲間になど、神父は何を考えているのだろうか。いくら「月」とはいえ、突拍子もないことをいう。
「仲間に、か」
アースが、メティスの言葉に何か含みを感じたのだろう。ただ、仲間にしたい、それだけではなさそうだ。
「分かった。やってみよう」
アースがメティスの要請を受諾すると、ケンは驚いた声をあげて気を失いそうになった。あんなひどい患者を仲間にしようなんて、どうやろうというのだろう。ケンには想像もできなかった。
アースとともにメティスの病室を後にすると、ケンはアースに食ってかかった。
「先生、いくらなんでも無理ですよ、あんなひどい患者!」
「まあ、たしかにあれは難しいだろうな」
「じゃあ、なんで承諾なさったんです? あの患者が月だからですか?」
「さあな」
アースの答えはケンの納得いくものではなかった。
メティスの中にある含みは、おそらく命の重さゆえのことだろう。彼は、十年前の戦争で、いったん死んで地球の環の中に帰ったアースを引き戻した。それも、必死で。それから何か変わった気がする。その中にいたもう一人の死者、ベン・ハーネスに何かを言われたのか、彼の存在から何かを感じたのか、それは分からない。しかし、メティスの中で、助けられる命は自分の命を張ってまで助けたい、そういう思いが芽生えていたとしてもおかしくない。惑星のシリンを環の中から引き戻すリスクは命にかかわるからだ。
それに、メティスが神父の道を選んだのもおそらくそのせいだろう。ただ、ブラウン神父の後釜に座ったわけではないだろう。そして、最近はカロンの妻、リーアが妊娠している。今朝、病院の外来が開いてすぐに彼女の診察をした。順調に育っていると告げると、彼女は礼を言って去って行った。エコー検査の写真を渡すと、カロンに見せると言って喜んでいた。そのカロンにはまだ会っていないが、仕事が終わったらメティスの見舞いに来ると言っていたから、すぐに会えるだろう。シリウスとはもう会ったが、そんなに離れていたわけではないので、事務的な会話を交わしただけで終わってしまった。
命の重さ。
たとえそれが敵対する国の人間であっても助けよう。それがメティスの考えならば、おそらくアースはメティスを助けていくことになるだろう。
そんな会話をしながら、ケンとともにやってきたのは、とある病棟に隔離されている例の少年の病室だった。担当の男性看護師に様子を聞くと、まだ眠っているという。入ると、確かにまだ眠っていた。しかし、アースが近づくとパッと目を開け、起き上がろうとして失敗してベッドに沈み込んだ。
惑星のシリンが近づいた、その気配を察したのだろう。アースはあえて自分の気配を消していなかった。やろうと思えばいくらでもできたのに。
「目が覚めたようだな」
ベッドの上で珍しくおとなしくしている少年に、アースは声をかけた。
「殿下が、なんでこんなところにいるんですか!」
そう言って、少年はアースの隣にいたケンをギラリと睨んだ。
「そいつにたぶらかされたのか! 東は危険です。神父に何をされるかわかったもんじゃない」
「ああ、そう来たか」
アースは苦笑して少年を見た。近くに寄ろうと体をかがめると、アースの白衣をケンが引いた。
「先生、危険です! そいつは暗殺者なんですよ!」
「黙れ、野蛮人!」
ケンの言葉に、少年が激しく反応した。メティスの顔でこのような台詞を言う。不思議な感じだった。ベッドに縛り付けているとはいえかなりの殺気にケンは一度退いた。
「殿下、中央にいらしてください。こんな奴らと居たら殺されてしまいます。俺がお守りしますから、どうか」
「中央に、か」
アースはそう言って苦笑した。
「俺が中央に行ったら、どうなる? そこで中央を統べる王にでもさせられるのか?」
「それは、分かりません。しかし、俺たちの主は悪いようにはしない!」
少年は、必死で訴えた。本当に自分たちの主に心酔しているのだろう。メティスを嫌うように教育したのもその人物なら、大体の狙いは見えている。
「お前、名は何という?」
アースが少年に問うと、彼は瞳を一度そらして床を見た。そして、小さくこう呟いた。
「ルイ」
「ルイ、か。たいそうな名前だな。この分だとエカテリーナやカエサルもいそうなものだが」
アースの呟きに、少年は驚いた目をして体の力を抜いた。
「な、なんでそれを?」
アースの推測が当たっていたのだろう。本当にそういった名の暗殺者がいるのだ。それは、ルイと名乗った少年とともに教育されている子供たちなのだろうか。
ただ、メティスは彼らをも助けると言い出すだろう。それは果てしなく危険な行為だった。
「ルイ」
アースは、少年の名を読んだ。名前というよりはむしろコードネームのようなものだろうが、今はそう呼ぶしかない。
「神父がそんなに嫌いか」
問うと、少年は神父と聞いただけでその顔を憎しみに歪めた。歯を食いしばり、なんとか体を動かそうと試みる。
「嫌い?」
目をむいて、少年は声を震わせた。ケンがその迫力に圧倒され、アースの後ろに回った。
「嫌いなんてもんじゃない! あいつは敵だ。俺はこの顔が嫌いだ。今にも引き裂いてやりたいくらいだ! こんな顔! 神父は俺の両親を殺した犯罪者だぞ!」
「両親を殺した? 君の? 神父さんが?」
アースの影から、ケンがそろそろと出てきた。相手は自由に動けない。ましてやここにはこの暗殺者を圧倒したアースがいる。考えてみれば一人にしておくよりずっと安全ではないか。それに気がついてそろそろと出てくる。
「神父さんがそんなことをするはずはない! それは君の記憶違いだ」
「記憶違い?」
少年は震えた声でそう言うと、暴れようとベッドで何度も手足を動かした。
「クソッ! なんでだ! 俺は覚えているぞ! 目の前でこの顔の人間が俺の両親を惨殺して俺をさらった! さらって、ひどい拷問をしたんだ!」
「さらって、ひどい拷問か」
少年の様子を冷静に観察していたアースが、ポツリと呟いた。
「ルイ、お前、本当の名前はなんだ」
「本当の名前?」
ケンが、アースの言葉に反応した。ルイが本当の名前ではないのだろうか、そういう顔をしている。
「名前? なんだそれは」
少年は急に大人しくなり、アースに疑問の瞳を向けた。何か引っかかる部分があったのだろう。彼自身、疑問に思ったはずだ。名前とはなんなのだ。コードネームとは違うのかと。
「やはりな。お前の記憶に間違いはない。確かにお前は両親を殺され、さらわれて拷問されたんだろう。だが、この平和ボケの東マリンゴートに拷問などできる施設はない。わかるか。お前を殺したのは、お前の名を奪った人物、つまり、お前に今のルイというコードネームを与えた人物だ。メティスではない」
「なんだと?」少年は、再び声を震わせた。「俺ははっきり見たんだぞ! この目で、この顔を! だからこそ主に頼んであえて神父の顔にしてもらったんだ! あいつの顔で罪を犯せば、あいつにたどり着ける。神父のやつに復讐できる機会ができるってな! それが間違いだというのか」
「ああ、間違いだ」
アースは少年の叫びに全く動じなかった。この記憶違いを説明することができる、そういう風に見えた。ことを冷静に見守って少年から情報を引き出すことが目的だったのだろう。そのまま続ける。
「お前の両親を殺した人物、そしてお前をさらって拷問した人物とメティスを、お前の記憶の中ですり替えた人物が同じなんだ。いいか、コードネーム・ルイ。お前の本来の名は、お前の両親が与えたもののはずだ。それを変えるということは、命のすり替えを行うことと等しい。お前は、ただの幸せに過ごすはずだった子供から、暗殺者にすり替えられたんだ。メティスを殺す、それだけのためのな」
「すり替えた? どういうことなんです?」
ケンが問うと、アースは困ったような顔をしてケンを見た。
「お前、看護師の割に鈍感だな。ここまで説明すればわかるだろ」
「わかりませんよ。だいたい看護師と関係あるんですか、それ」
ケンがふくれて、腕を組んだ。アースは苦笑して、その様子を見ていた。そして、ルイと自分を呼んだ少年に向き直り、こう言った。
「今言った記憶のすり替え、人物のすり替え、それこそが洗脳だったんだよ」
「じゃあ、俺は?」
少年が肩を落とした。アースの言ったことは真実だった。自分の記憶の中にはなくても、体は覚えていた。だから、アースの言葉に疑問が持てなくなってしまっていたのだ。確かに、自分には名前がない。あったはずなのに、ない。確かに両親はいた。ふつう、名前は両親や名付け親がくれるものだし、彼らが惨殺される前、自分は幸せな子供だった。神父がそこに入り込んで殺戮を犯したならば、わざわざ自分にコードネームを与えて自分を殺しにやることはないはずだ。
そう、状況がおかしいのだ。
「俺は一体?」
少年は、自分自身がわからなくなってきていた。一体何のためにここまで来たのだろう?何のためにこの顔を、神父を憎んできたのだろう?
「ルイ、お前の本当の名と記憶は、治療すればいくらでもとりもどすことができる」
アースがそう言って、少年の肩を叩いた。ベッドに縛り付けてあったベルトや器具を少しずつ外していく。
「俺の、記憶、本当の名前?」
縋るようにこちらを見つめる少年に、アースは静かに頷いた。
「すべてを取り戻すには時間がかかるかもしれない。だが、俺を信じてくれるか?」
少年は、暴れたために傷ついた手首や足首をさすりながら、解放されてベッドに座って、自分の姿を見た。今まで信じていたものが崩壊したショックで、今は頭がうまく回らない。だが、目の前にいる医者の言っていることが真実であることは理解できた。
「分かった、信じてみる。本当の俺を、取り戻させてくれ」
冷たく硬いコンクリートの壁と床、それを照らす光は一遍もない。
そんな空間に、彼らはいた。
神父メティス・ランダーの暗殺に失敗し、更にリーダーであり、最も重要な情報を持ったルイを囚われて逃げ帰ってきた子供たちに、未来はなかった。
彼らは分かっていた。これから自分たちがたどる運命がどのようなものか。
失敗した者には死を。
それが、彼らの中で交わされた暗黙の約束だった。
彼らを統率する主は、彼らをそのように育ててきた。攫っては洗脳し、スパイとして、暗殺者としての能力を特化させてきた。
人は、特に大人は子供を侮る。
だから、子供をさらってきては洗脳して暗殺者に仕立て上げるのだ。大人では警戒されてしまうものも子供ならなんの警戒もされずに、簡単に殺すことができるのだ。
しかし、今回は相手が悪かった。まさか地球のシリンが帰還し、すぐさまに神父を助けて暗殺者をすべて封じ込めてしまうとは。
地球のシリンは強い。
その事実は彼らの主たる人間を含め、すべての暗殺者を震え上がらせるのに十分であった。彼らにはルイを取り戻さなければならない理由がある。この組織のことを明るみに出されては、困るからだ。いや、困るなどというレベルではない。この組織の存続自体に関わってきてしまう。それは避けなければならない。
しかし、神父はそう簡単にはルイを返さないだろう。それどころか、地球のシリンが守りに入っている。これではルイを取り戻すことはほぼ不可能だ。取り戻しに行ったところで皆返り討ちにあって終わるのだから。
主は、考えた。
東マリンゴートの人間は考えが甘い。
子供たちを送り込めば必ず助けようとするだろう。洗脳を解いて普通の子供に戻そうと努力するだろう。
しかし、その数が非常に多かったらどうなるだろうか?
困窮するはずだ。
ならば、今回失敗した面々にもう一度チャンスを与え、甘ったれた考え方をしている東マリンゴートの状況を悪化させれば良い。
主は、そう考えて、策を練った。
もう一度、今度は大量の子供たちを地球のシリン一人に当ててしまおう。特攻させても良い。技量が高ければ高いほど、強い人間というのは人を殺さず生かしてとらえることができるはずだ。その裏をかき、東マリンゴートのシステムを裏から掌握してしまえばいい。子供たちには洗脳が解けたふりをさせ、病院に飽和状態にさせた上でルイを取り戻す。
主は、失敗して戻ってきた子供たちにもう一度チャンスを与えた。
これが最後だ。後はない。
そう何度も言い聞かせ、再び彼らを闇に放った。
もう、明け方になるだろうか。
そろそろ店じまいをしようとしていた店のドアを、誰かがノックした。この店は昼間喫茶店をやっているが、夜は姿を変え、アルバイトを雇ってバーを営んでいた。
こんな時間に誰だろう。酔っ払って朝帰りになった誰かが水でも求めてやってきたのだろうか。アルバイトの女性がそう思ってドアを開けると、一人の人物がそこに立っていた。
見覚えのある人物、ここ十年来会っていなかったが、久しぶりに会ったという気がしない。そんな人物だった。
「久しぶり」
その人物はそう言って、にこりと笑った。
女性は一瞬、わが目を疑った。自分の髪の毛に触れて、短い茶髪であることを確かめる。確かに、失恋して昨日切ったばかりの長い髪はもうない。ショートカットの茶髪だった。
「久しぶりって、どうしてあんたがここに?」
アルバイトの女性の目が宙を泳ぐ。混乱していた。マスターからは何も訊いていなかった。ただ、夜に来客があるかもしれないとだけ聞いていた。それがこんな人物とは。
「ちょっと野暮用で来たんだ」
女性の混乱を鎮めるように、その人物は手を広げてひらひらさせた。
「野暮用で、地球からこの星までわざわざ来るの? なにかあったんだね?」
女性が身を乗り出して尋ねにかかった。店の入り口から外へ、外へと来客を押し出していく。迫っては尋ね、訪ねては迫っていた。すると、店内から優しい声がかかった。
「エララ、もういいから下がりなさい」
マスターの声だった。エララと呼ばれたその店員は、チッと舌打ちして引き下がり、その人物を店内に導いた。
「言っとくけど、これであんたに借りている私の借りを返し終えたとは、思っていないからね」
そう言って、エララは、店内の掃除を再開した。
「エララに貸しがあるのですか」
店主は、そう言って笑った。訪問者は、カウンターに座ると、ため息をついてエララを見た。
「十五年前に、少しな。あいつ、俺と同じ廃材置き場にいたから。劣等民狩りから逃がしてやっただけだ」
「それはまあ、大変なことで。命の恩人ではないですか」
「そんなたいそうなもんじゃない。あのご時世では、みんな生きるのに必死だった」
そう言って、訪問者はしばらく黙った。マスターもエララも、皆黙っていた。十五年前の大規模な被差別民狩りを発端に火が付いた、十年前の戦争の傷は、この大地に刻まれたまま癒えていない。
そのことを思って、みんな黙ってしまったのだ。
そんな中、沈黙を破ったのは、マスターだった。
「アース」
マスターは、目の前に座っている人物の名を呼んだ。
「また、戻られるのですね」
アースは、頷いて応えた。すると、マスターはどこからともなく、きれいに拭いたテーブルの上にそっとコースターを置いて、その上に静かにカクテルを置いた。シェーカーを使うカクテルではエララに作っていることがばれてしまう。ビルドのカクテルを選んでいた。
「戻るって、まさか」
床を拭く手を止めて、エララが真剣なまなざしをこちらに向けた。
「それだけはダメだ。誰かにあんたが利用されるようなことがあれば、あたしは許さない。それに、奥さんが、フォーラさんがかわいそうだよ」
「フォーラか」
アースは、自分の妻の名をつぶやいて、ため息をついた。
「ここへ一人で行けといったのも、あいつなんだ、エララ」
その言葉を聞いて、エララは手に持っていたモップを取り落とした。
「そんな! フォーラさんがあんたと離れるなんて!」
「まあ、信じられないのも無理はないか。だが」
アースは、そう言うと、一口、マスターの作ったオリジナルカクテルを口にした。そして床に目を落とす。
「地球では地球で、厄介なことになっていたんだ。それを鎮めるために、フォーラは残った」
「厄介なこと?」
エララの問いに、アースは頷いた。
だが、答えたのはマスターのほうだった。
「いわゆる、三角関係ってやつだよ、エララ。君も昨日までそれで苦しんでいたんだろう」
マスターがそう言うと、エララは顔を真っ赤にした。モップを持つ手に自然と力が入る。
「放っといてください! で、三角関係って? 誰と誰と誰の?」
エララが一転して興味深そうに聞いてくるので、アースとマスターは黙ってしまった。
「それこそ、放っておいたほうがいいんじゃないかね、エララ」
女性の、こういった話題に対する興味は底を知れない。恐ろしいものだ。アースとマスターはそう思って目を見合わせた。
そして、アースは、カクテルを飲み干すと同時に、マスターにこう告げた。
「そうだ、カロンとシリウスが、世話をかけた」
マスターは、その言葉を受けて、笑顔を返した。
「あなたがここに来ることを知っていたのは、私だけでした。彼らに私がしてあげられることといえば、あの程度でした」
「信じることが、強さとなる。たしか、いつもそう言っていたな」
「はい」
それを、カロンとシリウスに伝えた。アースが来ることを事前に知っていても、その事実を教えてはいなかった。同郷で、ここで働いているエララにさえ告げてはいなかった。それは、彼らのためでもあり、神父のためでもあったからだ。
アースがこの暁の大地にもう一度来ることを知ってしまえば、皆、何もかもを彼に頼ってしまうだろう。アースの存在はそれだけの力を持っていた。しかし、メティスがこの星のシリンであり、因果律の外にある唯一の存在である限りは、彼を食ってしまってはいけない。だから、この星でアースがやれることは、医療行為と、メティスを影の部分で支えていくことくらいだった。
おそらくはこの大地、この都市国家連合はアースに王位を要求するだろう。前王であるガルセスが地球に帰化したことで、ガルセスの王位は破棄され、第一位王位継承者であるアースがテルストラの後継者に立つことが順当だからだ。
しかし、彼はときが来るまでそれも受けないことにしていた。タイミングを見誤ると、先程エララが言った通り、誰かに政治利用されることになりかねない。
「しかし、参ったな」
アースが再び苦笑する。マスターは何も言わなかった。
「ロイ、新しい地球渡航者としてこの星に指定されて、何年になる?」
アースの問いに、マスターは静かに笑って答えた。
「七年です」
すると、掃除をしながら、エララが得意そうに話の中に突っ込んできた。
「まだまだひよっこの五年ですよ。間違えないでくださいよマスター。七年は、奥様と結婚してからの年数です」
「そうか」
アースは、ほっとしたように笑った。席を立ち、店を出ようと入口まで行くと、ドアに手をかけて、こう言った。
「ようやく答えが出たよ。また来る」
店主ロイは、その後ろ姿を見送って、一つ、ため息をついた。
「いつでも来てください。でも、今度は営業中にお願いしますよ」
真昼の病院と違い、人の少ない夜の病院は閑散として、今まで人間で溢れかえっていた外来受付や診察室にも静寂が訪れていた。
病棟に入ると、何人かの入院患者のいびきがドア越しに聞こえるほかは静かで、ナース・ステーションでも、必要以上の会話はされていなかった。
精神病棟にある一室も例外ではなかったが、大部屋とは違って個室には看護師がたまに外から鍵をかけることがあった。隔離室だ。
その保護室に保護されている少年が、例の「ルイ」であった。
普段、この精神病棟に外科医が来ることはめったにない。しかし、この病院のすべての診療科目にヘルプとして出ている医師、アース・フェマルコートだけは別だった。
彼は、メティスとのちょっとした話し合いの後、この病棟のナース・ステーションに来た。神父の采配でこちらに来て、ルイの様子を見るのだという。普段保護室に入って鍵をかけられている患者を外科医が診ることはない。しかし、神父の采配があったということと、事実上院長よりこの病院において権限を持っているアースが来たことには理由があった。その理由を察し、看護師たちはアースに、保護室に入ってもらうことにした。
アースは、入ったらいつものようにここに鍵をかけるようにいい、また、中で何が起こっても朝までドアを開けないでくれと看護師たちに告げた。
看護師たちはそれに従い、アースがルイのいる保護室に入ったあと、厳重に鍵をかけた。ルイは、連日行われている洗脳からの開放を含む精神治療によって疲れきっていた。よく眠っている。
保護室に入り、ルイを起こさぬよう電灯をひとつも灯さずに、アースは壁に寄りかかってため息をついた。メティスは成長した。以前だったらこんな命令を出せるほど物事を上手く割り切れていなかったはずだ。しかし今回は違う。東マリンゴートの事情をしっかり踏まえたうえでの采配だった。
アースが今回、この仕事を請け負ったのもその変化のおかげだといっていい。
例えルイを守るためとは言え、殺戮は本来好んではいなかった。誰よりも暗殺者に対抗するための戦闘能力に特化しているとはいえ、そんなに気分のいい仕事ではない。
確かにアースは強い。この星のシリンであるメティスでさえ、戦えばすぐに負けてしまうだろう。しかし、その強さは時に、心に傷をつけることにもなる。
アースは、ルイの寝顔を見ながら、何かを守るために犠牲になる、ほかの何かがあることを知って、ため息をついた。既に気配は感じる。
五つか、六つ、あるだろうか。
殺気を懸命に殺しているが、アースからすればただ、気配を垂れ流しているにすぎない。一人目の気配が、暗闇に動いた。同時に、アースの瞳が色を失った。
暗闇に蝋燭が揺れるかのように、まるで光を失った冷たいコバルトの瞳が揺れ、丸い瞳孔を細めた。呼吸一つ乱れていない。ただ淡々と、その手を動かし、かかってきた一人目の首に片手を伸ばす。暗殺者は声も出せず、体からは力が抜け、床にドスリと落ちた体はもはや動かない。目はひん剥かれたままだった。瞳孔は開ききっていて、舌が口からだらりと出ている。その一体目の死骸の上に、どんどん同じような死骸が重なっていく。
その全てが瞬時に行われ、かかってきた暗殺者は何一つわけもわからないまま、全滅した。
ルイはまだ眠っている。
自分のすぐ横で大量の殺戮が行われていたにも関わらず、彼は静かな寝息を立てて眠っていた。それだけ、アースは当たり前のように殺戮を重ねていった。
有無を言わさず暗殺者を片付けた。これは、メティスにとっては苦渋の決断だった。
この東マリンゴートには既に捕虜を捕らえておく余裕がない。戦争を前提として設立された国家ではないから、捕虜の収容施設など作ってはいなかったのだ。
だから、この間メティスを襲った暗殺者が再び攻めてきたときは、おそらく仲間であるルイを取り戻しに来る時だろうと踏んだ。
そして、まず、間違いなく、これが彼らに与えられた最後のチャンスだろう。
失敗して帰っても死が待っている。
ならば、せめて苦しませずに一瞬で死なせてやろう。周りの人間はそう言ってメティスを説得した。そして、もし、そんなことができる人間がいるとしたら、アース以外にはいない。
技量が、ほかの人間と違いすぎるのだ。生かしたまま捕らえることもできた。アースの技量なら。しかし、捕虜収容所がない東マリンゴートは、これ以上捕虜を抱えることができない。敵の狙いもそこだろう。捕虜収容所のない東マリンゴートは、かかってきた暗殺者を生かして捕らえた場合、病院に収容して洗脳を解く治療をするしかない。そうなれば病院にも国にも余裕が無くなってしまう。
ならば、殺してしまうしかない。
メティスを襲ったのは、まだ子供だった。おそらく中央の暗殺者であろうが、よく洗脳されている上戦闘能力も高い。
その子供を殺してしまったとは、公表できない。
おそらく中央はルイの洗脳が解かれてその組織の情報が漏れるのを恐れているだろうから、まず真っ先に彼を取り戻しに来るだろう。だから、誰にも気づかれずに、暗殺者が殺されたという事実さえ抹消できるくらいに証拠もなにも残さず殺すことができるアースに、守備についてもらった。
メティスは、アースやシリウスらの提案をそこでようやく呑んだ。
アースもシリウスも、メティスが最後まで殺さないでおきたいと主張したことで、その本音を知ってはいた。しかしそれでは指導者としてうまく立つことができない。メティスは傷つきやすい。そして、自分たちなんかよりもずっと、優しい。
アースは、自分が殺した子供たちの死骸を見た。まだ幼い。その死骸をここに残しておいたら、まず、中央が動くだろう。東マリンゴートは子供をさらって殺したと。しかし、それに関する手はずもすべて整っていた。一定以上の時間が経つと、保護室のドアは外から開かれた。マリンゴートが擁する救護隊の隊員を率いたケンが、四、五人の隊員を中に入れて、暗殺者の遺体を全て引きずり出して青いシートに包み、そのまま去っていった。行先は少し離れた農村部にぽつりと立つ焼却施設だった。
アースは、ケンが一礼をして黙ったまま去るのを見ると、ルイの様子を窺った。
何もなかったかのように眠っている。これでいい。
ルイはおそらく気づいているだろう、しかし今はこれでいい。メティスやほかの人間の為にも。アースはそう思いながら、保護室の扉を閉めた。
翌日は、よく晴れて、青い空が梢の先から見え隠れしていた。緑に囲まれた神父メティスのいる執務室からも、それがよく見える。雲一つない青空だ。
とはいえ、地球のそれに比べればかなり薄い青であった。薄くて、そして少し紫がかっている。森の緑も地球とは違う、濃い緑だった。
そこに、一人の男が歩いていた。
中肉中背、背はそんなに高くないが、がっしりとした体格の男だった。メガネをかけていて、この時期のきつい太陽の光に金色の短い髪を輝かせていた。
名をリシテアと言い、神父とは交友の深いジャーナリストだ。
リシテアは、神父の執務室に案内されて入ると、その広い執務室の真中にあるソファーに勧められて座った。
もうすっかり教会の職員としてなじんだホランドとクーランが、この辺で採れる、夏摘みのお茶を出してくれたので、その懐かしい香りを楽しみながら、リシテアはメティスと会話を重ねた。そして、懐かしい旧友同士の楽しい会話が一通り終わると、リシテアのほうが先に表情を曇らせた。
「メティス」
神父の名を呼び、リシテアはしっかりとその紅い瞳を見すえた。神父の瞳を覗き込むその灰色の瞳には、少し陰りがあった。
「君は、中央に対して何かアクションでも起こしたのかい?」
「中央に対して? なぜ?」
そう尋ねたメティスの瞳には一点の曇りもなかった。リシテアはいったんホッとして、前のめりに乗り出していた体をソファーに沈めた。
「君のことだから、そんな事だろうと思った。今日の明け方、中央マリンゴートにある、ひとつの孤児院が燃えたんだ」
「孤児院が?」
メティスの目が、少し、疑いに曇った。
やはりなにかあるのだろうか。リシテアはそう思って続けた。
「ああ。それも、新進党側が運営する孤児院で。名前は、こちらの言葉で言う『ひまわり』だ。心当たりはあるかい?」
「新進党が運営する孤児院、まさか」
メティスの紅の瞳が、驚きに開かれた。
「やはり、君は何か知っているんだね。別に記事にしようってわけじゃない。今日は久しぶりにアースにも会いに来たんだ。そのついでにちょっと君の様子も知っておいたほうがいいと思ってね。危ないことに足を突っ込んでいるようなら、僕は君にいろいろ助言をしなきゃいけない。まあ、アースやシリウス達がいて、君を危ない目には遭わせないとは思うけれど」
「心配はいらない。リシテア、情報をありがとう。この件を皆に伝えて真偽を確かめてみる。このことについてはまた連絡して、君にも動いてもらうことになると思う。その時はよろしく頼むよ」
「分かった」
リシテアは、そう言うと少し緊張した瞳のまま、席を立った。
そして、そのまま執務室を出ると、森を横切って中央病院に向かう道に出た。
神父メティス。
神父になったばかりとはいえ、やはり少し頼りない。この状態で東マリンゴートを引っ張って行くには多くの人間の助けが必要だ。リシテアもそのうちの一人になってゆくだろう。そして、助けてゆくことにもなるだろう。そのなかでも、もっとも力になるのはアースだろう。彼の持つ力は絶大で、カリスマもあれば力そのものも大きい。医者としての人脈もありながら、また、テルストラ都市国家連合を束ねていたテルストラ首都国の長である国王の王位継承権を持っている唯一の人間だ。そして次にシリウス。彼は射撃においてはこの都市国家連合でも右に出る者はいないだろう。それくらい正確な射撃をする。次にカロン。彼は警察府にいる。いざという時の情報網はリシテアのそれに匹敵し、優先的にこちらに情報をまわしてくれる。ただ、これだけの人間を擁していながら、メティスはまだうまく使いこなせていない。これがアースなら話は別だろう。だが、メティスはアースとは違って人をけん引することに慣れていないし、人の上に立つことにも慣れていない。そう言う面でリシテアにとってメティスという存在はまだ幼く見えた。
そんなことを考えながら歩いていると、病院についた。
緑の中に囲まれ、芝生がきれいに整備された病院の敷地に入ると、気が引き締まる。中に入ると待合室にはたくさんの人がいた。
ここは総合病院だ。人が多いのには納得が行くが、以前もこんなに多かっただろうか?
こんなに人がいるのでは、病院のスタッフも忙しいことだろう。病院の担当医が書かれた掲示板を見ると、たくさんの医者が常勤していることが分かる。しかしそこにはなぜかアース・フェマルコートの名はなかった。
病院側が、あえて載せていないのだ。
腕がよく、信頼のおける医者であるアースの名を特定の診療科に載せてしまえば、そこに患者は集中する。その診療科の疾患でなくても、彼に会うためだけに仮病を使う人間も出てくるだろう。だから、アース自身特定の診療科には属していないし、医師の名として掲示板に載せることもないのだろう。
それは、以前ナギがいた頃もそうだった。その腕と容姿で一気に噂になり人気を得たナギが、ある診療科に名前を置いたことがあった。既に人気を博していたために、病気でもない患者が押し寄せて、本当に苦しい思いをしている人間が必要な医療を受けられない事態に陥った。そんなことがあったから、最近になってこの暁の大地に返ってきた高名な医者であるアースの名が同じことを引き起こすことは必至だった。
リシテアは、自分の名と神父メティスの名を出して、受付の医療事務員に自分の名札を見せた。以前はナギからの様々な指示を受けるためにこの病院を訪れていたので、事務員には顔の通った存在だった。事務員はリシテアにメモを渡し、アースに連絡を取っておくと約束した。リシテアは混んでいる待合室を避けてトイレに行き、個室に入るとそのメモを確認した。
そこにはこう書かれていた。
「午前四時、院長室」
アースの手が空くのがその時間なのだろう。そう理解してリシテアはすぐに、近くのホテルを予約した。午前四時に会うのなら今のうちに休んでおいたほうがよい。
ホテルの予約が済むと、リシテアはすぐに病院を出た。そしてタクシーを呼んで、直近のホテルに走って行った。
次第に短くなっていく昼間。この季節の午前四時前は、ギリギリで太陽が出てくる。草原を渡る風は涼しくなっていき、次第に冬の訪れを予感させてゆく。
ホテルをタクシーで出て、病院についたころには太陽が少しだけ草原の端から顔を出していた。空が赤く燃え、雲が炎のようにも見えた。この星にしか住んだことのないリシテアは、地球の空を知らない。どんなに濃い青なのか、朝焼けや夕焼けがどんな景色なのか、知りたかった。
頬を滑ってゆく涼しい風を受けながら、リシテアは病院に続く道を歩いて行った。夜間の救急入口から中に入り、夜間受付の待合室に入ると、受付に二、三人の事務員がいた。その事務員に声をかけ、自分の名を告げると、お待ちしていました、と一言言って一人の事務員がリシテアを院長室に案内した。
相変わらずこの病院は迷路のようだ。東マリンゴートで最も大きな総合病院というのもあるが、その診療科の多さにも由来しているのだろう。病院は二棟に別れ、リシテアのいる総合病院とは別に、精神科心療内科、そして末期医療の緩和ケアの施設が建てられていた。
総合病院棟の最上階、そこの最も奥まった場所に院長室はあった。何度か来たことはあったが、やはり病院のスタッフの案内がないと来られない。
リシテアは、院長室に着くと、ここまで案内してくれた事務員に礼を言って別れた。
院長室のドアをノックすると、誰かが近づいてくる足音がして、そっとドアが開いた。
ドアを開けたのは、看護師のケン・コバヤシだった。
「お久しぶりです、リシテアさん。どうぞ」
ケンはそう言うと、リシテアを中に誘った。部屋の中を見渡すと、ちょうどコーヒーカップを乗せたトレイを持ったアースが、院長室のテーブルにそれを並べているところだった。アースは自分でコーヒーを淹れているのだろうか? 忙しい身でそんなことをしている暇などないはずだ。不思議そうに突っ立って見ているリシテアの考えていることを察したのか、アースは少し笑った。
「忙しいからこそ、たまに取れた休憩時間にはこういうこともしたいんだよ」
そう言って院長室のソファーに腰かけ、リシテアにも座るように促した。ケンがアースからトレイを受け取って、後ろに控えた。
リシテアはアースのそんなところに安心した。なぜなのかは分からないが、今までの緊張が解けてきて、一気に物事を話しやすくなってきた。
「アース」
リシテアは、あらためてアースの深い瑠璃色の瞳を見た。瑠璃色ともコバルトともいえるその深い青の瞳は、やはり優しい表情で迎え入れてくれた。
「君に、聞きたいことがあるんだ」
膝の上で腕を組み、リシテアは真剣にアースの瞳を見つめ返した。
すると、答えはすぐに返ってきた。
「最近の中央の動向のことか」
リシテアは、半分そのことにびっくりしながらも、アースのことだからそのくらいできて当たり前なのかもしれない、そう思った。気を取り直して自分の持っている報告書を差し出そうとすると、アースはそれを拒んだ。
「大体のことはシリウスやメティスから聞いている」
「じゃあ、話が早いね」
リシテアは、そう言って報告書を鞄の中にしまいこんだ。
「君も目気付いていると思うけど、ここのところ中央は、こちらがすぐに解決できる問題ばかりを投げかけてきているように思う。ナギ先生は僕に、もう私には手に負えないと言っていた。それはその先にある何かを見越して、君を呼ぶために言ったんだろうと思う。でなければ、ナギ先生一人いれば解決できるほどのことで、こちらを刺激することはないと思うんだ」
「東マリンゴートを、いや、メティスを刺激して何かを引き出そうという魂胆か」
「うん。そこなんだ。僕たちは今、姿も見せない彼らによって操られているようなものなんだと思うんだ」
「操られている、か」
アースは、そう言って何か考え込むしぐさをした。何かが引っ掛かる。メティスや、東マリンゴートの人間は本当に操られているのか。
いや、違う。問題はもっと根本にある。
そう考えたアースは、考えるのをやめてリシテアに真剣な目を向けた。
「リシテア、少しこちらから黒幕を探りたい。協力してくれるか」
「わかった」
リシテアは、そう言って頷いた。しかし、彼の質問はそれだけにとどまらなかった。
「ところで」
リシテアはアースをじっと見つめた。そうやってから何か納得したようにうんうんと頷いた。そしてこう言った。
「君がここに来た目的、本当は何なんだ?」
東マリンゴートと中央マリンゴートは、中央で起きた謎の事件を二件抱えたまま沈黙をしていた。石油コンビナート爆破事件と孤児院の焼失事件だ。この二件には東マリンゴートの神父メティスがかかわっているとの見方が各マスコミの間では根強かった。だが、それよりもさらに重要なニュースが中央と東を沸かしていた。
テルストラ都市国家連合の首都国、首都テルストラの王子であるアース・フェマルコートの所在がはっきりしたのだ。
東マリンゴート中央病院。
そこに、一時的ではあるが地球から来訪している。その目的は定かではない。しかし、見方は東と中央でかなり割れていた。
東では、行方をくらませたナギの代わりに病院を支えるために、そして、テルストラの国王として立つために。
中央では、中央マリンゴートを独立国とするために、中央マリンゴートの各党派をまとめて中央マリンゴートを首都国にするための王となるために。
それぞれ違う主張を王子アース・フェマルコートに対して抱いている両国だが、ほかの国の主張はほぼ、東マリンゴートと一致していた。
ただ一つ違うのは、ほかの国家がすべての権利をテルストラに集中させようと考えているのに対し、東マリンゴートは、王のほかに各国に元首を立てて、権力を分散させようと考えていたことだ。権力が一極集中すれば、アースの負担は増える。そのうえ彼が地球に帰ってしまったら困ったことになる。さらに、そこには一つの穴があった。クリーンスケアのアルバート・グレーン、ハノイのアレクセイ・ゲイラーは、それぞれ任された国をうまく統治できていた。しかし、東マリンゴートの元首であるメティス・ランダーは求心力に欠け、中央マリンゴートは真二つに割れていて国家元首が存在しない。
この二つの国をどうにかしない限り、テルストラ都市国家連合はうまく動いていかないのだ。
そんな折、すべての国の思惑を一転させる出来事が起きた。
中央マリンゴートの北部新進党が、こう言ってきたのだ。
「東マリンゴートは、王子殿下を抱え込んで独占している」
その知らせに、各国は動いた。
そして、東マリンゴートにもまた、そのために打つ打開策を模索する必要が生じたのだ。
それはアース・フェマルコート帰還のうわさが立ってから二か月後のことであった。
乾季から雨季にかかる季節。
広葉樹の葉は落ち、そこらじゅうに落ち葉が積もってゆく。
この短いあいだに、暁の大地は、雪の降り続く冬の準備を固めてゆく。そんな折に、唯一この都市国家連合で海を持つクリーンスケア首長アルバートのもとに、手紙が届いた。
差出人は東マリンゴート神父メティス・ランダー。手紙を開いてみると次のようなことが記されていた。
親愛なるアルバート・グレーン殿
ご無沙汰をしております。突然のお手紙をお許しください。
このたび、テルストラ都市国家連合に、第十四代テルストラ国王を迎えるにあたり、戴冠式にご出席賜りたくお手紙申し上げました。
この件についてはまだ世間に周知されていませんし、王子アース・フェマルコートのいるこの東マリンゴートも発表はしていません。
急な連絡でお困りかと思いますが、これは重要なことですのでご承知ください。
私、メティス・ランダーには、アルバート様もご承知の通り、これと言った求心力はありません。この星のシリンとはいいますが、だからと言って人をけん引する力まであるわけではありません。そう言う部分におきましてはあなたやアレクセイ殿には到底敵わないのです。
今回テルストラ都市国家連合全体における首都国・テルストラに国王を復権させるのは、中央マリンゴートの思惑を外し、また、新しいテルストラ都市国家連合を発足させるためです。
このまま私が東マリンゴートを引っ張って行くことには無理があります。一時的にその仕事を国王に委託することで、東は力をつけて行くことにもなります。また、将来どのようにして国をまとめて行ったらいいのか、私自身の勉強にもなるのです。
どうか、首長にはそのことについてご理解いただき、ご協力を賜りたく思います。
この件に関しましては、既に首都国テルストラの市長にもご承知いただいております。また、アレクセイ殿にも同じ内容の手紙を出しております。
中央マリンゴートは今、北部新進党と南部保守党に分かれて政権を争っています。ご存じとは思いますが、今は他の国を何らかの理由をつけて攻撃する危険性の強い国になってしまっています。どうか中央マリンゴートの動向にはお気を付けください。
手紙を読み終わると、アルバートは側近を部屋に呼んだ。そして、メティスからの手紙を机の上に置いて、もう一つ、机の上に置いてあった手紙を手に取って読んだ。そして、両方を見比べて、メティスの手紙でないほうの手紙を手に取ると、それを側近に渡した。
「アース・フェマルコート王子殿下からの勅命が来ている。まずはこちらに従わなければなるまい。いますぐ調査隊を組んで、ハノイに向かってくれ」
雨季の始まりを告げる雪が舞い始めたある日のことだった。
ある報せが、東マリンゴートの教会に舞い込んできた。いや、舞い込んできたと言うよりも、吹きこんできたと言ったほうが正しいだろう。
それは嵐のように突然やってきては教会中をかき乱していった。
現行の首長国である、クリーンスケアの首長、アルバート・グレーンの姉、ネイス・グレーンが突然姿を消したのだ。
何の前触れもなかった。誰かとけんかをしたとかトラブルになったとか、そのようなことは一切なく、ゴシップなどの要因も全く見当たらなかった。
当然のことながら、東マリンゴートにいて離れて暮らしていた恋人のシリウスは動揺した。誰かにさらわれたのではないのか、誘拐されたのではないのか。そう考えて、東マリンゴートだけではなく周辺の国にまで情報網を広げてできる限りの手を使って探し始めた。
そして、その結果が出たときは、シリウスは大きく戦慄した。
ネイスが行方不明になった三日後、どこの誰とも知らない犯行グループからのビデオメッセージが教会あてに届いたのだ。
開封すると、そこには目だし帽をかぶった数人の男たちの前に、包帯を顔中に巻いた不気味な男が立っていて、こう言っていた。
「クリーンスケア首長アルバートの姉、ネイス・グレーンは我々が預かった。返してほしければ我々の要求を呑んでもらう。まずは、これからいう電話番号に、映像通信が可能な状態で電話をかけろ。このメッセージを読んだら一時間以内にだ。こちらではこのビデオの開封を探知している。ごまかしや時間の引き延ばしは効かない。でないと女の命はない」
それを聞いて、メティスはすぐに映像通信機器を自分の執務室に用意させた。そこにはシリウスをはじめ、警察であるカロンや、問題解決には欠かせない人間となりつつあるアース、そしてアースにいつもくっついているケンもいた。
メティスが指定先に電話をかけると、相手は何も言わずに応答し、メティスが用意したディスプレイにその姿を映しだした。
そこには、先ほどの目だし帽の男たちや包帯の男とともに、ある人物が映し出されていた。
ネイス・グレーンだった。
シリウスは、ネイスの置かれている状況とその姿に、声を上げた。
ネイスの美しい金の髪は乱されていて、顔や体には無数の傷があった。この寒い季節に薄いワンピースを一枚羽織っただけで、体中を縄で縛られていた。
「なんてことしやがる!」
怒り心頭していまにも画面に殴りかかろうとしているシリウス。彼を止めたのはカロンだった。
「やめろ、シリウス。とりあえず彼らの要求を聞くんだ。その怒り、気持ちは分かる。あの、解放戦争の悪夢を目の当たりにした僕には君の気持ちはよく分かるんだ。だからこそ抑えてくれ、今は耐えてくれ、シリウス」
「でも、こんなのって!」
それでも激情を抑えきれないシリウスに、カロンはこう言った。
「解放戦争の最後の日、僕らは、たくさんの人質を取られて戦っていた。だけど、何とか打開できただろう。そのチャンスを作った人間の中には君もいたはずだ。そのチャンスを待つんだ」
その言葉を聞いて、シリウスは静まった。冷静さを取り戻したのだ。確かにそうだ。ここで激昂したとしても何の解決にもならない。だったらチャンスを待つ。それしかない。
「チャンスなどあるのかな?」
画面の中で、包帯の男が感情のない声を出した。
それを見ていたアースが、少し動いた。
「要求はなんだ」
アースの声にも、そして表情にも、感情がなかった。相手に対して、屈服したわけではない、そういう態度をとっていた。アースもまた、どこかに彼らの穴を探しているのかもしれない。
アースの言葉に反応して、包帯の男がにやりと笑った。ネイスの顔をぐいと押し上げて、無理やり正面を向かせる。
「この女の命と引き換えに、我々は要求する。まずは、クリーンスケアの核だ。核弾頭が何基かあるだろう。あれをよこせ。司令官のアルバートともどもな。あれは奴の指紋がなければ動かせない。もう一つは」
「もう一つ? 人質一人に対して二つ要求するのか」
メティスが尋ねると、犯人は当然だ、と返した。
「我々は、人一人の命の重さを知っている。それに従っているだけだ。さて、もう一つの要求だが」
そう言って、包帯の男は後ろにいる目だし帽の男たちに向かって頷いた。目だし帽の男たちは、それに応じたように頷き返した。
「王子アース・フェマルコート殿下の身柄を、引き渡してほしい」
クリーンスケアの核とアルバート首長、そして、アース。
どれもテロリストに引き渡していいものではない。彼らは核を使ってすべてを思い通りにするつもりだろう。確かにクリーンスケアの核弾頭は、それを管理する軍の最高司令官であるアルバートの指紋認証なしには動かせない。
そして、アースもまた、彼らが世界を動かしていくのには都合のいい存在だった。彼の存在さえあれば自分たちのやることは正当化されるからだ。もし、そうでなくても、アースを人質に世界中を思い通りにすればいいだけの話だ。
当然、この要求をメティスは呑むつもりはなかった。しかし、だからといってネイスをあきらめるわけにはいかない。なんとかして要求を退けながら、ネイスを救出できないか考えていた。
しかし、状況はそうは甘くなかった。映像の中で、目だし帽をかぶった男のうち一人が、ネイスの首を縄で締めはじめたのだ。
やめてくれ! と、シリウスが叫んだ。その震える肩をカロンが支えた。
時間はない。決断をしなければならない。
メティスが悩んで頭を抱えていたその時。アースが静かに皆の背中を叩いた。
「要求は呑もう。そのかわり、ネイスは必ず返してもらう」
すると、メティスはそのアースの言動に、抱えていた頭を解放した。冷静に、冷静に。そう自分に言い聞かせていた。そして一呼吸置いてから、こう言った。
「それは駄目だ」
それに対して、アースが、なぜ? という顔をした。
アースは強い。みすみす彼らの人質になったり言いなりになったりするようなことはない。それに加えて、自分を守りながらネイスやアルバートを救出することも可能なはずだ。実際、アースはそう言った作戦を頭の中で考えているはずだ。メティスにもそれは分かっていた。しかし、認めることはできなかった。
「では、ネイス・グレーンは諦めるのだな」
犯人が言うと、メティスはすぐに答えを返した。
「ネイスは助ける」
「無茶苦茶だな。話にならん」
犯人はそう言ってメティスを嘲笑した。
シリウスの肩が怒りに震える。もう限界に近い。いつ爆発してもおかしくない。
カロンはそう感じて、メティスを見た。
その表情は固く、何かを決意したかのような顔だった。
時間がない。要求を呑まなければネイスが死ぬ。明らかにこちらを不利にする決断を下したメティスに、その場にいた全員が不安を覚えた。
「アースの代わりに、私ではいけないだろうか」
不安な顔をしているカロンに、メティスが小声で話しかけた。しかしその声はビデオの先でも聞こえたようで、テロリストたちは大声をあげて笑った。
「話にならんと言っただろう、愚かな神父! お前なんかに何の力がある? 今まで何を守ってきた? 今まで何と戦ってきたというのだ?」
すると、アースがメティスの肩をポン、と、叩いた。そして、ディスプレイ越しに見えるテロリストたちにこう言い放った。
「力が必要ない世界、守らない自由、戦わない選択、それを否定するなら、俺はメティスには力を貸さなかっただろう。それがお前たちとの決定的な違いだ」
メティスの視野は広かった。彼が傷つけたくないものはおそらく、世界やアース個人だけではないのだろう。そこに横たわる理性や真実、そして、大きな悲しみと想いがそこにあった。
だからこそ、アースは決断した。メティスがそうあると決めたのなら、メティスの決めた道を、彼がその道を歩く背を押そうと。
「メティス、要求は呑まなくていい。だが、アルバートを連れて、俺がネイスを助けに行くのならいいだろう」
「しかし」
困った顔をしたメティスに、アースは笑いかけた。
「必ず、帰ってくるから」
その意見に、だれも異論を唱える者はいなかった。アースは帰ってくると言った。彼ならそれを実行してくれるだろう。そう思った。
しかしそれでもメティスは納得していなかった。歯を食いしばって、自分の敗北を認めざるを得なかった。
画面の向こうで、テロリストたちが律儀に待ってくれている。アースは、メティスの肩を叩いた。目をそらしたまま拳を握るメティスを見てから、画面の向こうに話しかけた。
「人質との交換の日時と場所を、指定してくれ」
三日後の正午。
テロリストたちの指定してきた日時はこの日を除いて三日後の正午だった。約束をたがえたら容赦なく人質の命は貰う。そう言ってきた。
人質が解放される保証はどこにもなかった。どう考えてもテロリスト側が一方的に有利な展開になっていた。だからこそ、メティスはメティス自身が許せなかった。
また、アースを傷つけてしまう。
また、あの哀しい瞳が戻ってきてしまう。
そしてまた、守ることができなかった。なにもかもすべてを、なにもかもすべてから。
ネイスも、シリウスも、カロンも、誰もかもを守れなかった。
メティスには、アースを守りたいという強い意志があった。それは、十五年前に遡り、彼がアースとともに被差別民として強制労働をさせられていた頃に起こった事件がもとだった。メティスの心は既にその時に深い傷を負っていた。
だから、あの時なぜ頑なにアースを引き渡すことを拒否したのか、シリウスに聞かれたとき、これは関係者すべてを呼んで自分の記憶を引きずり出して話すしかないと思った。
そこで、メティスは、礼拝堂に、自分の過去と関係のある人間をなるべく多く呼んで話をした。
メティスの話は、こうだった。
十五年前、まだ移民が原住民を排斥していた差別社会の中、地下組織であるレジスタンスに属していたゆえに、被差別民であったアースとともにメティスは強制労働所に送られていた。そこで働いている間、二人は過酷な労働を強いられていた。
そんなある日、メティスが数人の男たちに襲われて暴行を受けた。駆けつけてきたアースが追い払ってくれたが、メティスは心と体に大きな傷を負った。
当時、あまりに労働が過酷だったので、老人や女子供はそれに耐えられなくなって死んで行った。まずは老人から、そして子供、最後に女という順番で死んでいったものだから、労働者である若い男たちのはけ口がなくなって行った。以前は老人を詰り、子供を蹴り倒していたものが、女だけになると強姦が流行りだした。なかには輪姦する者も出だした。おかげで女は自殺する者も含めて死んでいき、強制労働所には女性がわずかしかいなくなってしまった。そこで、顔かたちの整っているメティスが狙われたのだが、大事に至る前にアースが助けてくれたので、幸い体の傷だけで済んでいた。
だが、今度は甘くはなかった。
彼らは、メティスを人質に使うようになってきたのだ。
わざと軽くメティスを襲っては帰り、また襲っては帰る。それも素早く。それが繰り返されたうえ、ある日メティスを襲った男のうち一人が、メティスの傷ついた体に手紙を張って帰って行ったのだ。
メティスは、それを読んで破り捨てた。
そこには、こう書かれていたからだ。
「こいつを助けたかったら、お前が代わりになれ」
誰に宛てた手紙なのかは、はっきりしていた。だからメティスはそれを破り捨てた。
なのに、防ぎきれなかった。
彼らは、メティスを詰る時間を徐々に増やしていった。労働で疲れ切った体に暴行を食らったのではひとたまりもない。そんな折、タイミングの悪いことに、メティスが暴行を受けているときにアースが助けに来てしまった。かれらは笑いながらメティスを詰り、こいつをこれ以上傷つけたくなかったらお前が代わりになれと言い放った。
アースは、それに従った。メティスを守る為に、自分より脆いメティスをこれ以上傷つけないために。
その次の日、アースは、少し労働から抜けると言って姿を消し、それから三日あまり、帰ってこなかった。
彼が帰ってきたと分かったのは、仲間のうちの誰かが、宿舎の裏で倒れているのを見つけてくれたからだった。
その時、メティスはあまりの衝撃に言葉を呑んだ。
アースは、体中にあざを作っていた。上半身に着ていたものはすべて破られていて、あとかたもなかった。首や手首にあざや傷を作り、背中や足、腕など、顔以外の全ての場所に傷があった。気を失っていて、メティスはすぐに駆け寄って行って泣きながら介抱した。しばらくしてアースは目を覚ましたが、何があったのかを聞いても何も答えなかった。
そして、しばらくしてレジスタンスとともに殺人ドームを破壊する作戦を実行することになった。アースはその時に受けた戦いの傷で瀕死に陥り、当時神父をやっていたブラウン神父の教会で手当てを受けていた。その時、熱にうなされて一度だけ、彼は涙を流しながらこう言った。
「助けて」
それは、そこにいた誰もがただの弱音としかとらえなかっただろう。ほとんどの人間は軽く励ましたり、手を握ったりして対処していた。
しかしそれではどうにもならなかった。
メティスは、ああ、もしかしてあの時の傷がうずいているのかもしれない、と思った。だから、他の人間と違う対処の仕方をした。あのとき、あの場所にいなければわからなかったこと、言えなかった台詞。
それを、かけてやった。
すると、今まで苦しんでいたのが嘘であったかのように落ち着いた。
それ以来、メティスは、自分がアースを守るのだと決めた。確かにメティスは強くはない。アースのように、どんなことにも耐え、誰かを守る大きな力はない。
それでも、守りたかった。もう二度と、あんな目には遭わせたくない。もうすでに差別社会は終わりをつげ、そんな必要もなくなってもなお、その決意は変わらない。
アースは強い。
だが、いつ何時同じようなことが起きるか、分からないのだ。
だから、自分が代わることのできる痛みは、代わってあげたい。もうこの大地で犠牲を重ねさせるのはたくさんだったのだ。
メティスのその話を聞いて、皆はメティスの気持ちを理解した。
しかし、今はそれがまかり通る状態ではない。アースの力を借りなければ、事態を打開できないのだ。
「私のやったことや考えていることが現実的ではないことはよく分かっている」
話の終わりに、メティスはそう言ってアースを見た。まさかそんな話題が出るとは思っていなかった、そう言って彼は苦笑した。
本当はいまだに引きずっていてもおかしくない傷だ。普通の人間ならば蒸し返されていい気はしないだろう。だから本当は、メティスはこの場にアースを呼びたくなかった。なのに、呼んでしまった。
なぜだろう。
アースにこの気持ちを知ってもらいたかったわけではない。そこまでメティスは他人に対して傲慢になれるわけではなかった。だが、今自分のやっていることは傲慢そのものではないのか。
「メティス、すまない」
アースが、皆に聞こえるか、聞こえないか、それくらい小さな声で、呟いた。
メティスは、自分の拳を握り、頭を垂れた。
「私は傲慢だ。皆を自分の我儘に巻き込もうとしていた。アース、君さえもだ」
守りたいと思っていた相手を、巻き込もうとしていた。そう考えてメティスは自分が嫌になった。そんな人間が、すまない、と言われる資格はない。
「神父さんは、優しいんですね」
そんなメティスの背中をそっと支え、ケンが言った。
「だから、周りのことを考えて自分を責めてしまう。安心してください。ちゃんと作戦は立てますから。むやみにいろんな人を巻き添えにはしませんよ、誰も」
テロリストたちが指定してきた待ち合わせ場所は、中央マリンゴートとの国境だった。彼らが中央マリンゴートの人間であることに間違いはなかった。言葉に、東マリンゴートとは少し違った、原住民のなまりがある。それに、彼らは国境からは出られない。中央の徹底した入国管理下に置かれているからだ。東の人間やそのほかの人間もまた、中央に簡単には入れないようになっている。それが、国境を指定してきた。
「鬼が出るか邪が出るか」
国境に向かう途中、メティスとアース、そしてシリウスを乗せた車を運転しながら、カロンが呟いた。
「どうだろうな」
アースが、返した。彼は、来る前にいろいろと準備をしていた。何があってもいいように、万全の準備をしていたのだろうが、見た目には丸腰にしか見えなかった。
「何が出ても、潰すまでだ」
少し怒りのこもった声で、シリウスが呟いた。彼は完全に武装している。カロンの車の中にいくつかの武器を積み込んでいた。テロリストたちの要求では、アースとアルバートには丸腰で来させろとあった。武器を持たせず、目隠しをして両腕を後ろ手に粘着テープで縛る。同じく丸腰の人間が付き添って指定場所まで歩かせる。ネイスも同じ条件で同じ場所へ歩いてくるので、そこで人質の交換となる。
決して、武装した人間を連れてきてはいけなかった。シリウスには、車の中の武器には手を触れるなとカロンが注意をしていた。でなければネイスの命が危ない。
指定された国境付近に着くと、テロリストたちはもうすでに来て待っていた。大人数の部下がいる。そう簡単にはこちらの意図は通らないだろう。
東マリンゴートからの車は二台。一台目にはメティス、シリウス、アース、カロンが乗っていて、二台目にはケン、アルバートの二名が乗っていた。それぞれ国境に着くと、メティスはアースと、ケンはアルバートと組んでネイスとの交換に臨んだ。
こちらからは四人、あちらからは二人の人間が国境に近づいてくる。そして、全ての人間が国境に並んだその瞬間。
一発の銃声がして、ネイスが地面に崩れ落ちた。一瞬のことだった。ネイスを連れていた男が、彼女のこめかみに銃口を当てて、その引き金を引いたのだ。
しかし、倒れたネイスの頭からは血の一滴も流れていなかった。彼女はアースに抱えられて気を失っていた。先ほどの一瞬で、アースは敵の意を悟り、ネイスを気絶させて銃弾をそらせたのだ。アースの目隠しと粘着テープは外れていた。
「こんなことだろうとは思ったが、本当にやるとはな」
アースはため息をついて、周りの人間を見た。アルバートの目隠しを取って粘着テープを切ってやった。
シリウスが、丸腰のままこちらに駆け付けたので、アースはネイスを彼に託した。ケンとメティスが、アースとアルバートの前に出る。
「ここまでして通したい、あなた方の要求とはなんだ」
メティスが声を張り上げると、悔しそうにしていた包帯の男が答えた。
「貴様が言えたことか、汚れた神父め!」
「汚れた神父?」
包帯の男の言葉に、ケンが反応した。何のことなのかわからない。神父メティスが何をしたというのだ。
包帯の男は続けた。
「貴様のせいで中央は貧困を余儀なくされた! 何億もの借金を貴様からした挙句に利息だけで苦しむ羽目になった! 高利貸しの神父が、汚れていないはずがなかろう! 貴様らこそなぜそのような人間のもとにいる? 殿下も殿下です。これは、あなたに対する我々の救いの手なんです。汚れた神父に囲い込まれているあなたを我々は救おうとしている。なのになぜ、神父を助けるような真似をなさるんです!」
「高利貸しの神父」
アルバートが、呟いてアースと視線を交わした。間違いない。彼らはその口で真実の一端を口にした。
何を言っている、神父がそんなことをするわけがないだろうと、シリウスやケンがヤジを飛ばした。カロンはそれを見て何か考え込んでいる。メティスは、真っ直ぐにテロリストたちを見据えていた。彼らが言っていることは嘘には思えなかった。だからこそ、その言葉の裏にあるものが何か知りたかった。今のメティスは、冷静だった。
カロンは、そんな面々を見て考えた。
とりあえず、ネイスは奪還した。ここにはもうこれ以上用はないはずだ。だが、アルバートやメティスはここから動こうとしない。出来ることならもっと相手から情報を引き出したい。そんな意志さえも見て取れた。
しかし、ここではこれ以上の情報は引き出せそうになかった。テロリストたちの犯行動機はここで止まってしまったからだ。もっと、深くまで探れる事態が起こらないと、何も見えてこないのかもしれない。
「メティス、僕は帰って、警察府で資料を洗ってみる。皆、ここはいったん退いたほうがいい。ここで無駄な血を流しても意味のないことだ」
カロンは声を張り上げた。
アースとアルバートはたがいに頷きあい、その場を離れることを決断した。あくまでここに残って敵を殲滅すると言って聞かなかったメティスやシリウスも、仕方なく引き下がって行った。
その場を離れていく東マリンゴートの人間たちを、テロリストたちは追うことはなかった。ただ、冬の始まりを告げる風に吹かれて、引き上げてゆく男たちの中で、一人だけ、包帯の男だけがそこにとどまっていた。
冬の訪れを告げる小さな雪が舞い始めた日の朝。
ルイと呼ばれている少年は、いい気持ちで目を覚ました。窓から見える空は真白で、雪がちらちらと舞っては地面に降り積もってゆく。こんな景色を見るのは久しぶりだ。昔は両親とよく見ていた景色。それが、ある一人の人間によって隠されてしまった。その人間の名も顔もよくは知らない。会ったことがないからだ。その人間は彼からすべてを奪って行った。名前と両親だけではない。緑萌える夏の日も、大地が銀色に輝く雪の日も、全ての景色を奪って行った。彼は暗殺者としての人生のほとんどを、暗い地下室で過ごしていた。
その時から、彼はいい夢など一度たりとも見たことはなかった。悪夢にうなされては目を覚まし、これは夢なんだからと自分を慰める。そんな日々の積み重ねだった。
しかし、今は違う。
こんなにいい気分で目を覚ますことができる。
ルイは、ベッドから起き上がって、自分の両手を見た。劇的に変わって行く自分。何度も変わることを強制された自分が、今度は自分から変わろうとしていた。
不思議だった。この手が守って来たもの、奪ってきたこと。それは一体なんだったのだろうか。すべては幻なのだろうか。
そう考えていると、ルイの部屋のドアをノックする者がいた。返事をすると、ドアが開いた。二人の人間がルイの部屋に入ってきた。一人はアース。ルイの主治医だ。そして、もう一人は名前も顔も知らない中年の男性だった。優しい顔つきをしているが体はがっしりとしている。軍人や警察の人間なのだろうか。だとしたら、ルイは軍や警察に引き渡されてしまうのだろうか。
やはり、現実からは逃れられないのだろうか。
よくない想像をしているルイの表情を見てとったのか、アースが苦笑いをした。そして、不安げな表情をしているその少年の肩に手を置いた。
「大丈夫だ、ルイ。今日はお前にいくつかの贈り物を持ってきた。安心していい」
「贈り物?」
アースがこんなところで嘘をつくはずはない。ルイはアースを信頼していた。自分が、何者かの洗脳から解かれてここまで回復したのも、彼の力があってこそだったからだ。今のルイは、八割がた自分を取り戻していた。
しかし、ルイは多くの人間を殺し、裏切り、騙してきた。その罪がそう簡単に許されるはずはない。
しかし、その考えも顔によく出ていたのか、今度はアースと一緒に来た男も苦笑いを浮かべた。
ルイは、自分を恥じた。洗脳されていた時は表情を読まれることなどなかったのに、今は逐一読まれてしまう。一体どうしてしまったのだろう。困惑する少年に、アースはこう言った。
「ルイ、これはいい変化なんだ。受け入れたほうがいい。それと、お前はもう今日から、ルイではなくなる。その名は捨てていい」
「この名を、捨てる?」
アースは、頷いた。
「ルイ、という名はただのコードネームだった筈だ。それも、お前が洗脳されていた頃の、嫌な記憶さえ思い起こさせる。だから、捨てたほうがいい。そのかわり、新しい人生を送るお前にいくつかの贈り物がある。その一つが名前だ」
「名前、新しい名前をくれるのか?」
確かに、ルイというコードネームは彼をあの場所に縛り付けていた。それが嫌で、自分の名前を最近呼べなくなっていた。新しい人生、新しい名前。殺人者でしかなかった自分がここで生まれ変われるのなら、そうしたかった。
もし、それが許されるのなら。
アースは、ルイの背中を押して、一緒に入ってきた大柄な男に引き合わせた。そして簡単に紹介をしてくれた。
名は、タケシ・モリモト。この東マリンゴートが誇る救護隊の中では古株で、隊長も務めている。
なぜこんなところに来たのか尋ねると、一言、モリモトはこう言った。
「君を救いに来た」
救いならすでにそこの医者に受けた。そう言おうとしたが、言葉を呑みこんだ。これ以上自分を救ってくれることがあるとすれば、それはいま、この瞬間の自分をどうにかすること、それだけだ。
それを告げると、モリモトは優しい笑みで答えてくれた。
「君の名前、そして、何もかも。新しくなった君の周りがそれを証明してくれるだろう。君の名前は今から、エルだ。そして、君の住まいは私の家となる。そこで、君は君の好きなことを始めたらいい。できれば、私の養子になってくたら嬉しい。私はこの歳でいまだ独り身なんだ。妻も子供もいない一人暮らしだ。だから、寂しくてね」
「エル、モリモトさんの養子」
新しくエル、と名づけられた少年は、モリモトの言ったことを反芻するように呟いた。しかし、彼の中にある闇はことのほか深く、そう簡単にはことを進ませてはくれなかった。
「駄目だ、俺には幸せになる権利なんかない」
すると、モリモトが寄ってきて、少年の肩に手を置いた。その手は大きく暖かかった。しかし、今の彼にはその大きく暖かな手にさえすがることができなくなっていた。自分のしてきたこと、それを思い浮かべると、多くの人間の恨みを買っていた。だから、自分だけ幸せになることなど許されない。どこかで罪を償わなければならないのだ。
少年は、モリモトの大きな手をどかそうとしたが、できなかった。あまり手に力が入らなかったのだ。
「幸せになる権利はどんな人間も持っている。君は加害者だった。だが、それは被害者ゆえの罪だったはずだ。君は両親を殺され名を奪われて殺し屋にされた。それは君をそう仕立てた人間の犯した罪だ。君に罪がないとは言わない。やってきたことは事実であるからだ。だが、それは償うことができるはずだ」
モリモトは、両手に置いていた手を外して少年の手を覆った。低く落ち着いたその声はどこか少年を安心させた。
「罪を償うって、どうすればいいんだ」
少年の瞳は迷っていた。いま、自分はルイでもエルでもない。どちらになったらいいのか分からなかった。ルイであればこのまま何も変わらない。エルになればそれなりに安心した生活が送れる。なのに、エルになることを拒んでいるのは皮肉なことに自分の良心だった。
そこで、少年の迷いを見抜いたアースが、拳を掌にぽん、と乗せた。少し微笑んでモリモトを見る。
「救護隊に入れてやるか」
すると、モリモトは立ち上がり、ポン、と手を叩いた。
「それを忘れていました、先生」
モリモトは、見た目だけなら自分よりずっと若いアースに、敬意を持っていた。例の解放戦争がもとで孤独に陥っていたモリモトの部隊を救ってくれたのがアースだったのだ。アースは地球のシリンだから一定の年齢に達すると成長が止まる。実年齢よりも見た目が若くなるのはそのせいだった。
少年は、そんな二人のやり取りに不思議なものを覚えた。確かにアースはいつも態度が大きい。テルストラ唯一の王位継承者だというのもあるだろう。しかし、昔の事情を知らない少年からすれば少し変だった。
しかし、少年はアースの言葉に希望を見出した。
マリンゴート救護隊。全国に名の知れた、屈強な救護支援部隊だ。戦場で戦いながら負傷兵を救出するほどの戦闘力を持っている。そのうえ戦場になるかもしれない市街地や野営地で負傷兵を診ることができる精神力の強い看護師や医師を擁している。ここに入れるのなら、今までの彼のスキルを生かしながら、人を助ける、という大事な罪滅ぼしができるかもしれない。
「救護隊」
少年は、呟いた。
アースもモリモトも少年を見守っている。これから彼がどのような決断をするのか、黙って待っているようにも思えた。
少年は、答えを出した。
いま、自分がやるべきこと、出すべき答えはこれだった。
「俺の名前は、エル・モリモト。救護隊の隊員、そして、あんたの息子だ。それでいいんだよな、父さん」
雪の降る夜。
閉店間際のバーで、二人の人間が酒を酌み交わしていた。
一人は神父メティス。聖職者ではあるが、多くの宗教のまとめ役であるがゆえに酒は飲むことができる。もともと進んで飲む性格ではないが、今日は誘われたため軽いカクテルを注文していた。バーの明かりは柔らかく、きれいな赤のカクテルをやさしく照らしていた。
もう一人は、アルバート・グレーン。彼はアースから勧められて、地球産のウイスキーをいくつか頼んでいた。いつもはスコッチやアイリッシュをメインに呑んでいたが、最近はジャパニーズやカナディアンにも手を出すようになっていた。
酒の好みとしては対照的な二人が、バーで話すことは、少しほかの人間とは異なっていた。最初は、ネイスの容体と、彼女と常に一緒にいるシリウスの話から始まった。いま、ネイスはマリンゴートの病院で治療を受けている。シリウスは自分の手で助けることができなかったことを恥と言っていた。しかし、ネイスは感じ方が少し違ったようだ。あの場面ではシリウスが下手に手を出せば自分は死んでいた。アースが動かなければどうしようもなかったあの場面で、出たいのに出るのを押さえていたシリウス。その忍耐力のおかげで自分は助かったのだ、ネイスはそう言っていた。シリウスは半分納得したが、半分は納得していなかった。それでもネイスはシリウスに感謝をしているのだから、それでいいのだと、メティスはそう言っていた。
その様子を聞いて、姉が元気でいることに、アルバートは素直な喜びを表した。そして、メティスに感謝の言葉を告げた。
「シリウスといれば、姉は大丈夫ですね」
そう言って、アルバートは笑った。
そして、姉の安否を確認したと思ったら、そこで突然、アルバートは話題をころりと変えた。
「そう言えば神父さん、殿下は即位なさるんでしょう」
その話題に、メティスが、カクテルを口に運ぶ手を止めた。
「形だけは」
そう言って、手に持っていたグラスをコースターの上に戻した。
「テルストラ都市国家連合を復活させ、各都市をまとめ上げて強化するために、彼は国王の座に一時的についてはくれるでしょう。その準備も今、進めているところです。しかし、彼が東マリンゴートの医師として病院での勤務を続けていくことには変わりがない」
「東マリンゴートにとどまるのですか。それでは中央が黙っていないでしょう。それに、まだ、彼らが我々を刺激しては簡単に引き下がる、その原因もはっきりしていません。確かに、殿下が東マリンゴートに残っていただけば、その問題の解決も早いでしょう。地球のシリンという存在の意味を考えても、そうあるべきだとは思います。しかし、殿下のいらっしゃる宮殿はテルストラにあるんです。父君であられるガルセス様のいらっしゃった場所でもあり、殿下が幼少の頃を過ごされた場所でもあります。もともと政治の中心はテルストラでした。それを無視することはできません」
「たしかにそうです」
そう言ってため息をつき、メティスは寂しそうに笑った。
「この国には移民が多い。地球を故郷とする彼らがアースを特別視するのも分かるんです。だから、東マリンゴートにいてほしい。しかし本当はそれではパワーバランスが崩れます。テルストラにいるべき君主がテルストラに不在。その上東マリンゴートに権力が集中してしまう。それでは移民がまた原住民を排斥する運動が起こってもおかしくない。それは避けたいのです。けれど、問題の解決のために、アースには病院で勤務していてもらうしかない。矛盾を抱えているんですよ」
そう言って頭を抱えるメティスの姿を見て、アルバートは思った。
メティスは確かに指導者には向いていない。大事な決断をうまくできないうえに人の使い方も下手くそだ。しかし、その物言いは率直で裏表がない。どこかに魅力を感じる人間だった。
だからこそ、アルバートは提案をしようと思った。東マリンゴートをいい方向に持ってゆけるのはおそらくメティスだろう。アースはどちらかというともっと大きな器だ。このテルストラ都市国家連合をまとめて行くのにはちょうどいいが、いち都市国家の元首に収まるには大きすぎる。向かないのだ。だからこそ、メティスのような人間が重宝される。権力とは全く関係ない部分で人を引っ張って行ける魅力。カリスマとは違う魅力。
「神父さん、あなたがブラウン神父に選ばれた理由が、ようやくわかりましたよ」
そう言って、アルバートは一口、ウイスキーを口に含んだ。
「リシテアをうまく使いこなしてください。彼は、この都市国家連合すべての国に通じています。アースも彼の力を買っている。だから、何の情報を得るにも、操作するにも、リシテアをうまく使ってください」
「リシテアを?」
アルバートは、頷いた。
「今のこの状況では、情報より強い武器はありません。それを使うんです」
その日は雪が止んでいた。
どこまでも静かな世界の中、どこまでも静かな、暗い部屋の中で、一人の男が固定電話の受話器を手にして何かを必死に訴えていた。顔には包帯が巻かれて、誰なのかは分からない。しかし、声と姿恰好から、メティスやネイスたちを襲ったテロリストのリーダーであることは見て取れた。
男は絶望した。
電話の相手に見放されたのだろうか。がくりとその場に膝をついた。掌から離れた受話器が床に向かってぶら下がり、ツーツーと音を鳴らしている。そのうちその音もしなくなり、完全に音のとぎれたその部屋に、静寂が訪れた。
しばらくして、包帯の男は立ち上がってふらふらと歩き始めた。部屋の出口にあるドアに手をかけて、ドアノブをひねる。すると、ドアが開いた先に目だし帽をかぶった彼の部下がいた。
部下は、目だし帽を取った。そして、その顔を見て驚いた包帯の男が後ずさって行くと、それを追うように部屋の中に入って行った。
包帯の男は、一言何かを言い、部屋の中にあった、もう使えない固定電話を引っ張って、迫り来る人間に投げつけた。しかし、その人間は軽くそれを避け、手に持っていたナイフで包帯の男の心臓を一突きした。
包帯の男はそこで息絶え、赤い血を流して床に倒れた。
目だし帽を取った男は、冷たい笑みを浮かべて去って行った。
妖精の山帰り。
雪がずっと降り続く冬の間に現れる稀な晴天の日のことを、土地の者はそう呼んでいた。原住民の間では、草原の先の山脈から冬をもたらす妖精がやってきて、彼らが雨季を司っていると言われている。例外なくその日はきれいに雲が抜け、一面の青空が広がっていた。そんな中、長い間君主を欠いていた首都テルストラに、久々の国王が復帰した。
正式な名をアース・フェマルコート・メルディオネ・テルストラ。第十四代目のテルストラ国王だ。
就任式及び戴冠式は略式で行われた。衣装も、王宮の正装ではなく、礼装である黒いスーツでアースは就任式の壇上に上がった。これといったスピーチも来賓の言葉もなく、ただ淡々と書類へのサインを、各都市の代表の見守る中行っただけだった。
しかし、一部のものは感慨深げにそれを見守っていた。ハノイ国王アレクセイ・ゲイラーもその一人だった。十五年前の解放戦争、あれの中心的役割を担っていた東マリンゴート・レジスタンス。教会のブラウン神父と姉であるヘレンとともに、三人で築き上げてきた東マリンゴートのレジスタンス。それを勝利に導いたのが、アース・フェマルコートだったのだ。ずっと、この日を待ちわびていた。今はもう、昔と違ってテルストラに移民と原住民の軋轢はない。あったとしても中央マリンゴートが勝手にやっているだけだ。テルストラ都市国家連合に差別政策は敷かれていなかった。そんな首都テルストラに、原住民と同じ特徴を持つ移民である、ある意味では新しい王が即位した。
豪華な式典ではないが、それをあえてやらないのが、アースらしいと言えばそうだった。
しかしそんな式典の中、また新たな問題が浮上したのも確かだった。中央マリンゴートからは、北部新進党党首エドガー・オリンフェストと、南部保守党党首・ルーティン・カーランドが呼ばれていた。彼ら同士も仲が悪かったが、彼らには彼らの、共通の敵がいた。それが、東マリンゴートの神父メティスだ。メティスは式典の間中、彼らからのきつい視線や歯ぎしりなどを耐え忍ばなければならなかった。
また、それらの問題とは一線を画しているアルバートは、そんな彼らの動向を見て、この先どうなるのかと心配しなければならなかった。クリーンスケアは核を持っている。もちろん、これからすべての国の元首となるアースはその立場上、この大陸から戦術核を撤廃する道に走るだろう。それは遥か昔からこの大陸に定められていた、戦術核撤廃の条約がまだ有効だからであった。だがその戦術核の撤廃で、クリーンスケアは国力を極端に弱めることになる。それが引き金になって起こる、各国のパワーバランスの崩壊をどう食い止めるか、それも課題であった。
アースは、地球のシリンだ。
地球上の因果律を支配し、そこに生きるすべての命と、そこに存在するすべての物質を統括する、地球の意思が具現化した姿だ。その力は素粒子にまで及び、すべての意識に介入することができるという。しかし、その力を使ってこなかったのもまた事実。この星のシリンであるメティスも、この星の移民の母星、地球のシリンであるアースも、それをやってこなかったのには、彼らもまた自然の一部であるという認識があるからだ。そう簡単に人や自然は操れるものではない。能力というものは持ち腐れというものがないのだ。あるからと言って必ず使わなければならないものではない。全ての調和を乱さないために、彼らは何もかもを見守っているだけに過ぎないのだ。
そんな強大な力を持っているからこそ、シリンは恐れられてきた。そして、原住民はそれを神話にした。銀の木から生まれる金の髪の子、と。
金の髪の子である、神話をそのままなぞらえた存在のメティスはもう生まれている。だが、銀の木はまだ生まれていない。残月の昼に現れるというその神話の大樹を、皆は待ちわびていた。金の髪のシリンが生まれた事実がその期待を現実のものにしたのだ。
銀の木、金の髪のシリン、そして、テルストラ国王。
その三つのキーワードが、この先何を引き起こすのか。
それは、この時点ではほとんど誰も知る由はなかった。
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