第三章 命
三、命
テルストラ都市国家連合の復活からわずか四日。
その日の夜は、満天の星が輝く夜だった。空には雲一つなく、宇宙をそのまま見ているかのような壮大な星空が見えていた。雨季であるこの時期には珍しい天気だ。外は雪が積もっている。
その晩、夜勤で病院にいて、ナース・ステーションでカルテの整理をしていたケンは、突然かかってきた内線電話に急いで出た。救急外来の事務員からだった。前期破水を起こして、急いでこちらに向かっている妊婦がいるのだという。それなら産科に連絡がいくはずなのだが、なぜこちらに連絡が来たのだろう。問うと、産科はすでにほかの産婦の帝王切開と通常分娩にかかりきりで、助産師はいても医師が足りないのだという。非番の助産師を読んでどうにかかき集めてもギリギリなのだと。今手が空いているのは、ケンの病棟にいるアースだけだ。彼は今まで何人かの赤ちゃんを取り上げている。選択肢は一つしかない。
アースは連絡を受けると、ケンを連れて産科病棟に行き、産婦を確認した。
もうすでに陣痛が始まっている。リーアだった。
アースはすぐに準備をした。助産師がアースについてお産の準備を始める。迅速な対応だった。分娩室はすべて埋まってしまっているため、空いている病室のベッドを廊下に出し、フラットな状態にしてからマットを敷き詰めた。天井から太い綱を垂らしてそこに掴まれるようにした。そのほかに様々な工夫を凝らしてなんとか出産に必要な設備を整えて、そこにリーアを入れた。
病院からの電話を受け、カロンが急いで駆けつけてきた。出産は命懸けだ。それを知ってか知らずか、必死の形相で、冬であるにもかかわらず汗をびっしょりとかいていた。
「リーアは、リーアと赤ちゃんは、無事なんですか?」
カロンは息を切らしてそう聞いてきた。助産師の一人がはまず、落ち着くように言い、カロンを、今分娩室になっている病室の前に椅子を出して座らせた。
「今はあなたが落ち着いてください。リーアさんは相当な痛みに耐えているんです。自分と赤ちゃんのことで精いっぱい。ぜひ、出産に立ち会ってください。あまりの苦しさにリーアさんが弱音を吐くこともあるかもしれません。それを受け止めてあげてください」
カロンは、助産師にそう言われてようやく落ち着いてきた。しかしまだ興奮した状態は治っていない。きちんとリーアと向き合えるようになってから部屋の中に入ってもらう、アースはそう言い、陣痛に耐えるリーアの声を外から聞いていた。医師の出番が来るのはもっと後だ。アースはその準備を始めたが、カロンがそわそわし始めると、中に入るように促した。
「カロンさん、気を強く持ってくださいね」
ケンがそう言って、カロンを見送った。
しばらくして、リーアの苦しみの声の質が変わってくると、初めてアースは部屋に入った。それから二時間。誰も部屋から出てくることなく、出産は終わった。赤ん坊の泣き声が病室に響き、取り上げた助産師がすぐに産湯に赤ちゃんをつける。
「女の子ですよ」
助産師が笑って言うと、リーアは涙を流して喜んだ。カロンはリーアと同様に必死だったらしく、赤ちゃんが女の子だと聞くと、安心してその場にへたり込んだ。出産時に血を見たというのもあった。少年時代から戦争に巻き込まれて血を見慣れているはずのカロンが、赤ちゃんが出てくるときに出る血に失神しそうになっているのは、ケンには皮肉に思えた。死を呼ぶ出血と生を呼ぶ出血。カロンはどちらも体験したのだ。
リーアは、その後一週間病院に入院した。そのまま経過は順調で、一週間後の退院の時には笑顔で皆に挨拶をしていった。出生届はカロンが役所に出していた。名前は、女の子の場合と男の子の場合と二つ、考えてあったためすぐ決まった。
『シャロン』
女の子は、そう名付けられた。
シャロンが生まれてから一か月が経った。
その間、この国でも連合全体でも何の動きもなく、平和な時間が過ぎていた。
リシテアはいまだに何も言ってこない。アースもアルバートも、何の動きもないという。ハノイのアレクセイからも何も言ってこないので、今のところは各国の力のバランスの調整に入っていることだろう。
そんな折、ケンは非番の日に街に出た。一人暮らしの彼は自分で車を持っている。その車で街に出て、週に一回、食糧の買い出しをする。その日もいつもどおり街に出て、いつものとおりの食品スーパーに寄った。そして、たまには少し街を見て行こう、と思って車を駐車場に停めたまま街の中心部に向かっていった。
その時、ケンは見たことのある人物を見かけた。
おかしい、こんな場所にこんな人物がいるわけがない。何かの見間違いだろう。そう思って、今見たものを無視して、街で最も栄えているコーヒーショップに寄った。注文してすぐに出てくるタイプの店で、温かいコーヒーを頼んだ。飲んでみると、飲んだことのない味がした。その苦さに少々後悔しながら街を歩いていると、誰かに肩を叩かれた。
振り返ると、そこには懐かしい顔があった。まだ少年だったケンが、そのころに別れた人物。兄だった。
「久しぶりだな、ケン」
兄は、そう言って笑った。
なぜ、兄はこんな場所にいるのだろう。彼はずいぶん前から中央マリンゴートに住んでいるはずではなかったのか。それとも、難民としてこの東マリンゴートにやってきたのだろうか?
疑問に眉をひそめるケンに、兄はなおも笑って言った。
「そりゃ驚くよな、ケン。中央にいるはずの俺がなんでこんなところにいるんだって。俺もさ」
ケンは、何も言えなかった。ただ、目の前にいる兄が恐ろしかった。笑っているのになぜか恐ろしい。どうしてだろう。何も怖がることはないはずなのに。
「兄さん」
ケンは震えていた。兄の顔は笑っているようで笑っていなかった。口は笑っているのに、目は笑っていない。ケンの出方を探っている、そんな気がしてならなかった。
そんなケンの様子を見て取ったのか、兄の表情が変わった。笑顔がなくなり、目は鋭くケンを見下した。そしてその瞬間、ケンの腹に兄の膝が食い込み、その衝撃でケンは手に持ったコーヒーを取り落として地面にあおむけに倒れた。
「な、なにをするんだ、兄さん!」
そのとき何が起こったのか、ケンにはすぐには理解できなかった。しかし、次に兄が放った言葉ですべてを理解した。
「俺を見たのが運の尽きだ。このことを神父にでも話されたら問題だからな。悪いがお前には消えてもらう」
そう言って、ケンの兄は、弟をなじり始めた。ケンはそんなに強くはない。ナギに護身術を少し教わった程度だ。兄は強かった。なぜこんなに強いのかケンには分からない。何度も腹を蹴られ。頭を地面に擦りつけられた。何の抵抗もできなかった。
「こんな平和ボケな国にいるから、性根まで緩くなるんだよ!」
ケンをあざ笑いながら、兄は弟をなじってゆく。ケンの目から涙があふれた。街の人間はその様子を見て誰一人助けに入らなかった。いや、恐ろしくて、巻き込まれるのが怖くて、間に入ることができなかった。
兄がケンの頭を持ち上げ、地面に叩きつけようとした。この一撃でケンの命は吹っ飛んでしまう。ケンは死を覚悟した。
その時だった。
兄の手が止まった。
ケンはそのまま誰かの腕に倒れこんだ。優しい腕がケンを包み込む。ケンを助けた人物は、そのまま兄の腕をつかんで背中に捻り回した。兄が痛みに喘ぎ声をあげる。そして素早くケンを地面に横たえると、兄のみぞおちに一発、拳を食い込ませた。
ケンの兄は気を失い、地面に倒れた。
「遅くなって、すまない」
その人物は、そういうとケンを助け起こした。そして、周りの人間に、救急車と警察を呼ぶように指示していった。
朦朧とした意識の中で、ケンはその人物を見ていた。黒く長い髪、マリンブルーの瞳。背は高くほっそりした女性。そしてあの強さ。
ナギだった。
「私の弟子をよくもこんな目にあわせてくれたね、ゴロウ・コバヤシとやら」
ナギは、ケンの兄が気絶したときに落とした、免許証を見た。
「偽造免許証か」
そう吐き捨てて、ナギはケンの応急処置を始めた。
「せん、せい」
ケンは、安心してその体をナギに委ねた。ナギがいるとういうことは、いまこの暁の星にアースはいない。ケンにとってはどちらも大切な存在だった。
だが今は、ナギがここにいることに感謝をしていた。
「喋るんじゃないよ。ケン、私は再びいなくなる。でも泣くんじゃないよ。あとは警察と病院に任せればいい。このことについてはアースに伝言を残しておく」
アースに伝言。
ナギは今そう言った。おそらく周りの人間を気にしてのことだろうが、ケンにとっては滑稽だった。本来ならばナギは、アースに伝言を残す必要がなかったからだ。
ケンがそのことで苦笑いを浮かべたのを見て、ナギは安心したような顔をした。そして、ケンが救急車の音を聞きながら気を失っていくのと同時に、去っていった。
ケンを襲った男、ゴロウ・コバヤシは、東マリンゴートの警察によって逮捕され、その身柄を警察府の拘置所に移された。カロンの話によると、目を覚ました途端すごい力で暴れだしたので拘束衣をかぶせて対処しているという。
メティスは、それを聞いて、ハノイでアレクセイと打ち合わせをしていたアースに、病院に戻ってもらうことにした。ケンがいなくなった穴埋めもあるが、同じようなことをしてきた人間がアースとともにいたからだ。エルだ。その話を聞くためにも、ケンの様子を注視して精神的安定を図るためにも、アースやエルの力が必要だった。
「アース、ケン君のことだが」
病院に戻ったばかりのアースに、メティスはすぐに会いに行った。アースは快く迎えてくれたが、少し疲れている様子も見て取れた。
アースは病棟にメティスを招き入れ、空いている会議室に入って話を聞いた。メティスは、椅子をすすめられると座って、静かに話を始めた。
「君はこの件について、どう考えている?」
「ケンとその兄のことか」
メティスは、頷いた。
「ゴロウ・コバヤシはおそらく産業スパイだと、カロンは言っていた。所持品を検査したら、東マリンゴート市内の工場の社員証が見つかったらしい。しかし、街の人の証言によれば、彼は白昼堂々とケン君を殴ったり蹴ったりしていた。スパイがそんな目立つことをするだろうか? 私が産業スパイなら、暗い路地にでも誘い込んでそこで殺すだろう。だけど彼はそれをしなかった。なぜだと思う?」
メティスがいったんそこで話を切ると、アースはメティスを、珍しいものを見る目で見た。
「お前、言うようになったじゃないか」
そう言ってアースは笑った。今までの疲れが吹っ飛んだ。そう言ってメティスの言葉にこう返した。
「メティス、ゴロウはケンを殺すつもりだったんだろう。ケンの傷を見ればわかる。あと一発食らっていたら死んでいた。だが、奴はケンには恨みはなかったはずだ」
「確かに、それはそうだが」
「白昼堂々ケンをなじったのは、わざと警察に捕まるためだ。そして、ケンを殺そうとしたのも、理由は同じ。東マリンゴートの警察にわざと捕まってまで、やることがあった」
「警察に捕まってまで、やること?」
アースは、頷いた。
しかし、それ以上何かを言うことはなかった。これを言ってしまえばメティスの身に危険が及ぶ。自分が常に傍にいてやれればいいが、そうはいかない。もしかして、中央を混乱させてメティスに恨みを抱かせ、その末にアースを国王の座に即位させたのも狙いがあったのかもしれない。まだ姿かたちもあらわさない人間たちの。
彼らはいまだ沈黙を続けたままだ。姿を現さないこともそうだが、その目的が分からないのも不気味だった。それに、彼らが誘導して起こしたと思われる何件ものこれまでの事件。それが、簡単に解決しすぎているのも気になる。あの包帯の男の件がなければ、事のほんの一端さえも見えてこなかった。
話題がそこで途切れたので、メティスはいったん話の方向を変えてみることにした。
「それで、ケン君は今どうしている?」
メティスが尋ねると、アースは少し険しい表情をした。
「まだ眠っている。ナギが来るのがあと一瞬遅かったら死んでいた。それだけ、深い傷を負ったということだ」
「そうか」
メティスは、そう言って膝に手を置くと、考え込んだ。自分はやはり何にもできない。この星のシリンでありながら何の役にも立っていない。それがもどかしかった。
そう考えてため息をついた。
そのときだった。
アースが、ふいに右手をあげ、何かを掴んだ。そして、座ったままそれをメティスの後ろに投げ飛ばした。そして、立ち上がると素早くメティスの後ろに回り込んだ。
メティスを守る格好で、アースはそこにある何かと対峙した。
「やはり、タダでは殺させてくれないか」
アースが対峙した『何か』は、そう喋った。先ほどアースがメティスの後ろに投げ飛ばしたのは、人だったのだ。
「狙いはメティスか、ゴロウ・コバヤシ」
アースはまだ、戦闘態勢を取っていない。メティスとゴロウの間に入りながら、丸腰で、ただ左手を上げてメティスをかばう格好だけ取っていた。しかし、ゴロウはそれなりに強かった。メティスから見れば目にもつかない動きで床を蹴ると、素早くアースの間合いに入り込もうとした。
しかし、その時、ゴロウの握ったナイフは、アースの間合いどころか、自分の蹴った地面から少しも離れていない場所で動きを止めた。
そして、もう一つのナイフがゴロウの手を止めているのを確認すると、アースとゴロウの間に入ったその人物の名を、メティスが呼んだ。
「エル」
エルは、ナイフを持つ手に力を込めて飛び退り、アースの横に立った。ゴロウはゆっくりと後ずさると、対峙する三人の人間のうちどこから攻めればいいのか考えに入った。
「神父のことは知ったことじゃない。でも、先生を攻撃する奴は俺が倒す」
エルがそう言うと、ゴロウは高らかに笑った。まるでエルを嘲笑するかのような笑いだ。
「聞いたか神父、この救護隊員はあんたを守る気がないぜ!」
すると、この中で最も冷静でいたアースが、ため息をついてゴロウを見た。
「警察がお前を逃がしたか。まあいい。ゴロウとやら、勘違いしてもらっては困る。マリンゴートの救護隊は神父を守る為にいるんじゃない」
アースのその言葉に、ゴロウの笑いは止まった。
「じゃあ、なんのためにいるんだ? まさか、都市国家内の人間を守る為にいるとか言わないよな? そんな高尚な目標を掲げていたって、神父の私兵なのは見え見えなんだよ!」
「私の私兵? 救護隊が? 誰がそんなことを言っていた?」
メティスは、またこう言った話題が出たことが少し怖くなった。中央ではメティスはどんな人物にされているのだろうか。強欲まみれの悪徳神父とでも呼ばれているのではないか。そうだったら、いわれもない敵意を向けられていることになる。そんな洗脳を国民に強いているのおは一体誰なのか、知りたかった。
だが、ゴロウは答えなかった。
すると、ゴロウのナイフの持ち方を観察していたエルが、こう呟いた。
「マスター・ソフィア」
その名を聞いて、ゴロウの目が迷いに曇った。
「やはりそうか。お前も」
そう言って、エルは戦闘態勢を解いた。ゴロウもやはり洗脳されているのだろうか。産業スパイにまで洗脳を徹底しているとなると、中央がメティスに向ける怒りは半端なものではないことになる。
「メティス、重要なのは中央じゃない。彼らを洗脳しているのはおそらく」
メティスの意を悟ったアースが言い終わらないうちに、ゴロウが動いた。ものすごいスピードでエルのもとに突っ込んできたものだから、一瞬アースは言葉を切った。
右腕に握っていたナイフを取り落とし、ひねりあげられてゴロウが声を上げた。アースが手を放すと、悔しそうに後ろに飛び退って行った。
アースは先ほど何かを言おうとした。しかし、それをゴロウが全力で阻止しようとした。
メティスにはそう見えた。だが、ゴロウの努力は失敗に終わった。
「東マリンゴートが危ない。お前に会わせたい人がいる。この件が落ち着いたら会いに行くが、いいか」
メティスは、頷いた。
東マリンゴートが危ない。
アースは、いったい何を知っているのだろうか。国王に即位してから、何を知ったのだろうか。
ゴロウが歯を食いしばっている。歯ぎしりの音がここまで聞こえてくるくらいだ。
「エル」
アースは、エルの名を呼んで肩に手を置いた。目の前のスパイを見据える。東マリンゴートの警察と、どのような関係があるのかは、カロンが調べてくれるだろう。とにかく今は目の前のスパイを捕えて調べることが先決だった。
「全力でいけ」
そう、アースが言い放つと、エルは音もなく地面を蹴り、あっという間にゴロウの間合いに入った。ゴロウはもう一つナイフを隠し持っていたが、それを出す暇もなく、エルのナイフに動きを封じこまれてしまった。アースが後ろに回り込み、ゴロウの腕をひねりあげて床に叩きつけた。ゴロウはしばらく暴れていたが、観念したのか力尽きたのか、しばらくすると動かなくなった。弱って行くのを待っていたのだろうか。アースがゴロウの鳩尾に一発入れると、そのまま気を失ってしまった。
ゴロウの身柄は病院で確保され、警察府に戻ることはなかった。舌を噛み切って自害しないように猿轡をかまされ、拘束具でベッドに縛り付けられることになった。その姿を見たら、ケンはどう感じるだろう。メティスは、まだ目を覚まさないゴロウの様子を見て、思った。
おそらく、ゴロウはエルのようにはいかないだろう。ゴロウの受けた洗脳はエルのそれとはレベルが違っていた。助けることは難しいのかもしれない。だが、メティスは助けたかった。ゴロウだけではなく、中央の人間すべても含めて。
それは、理想だった。人間が人間である限り、かなうはずのない夢であった。しかし、それが夢想であったとしても、願わない限りは近づくことはできない。
ゴロウはメティスを笑うだろうか。それとも純粋に憎むだけなのだろうか。ゴロウの姿をこれ以上みていることができなくて、メティスは部屋を出た。表にはアースがいた。何もなかったかのように普通に仕事をこなしている。ケンはまだ目を覚まさないのだろう。こちらに何も言ってこないのが証拠だった。
病院から出ると、出口にシリウスとネイスが待っていた。ネイスの退院が今日だったのだ。二人の退院を祝いに来たリシテアもそこにいた。
シリウスはメティスに軽く挨拶をすると、ネイスを連れてゆっくりと近づいてきた。リシテアも一緒だ。
「ケンの奴、災難だったな」
そう告げると、メティスにあるものを手渡した。茶色の大きな封筒だった。中には何枚かの文書が入っていて、細かく色々なことが書いてあるように見えた。
「いま、ここでこいつに渡されてさ。何かの報告書だから、読んでほしいってな」
シリウスは、そういってリシテアを指差した。すると、今までニコニコとしていたリシテアの顔に、暗い影が浮かんだ。そして、メティスの近くに寄ると、小声で話しかけた。
「今回は人をもっと使ったほうがいい。中央の今の政治を転覆できるような資料だ。僕も協力する。場合によってはシリウスやネイスも力になる。いいね」
それは、今までのメティスのやり方に対する警告でもあった。メティスは自分から積極的に人を動かそうとしない。しかし、周りはメティスや自分たちを守る為に勝手に動いている。このようなバラバラの状態では統率も取れるわけがない。誰かが、人を使わなければならない。もしそれがこの資料を渡されたものの義務ならば、それはメティスが託されたことになる。
リシテアは重要な資料をメティスに渡した。どう考えても統率力に優れるアースではなく、メティスに渡したのだ。それは、アースに再びあの哀しい瞳をしてほしくない、そんなメティスの願望を汲んだからかもしれなかった。
メティスはリシテアの目を見つめ返した。何かを言いかけたが、やめた。
リシテアが、そっと口を開く。
「一か月後にまた来る。その時までにどうするか決めておいてくれ」
そう言って、リシテアはネイスやシリウスに笑いかけた。そしてメティスの背を叩くと、去って行った。
「丸聞こえだっての」
リシテアの背中を見送りながら、シリウスがため息交じりに呟いた。
「ねえ、メティス、シリウスから聞いたんだけど」
ふと、ネイスが口を開いた。その瞳には強い意志が感じ取れた。冬の冷たい風にネイスのきれいな金の髪が舞う。
「アースを巻き込みたくないって、そう考えているみたいね」
メティスは、頷いた。
なるべくなら今回の件にアースは巻き込みたくない。せっかく地球からこの星に来てくれているのに、こういう言い方をするのもおかしいのだが。しかし、この暁の星のことは暁の星の人間で解決するべきだ。そう考えてもいた。しかし、ネイスはそれを否定した。
「メティス、この件はおそらく、アースがいないと、解決しない」
その言葉に、メティスもシリウスも目を丸くした。ネイスは今彼らがおかれた状況を見守っているだけの民間人のはずだった。彼女は一体何を知っていてこのようなことを言っているのだろう。アルバートの姉故なのだろうか?
「私がこんなことを言うのもおかしいわね。でも、アルバート・グレーンの姉として、私はこの都市国家連合のことを少しは見てきたつもりよ。それに、アースが国王になって、何がどう変わったのかも知っているつもり。だから、私にも意見をさせて」
ネイスは強い瞳を持っていた。そしてまた、広い視野も。やはり、一国のリーダーの姉となると、見ているものも持っている情報も違う。しかし、彼女には足りないものがあった。戦闘能力だ。
「しかし、君を巻き込むわけにはいかない。もしかしてこれは危険な文書かもしれないんだ」
「危険は承知の上よ」
そう言って、ネイスは雪が舞い始めた空を見た。ひとつ、ため息をついて目を閉じる。
「シリウス、メティス、私ね、アースに憧れていたわ」
「アースの奴にか?」
心なしか、シリウスの表情が曇った。明らかに、今のネイスの言葉でシリウスの嫉妬心が刺激されていた。
ネイスが頷くと、シリウスは口を尖らせた。それを見て、ネイスはくすくすと笑った。
「シリウス、憧れと言っても恋心じゃないわ。むしろ、あの洗練された強さが羨ましかった、と言ったところね。ただ強いだけじゃない。彼は生きとし生けるものがその根本に持つ最も優れた理性をコントロールしたうえで現れる、感覚的な強さも持ち合わせている。それを見つけて、ああ、ああなりたいなって思っていただけ。でも、私には無理だと思った。でもね、こんな力のない私にも守りたいものができたの」
「守りたいもの?」
ネイスは、頷いて頬を赤らめた。寒さのせいなのか、ただ照れているのか、その白い肌を紅潮させて、彼女はシリウスの両手を握った。ネイスの手は暖かかった。
「あなたよ、シリウス。私が守りたいのは、あなた」
すると、シリウスの顔まで紅潮した。これは確実に照れている。それが目に見えて分かって、メティスは嬉しくなった。
シリウスが、心配そうにネイスの柔らかい手を握り返して包み込んだ。
「守ってやんなきゃいけないのはこっちのほうだ。変なこと言うなよ。メティスが見てる」
シリウスの言葉に、ネイスがびくりとして、ゆっくりとメティスを見た。メティスはニコニコとして笑顔で二人を見守っている。
「私のことは気にしないで、続けて」
メティスはそう言うと、ネイスとシリウスの肩を叩いた。
これで励ましているつもりなのだろうか。どう考えてもひやかしているようにしか思えない。シリウスとネイスの目が座った。シリウスが、冷めた口調でメティスに告げた。
「お前のことはもう絶対守らねえ」
メティスは、執務室に帰るとすぐに例の封筒を開けた。
すると、そこにはリシテアが独自に調べた中央の情報が一覧となって書いてあった。ほとんどは中央の新進党と保守党のデータであったが、最も重要な部分は最後の報告書にあった。
それは、南部保守党の党首、ルーティン・カーランドの姉のことであった。
名はクリスティーナ・カーランド。もともとは保守党の議員であったが、今の保守党および中央マリンゴートの政治体制に異論を唱えたため、弟によって幽閉されていた。彼女はもともとリベラルな意見の持ち主で、東マリンゴートとの、話し合いでの問題解決を提案していた。そのため弟のルーティン・カーランドに捕えられたのだ。しかし、捕えたはいいが、カーランド党首に姉をけん制する力はなく、銃殺にまでは至らなかった。クリスティーナ・カーランドは幽閉された時点ですでに中央マリンゴートの人心の半数を掌握していたのだ。
この結果からわかることは、中央マリンゴートの人間の全てが洗脳されているわけではないこと、そして、東マリンゴートに敵意を持っている人間ばかりではないことだ。それに、クリスティーナ女史は、うまくいけば東マリンゴートの味方になってくれるかもしれない、という希望も持てる。クリスティーナ・カーランドという楔を中央に食い込ませることができれば、状況は一変する。
メティスは、この時点でクリスティーナ・カーランド女史を、中央から救出する作戦を立てることを決めた。
そして、その作戦に参加する人間の選別に入った。
ちょうど、全ての国家元首を招待して開かれる晩餐会が、テルストラの王宮の主催で開かれる。二か月後だ。リシテアはそれを知っていて、一か月後に来ると言ったのだろうか。
二か月もあれば万全な準備もできるだろう。リシテアが来るはずの一か月後には作戦に参加する人間の説得やスケジュールの調整も終わっていることだろう。
メティスは、少しほっとして資料を自分の机の引き出しにしまって鍵をかけた。
計画は綿密に立てて行かなければならない。リシテアはこの後どのような情報を持ってきてくれるだろう。それいかんで作戦も変わる。
しかし、今のメティスにはその前にやっておかなければならないことがあった。
ゴロウ・コバヤシのことと、アースの言った人間に会いに行くことだ。この二つは、大事な作戦の前にこなしておかなければならない。
そう考えていたその時。
部屋の戸をノックする音が聞こえたので、誰か、と聞いた。
すると、小さな声で外の人物はこう言った。
「ケンです。少しいいですか、神父さん」
メティスのもとに来たケンは、一人きりだった。
重傷を負った体はまだ治っていない。無理をしてここに来たのは明白だった。アースが手術で手を取られているから、病室を抜け出してくることができたと言った。
メティスはケンに、病院に戻るように言ったが聞かなかった。どうしても聞いてほしいことがあるからといい、メティスを押し切ろうとしていた。メティスは、いったん執務室のソファーにケンを寝かせて、病院に電話をかけようと机に向かった。しかしそのメティスの着ていた長い神父のローブの裾を、ケンが強く引っ張って止めた。
「神父さん、お願いがあるんです。これだけ聞いていただければ、僕は病院に帰りますから」
そのケンの意見を聞いて、あまりの必死さに気圧されたメティスは、ソファーに寝ているケンに毛布をかけてやり、話を聞くことにした。
ケンは、ありがとうございます、と言い、続けた。
「神父さん、兄、ゴロウのことで相談に来ました」
「ゴロウ・コバヤシのことかい?」
ケンは、頷いた。その顔はひどく曇っていて、瞳には何かにすがるような色があった。
ケンは、何かを決意している。それを伝えたくてここに来た。アースにも、ナギにも言えないこと。それを、メティスに相談に来た。その決意は重い物だろう。聞いているメティスは息をのんだ。
そして、そんなメティスに、ケンは一言、こう言った。
「ゴロウ・コバヤシは、殺してください」
ケンが姿を消した。
それを発見したのは、たまたま病院に居合わせていたエルだった。モリモトとともに救護隊の演習をしていた。そのためには病院に保管してある救護隊の担架やストレッチャーを出し入れしなければならない。そのついでに、モリモトの許可を得てケンの見舞いをしようとしていたところだった。
そして、ケンが姿を消したと同時に、ゴロウも姿を消した。彼を拘束していた拘束具はすべて壊され、ベッドも滅茶苦茶になっていた。なんという怪力、と、周りの医師や看護師は開いた口が塞がらなかった。同時に、あんな危険な人間を病院に放ってはいけない、そう言って病院を含むマリンゴート一帯に警戒令を出していた。手の空いているスタッフや演習中だった救護隊も、ゴロウの捜索に駆り出されることになった。
ゴロウは、すぐに見つかった。
病院を出てすぐの公園の噴水の前で、散歩していた若い母親と小さな子供を人質に、駆けつけた救護隊にこう言っていたのだ。
「神父を呼べ。そして、救護隊の手で殺せ」
救護隊はすぐに、隊長であるモリモトに連絡を取った。一般兵には判断ができない事態だったからだ。ここで神父を呼んでいいのか悪いのか、その判断はモリモトの手に委ねられた。
しかし、モリモトが来るよりも早く、神父が現場に着いた。
姿を現したメティスに、ゴロウは詰め寄った。アースが手術中でいないことは計算に入れていた。この神父は、アース・フェマルコートという存在がいなければたいしたことはできない。弱いのだ。だから、いま、ここで人質を取って脅せば簡単に自分の思惑通りに死んでくれるだろう。この偽善者はどこまでも偽善者だ。自分の偽善を証明するためなら何でもやる。人質のために死ぬこともいとわないだろう。
そう思った。
「おい神父」
ゴロウは、怯える人質のこめかみに拳銃を押し当てて、にやりと笑った。
「こいつらの命が惜しかったら、お前が死ね。救護隊のクズども、こいつを殺せ」
しかし、目の前の神父は堂々としていた。困惑することもなく、怯える様子もなかった。誰かに何かを相談したり、アースがいないどうしようといった、迷いのある瞳をしたりしているわけでもない。
これはゴロウにとって、大きな誤算だった。
かれは、ここに来る前に弟を襲っていた。それが大きな誤算を引き起こした。ケンはゴロウのことをよく知っていた。他人や周りの状況に流されやすい性格も、そして、何よりも誰よりも、母親を思う気持ちも。
そう、ゴロウは産業スパイになるときに、母親を人質にとられていたのだ。決して裏切らないように、彼のマスターである、マスター・ソフィアに従順であるように。
エルはすでに両親を殺されていたから、洗脳を解くだけでよかった。背景に人質はいなかったから、説得も容易だった。しかしゴロウは違う。
「ゴロウ・コバヤシ」
人質の母子を必死に捕まえているゴロウに、メティスは静かに言い放った。
「私を殺しに来なさい」
すると、何を思ったか、ゴロウは人質から手を放し、解放した。
ゴロウの目的は、人質を殺すことではない。神父メティスを殺すことだ。その神父が自分を殺しに来いと言った。丸腰で。ならば人質は必要ない。そう判断した。
メティスは、救護隊にここから離れるように言った。救護隊の兵士は、神父さんに何かがあってはいけない、と、下がるのを拒否したが、メティスのこの言葉で撤退を余儀なくされた。
「君たちが守るのは私ではない。市民だ」
メティスのその言葉によって、この公園にいるのはメティスとゴロウ、二人だけになった。ほかには本当に誰もいない。シリウスが隠れているわけでもないし、アースが駆けつけてくれるわけでもなかった。エルもモリモトも救護隊だ。今の状態には手出しができない。
ゴロウは強い。いとも簡単に拘束具を壊して、ここまで来た。エルにかなわなかったメティスが簡単に勝てる相手ではない。誰も助けが来ないこの状況で、メティスは確実にゴロウを殺さなければならなかった。
そのことでゴロウやケンの母親が救われるかどうかは分からなかった。しかし、少なくともゴロウはマスター・ソフィアを裏切ったわけではない。だから、すぐに殺される確率はこれで少なくなる。
メティスは、右足を後ろに少し下げた。ゴロウが戦闘態勢を取ったからだ。メティスには、アースのような、戦闘態勢をとらないまま動きを抑えて相手を倒せるほどの強さはない。だから、身構える必要があった。
メティスが身構えるとすぐに、ゴロウがメティスの間合いに入ってきた。右手にナイフを握っている。メティスは精一杯の速度でそれを避けた。すると、その速さを制御できずに右側に大きくよろけてしまった。自分の力の制御ができていない。思ったより速く相手の攻撃を避けることができた。メティスは自分の能力にようやく気が付いて、よろけた足を踏ん張って地面に倒れこむことを防いだ。しかし、その動きに隙ができてしまい、ゴロウの次の攻撃がメティスを襲った。ナイフの切っ先が右足の太ももに襲い掛かる。それを防ごうとして、メティスはとっさに右手を前に出した。
ナイフは、メティスの腕をかすめ、傷を作った。鮮血が地面に落ちる。ゴロウがにやりと笑って次の行動に移る。しかし、メティスもそう簡単にやられるわけにはいかなかった。懐に飛び込んできたゴロウのナイフを、手首ごと掴み上げたメティスは、精一杯の力でゴロウを投げ飛ばした。ゴロウは空中で体勢を整えて、地面に手をついて着地した。二人の間合いが再び開いた。
メティスは、息を切らしていた。ゴロウのあのナイフを奪わないことには、彼の息の根を止めることはできないだろう。ゴロウはメティスを殺すことしか考えていない。もしかして、自分を守ることなど頭にないのかもしれない。
メティスがそう考えていると、すぐにゴロウは動いた。考える暇も与えられないまま、メティスは応戦した。そこらじゅうに傷を作りながらも、メティスは少しずつゴロウとの実力の差を縮めて行った。
そしてついにメティスは、疲れを見せてきたゴロウの腕から、ナイフをもぎ取った。その後は、時間が経つのが早かった。
メティスはナイフを取り戻そうと躍起になって向かってくるゴロウの攻撃をかわし、その隙に後ろに回り込んで、背中からナイフを突き刺した。
ゴロウが、口から血を吐いて倒れた。
ナイフは、心臓を一突きしていた。
メティスは、自分のしたことをそこではっきりと見た。人を一人殺した。
生きることに必死な人間を一人、殺してしまった。
「ゴロウ」
メティスの目から、涙が伝った。
「君を助けられず、すまない」
メティスは血にまみれた手で、ゴロウの亡骸に触れた。本当ならばそんなことをする資格などない。だが、今のメティスにはそんなことを考えている余裕はなかった。
メティスは、その場に泣き崩れた。声を殺して泣いた。
すると、嘆いているメティスの背中に、そっと触れる者がいた。
「メティス」
声がかかって、メティスはゆっくり立ち上がり、その声の主を見た。
そこには、アースがいた。
「こんなことをさせてしまって、すまない。これは本来俺の仕事だった」
アースは、哀しい瞳をしていた。自分だったら、このようなことには慣れている。人を殺すことはおろか、傷つけることも避けているメティスにこのようなことをさせてしまった。そのことが彼の後悔を呼んでいた。
しかし、メティスは首を振った。アースは、医者だ。人を助ける人間が殺しを得意としているなんてことはあってはならない。その矛盾から彼を解き放つことができただけ、今回のメティスの苦しみには大きな意味があった。
本来ならば聖職者であるメティスにも人殺しはご法度だった。誰だってそうだ。殺人は何も生まない。ただそこに悲しみや怒り、憎しみと言ったマイナスの感情を置き去りにしていってしまう。
本当にこんな形でしかゴロウは止められなかったのだろうか。
メティスは自問した。
戦いにおいて技量の高いアースなら、殺さずにいられただろうか。しかし、殺さずに生かしておいたところで彼は救われただろうか。
きっと、それは、ゴロウ本人にしか分からないのだろう。
「アース、ケンとゴロウの母親は、救出しよう。彼らがゴロウの死に気づく前に」
涙を拭ったメティスの言葉に、アースは頷いた。
そして、モリモトやエルをはじめとする救護隊を、すぐに動かした。自らも作戦に参加してゴロウやケンの母親の救出に当たった。
ゴロウが母親とともに暮らしていた家の見当はついていた。コバヤシという姓は中央では珍しい。移民の姓だからだ。移民であるゴロウが、原住民主権の都市国家のスパイをやらされていたのだからやりきれない。
母親は、すぐに救出された。ゴロウの死を知らされ、自分が東マリンゴートに保護されることを知っても、抵抗はしなかった。自分が人質にされてゴロウが動いていたことを薄々ではあるが知っていたからだ。
ケンは、母親が救出されてからしばらくして、退院した。その間の二週間、彼は病院にいたため、他の場所で何が起きていたかは知らなかった。しかし、その出来事はケンにとってさほど重要なことにはならなかった。
退院して、ケンはすぐに自分の居室に母を呼んだ。一緒に住もうと誘ったのだ。しかし彼女は断った。ケンにも、そして東マリンゴートにも、随分と迷惑をかけてしまった。その気持ちが強く、なかなかケンの誘いに乗ることはできなかった。
しかし、神父メティスが訪ねてきて言ったこの一言で、彼女はケンとの同居を決意した。それは東マリンゴートの神父であるメティスならではの言葉だった。
「人間は正義のために人を殺すことがあります。しかし我々はそれを正義とは認めない。どんな理屈で行われる正義も、そこに殺人が横たわっている限り崩壊するからです。お母さん、ケンはお兄さんの正義を守ったんですよ。我々が罪を負うことで、あなたが殺されるのを防いだ。もし、あなたに少しでも母親としての心が残っているのなら、ケンを救うことでその意思を示してください」
ゴロウの火葬が終わってから三日が経った。
まだメティスの心の傷は癒えていなかった。そんなメティスに、アースは気分転換をしようと、ドライブに誘った。アースはこの暁の星に来てすぐに車を購入した。良く目立つ赤い車で、本人が言うには駐車場で自分の車がすぐわかるようにこの色にしたという。マリンゴートは大型の商業施設が多い。複合型のショッピングモールも多数あった。広く、車の台数も多い駐車場で目立つというのはある意味合理的な考えなのだろう。
気晴らしには、エルも誘われていた。特に、メティスとエルの関係を考えたと言った意図はアースにはなかったが、もともと犬猿の仲である二人は、車中では気まずい雰囲気になっていた。アースがこのドライブにエルを誘ったことに意味はあったが、気まずい雰囲気になることまでは考えていなかった。後になって思い出して、しまった、と呟いていた。
車内の気まずい雰囲気を打開するため、アースはいったん車を複合商業施設のある駐車場に停めた。そして、あるコーヒー店に二人を連れて行った。
「ここのラテアートは凄いんだ。だいたいの注文には応じてくれる」
いつも忙しくしているアースが、なぜこんな場所を知っているのか、二人は疑問に思ったが、言われるがままにカフェラテを注文してみた。
アースは店員に何かを耳打ちしていたが、メティスは、バラの花の、エルはこの土地特有の白い蘭の花のアートを注文した。目の前で店員が作ってくれるラテアートは確かに素晴らしく、二人はじっとそのアートに見とれていた。アースはカフェラテを頼まずに、他のドリンクを注文していた。メティスのラテアートを見て、エルは眉をひそめた。
「キザったらしい花を注文するんだな、色男」
そう言って鼻で笑った。すると、メティスは、自分の好きなバラの花をバカにされたのが少し悔しくなって、エルをけん制した。
「この花は、先代のブラウン神父が品種改良を重ねてこの土地に根付かせた希少な花だ。いわば、私と先代を繋ぐ大事な花なんだよ。しかし君のその蘭はなんだね。このバラに比べると随分幼稚なようだが」
「なんだと!」
エルはそう言って顔を真っ赤にした。怒りで今にも脳みそが沸騰しそうだった。
「これは、モリモトさんが大事に育てている花だ! バカにしたら許さない!」
「モリモトさんが、花をねえ」
メティスがそう言って腕組みをしてうんうんと頷くと、よけいに腹が立ったのか、エルは熱いカフェラテをぐいと飲み干して、使っていないスプーンでメティスのラテアートをぐちゃぐちゃに崩してしまった。
「何をする!」
次に怒ったのはメティスのほうだった。
アースはそのやり取りを見て、腹を抱えて笑ったり吹き出したりしていた。それを見た二人は一緒になって頭を噴火させ、アースの頼んだドリンクを取り合って飲み始めた。
しかし、そこで二人の怒りは収まった。
非常に不味い飲み物を口の中に入れてしまったからだ。
メティスとエルは、吹きこぼさないようになんとかその飲み物を口に入れたが、二度とそれを飲もうとはしなかった。
「なんてものを飲もうとしていたんだ、君は」
あまりの不味さに咳き込みながら、メティスが言った。
「わざとじゃないのか、先生、なんでこんなことするんだよ」
涙目で、エルが言った。
すると、アースはその飲み物を平気な顔で飲みながら、こう言った。
「さあ、飲み終わったのならここを出るぞ。目的地まではそう近くはない」
アースのその行動に、二人は開いた口が塞がらなかった。どういう味覚をしているのだろう。アースが残っていた飲み物を飲んでしまうと、彼を除く二人は疲れた表情で外に出て、車に乗った。
それからの道程は、気まずい雰囲気も消え、ただ無言で助手席と後部座席に座るメティスとエルの微妙な空気で進んでいった。
町を抜け、広い草原を貫く一本の長い道に出ると、メティスはアースに行き先を尋ねた。これはただの気晴らしのドライブではないのだろう。エルを連れてきているのがその証拠だった。
すると、アースはこう答えた。
「お前に会わせたい人がいると言っただろう。エルにもだ」
メティスが納得し、エルが目を丸くしていると、すぐに目的地に着いた。
草以外何もない草原の中に一つ、大きなボールが浮かんでいた。その近くにアースは車を停めた。ボールはかなり大きかった。とはいえドームのようではなく、宙に浮いた一軒の家程度の大きさだった。アースはそのボールに近づくと、そのちょうど下にあるポストのようなものについている丸いボタンを押した。すると、すぐに丸い家のようなものの側面に四角いドアのようなものが現れた。ドアが開くと、そこから階段が下りてきて、中に住んでいるであろう人間の声で、どうぞ、と一言かけられた。困惑する二人を連れて、アースが階段を上って行く。メティスとエルは顔を見合わせて不思議なものを見るように少しずつ、階段を上って行った。
中に入ると、一人の人物が三人を待っていた。
その姿を見て、メティスは、あっと声を上げた。
そこにいたのは、メティスの父である、ウェイン・ランダーだったのだ。
「父さん、どうしてこんなところに?」
メティスの問いに、ウェインは何も答えなかった。そのかわりにアースが事情を説明した。
ウェインはテルストラの復興に誰よりも尽力した。そのおかげで首都テルストラは新しく生まれ変わった。復活したのではなく生まれ変わったのだ。国王を再び据えることのできるシステムを擁しつつ、以前に比べて明るく清潔感のある街になった。交通機関や商業施設も整備されていた。広い土地を活かして郊外型の店舗を展開している東マリンゴートとは違い、テルストラは狭い。なので、地上から上に伸びる高層ビルや地下街が発展していった。
そして、そのころにはもう、もうその街にはウェインの力は必要なくなっていた。
ウェインは滅びた都市を新しく生まれ変わらせた。しかし、新しい都市にはもう住めない。役割が終わってしまったのだ。実際、かなり都会化されたテルストラにはウェインは合わなかった。静かな場所を好み、一人でいることも好んでいた。それに、いつまでも自分の作ったものにこだわっていたら、愛着がわいてしまう。そうなればそこから離れられなくなってしまう。だから、ここに移り住んだ。
アースは、そのウェインにメティスを会わせた。ウェインはこの暁の星に三つある月のうち、一つの月のシリンだ。そして、エルもまた月のシリンだった。三つある月のシリンはメティスの妹たちを加えて、全て揃っていた。
「それで、君が私を父に会わせたかった理由とはなんなんだ?」
メティスはため息をついて、アースを見た。エルも同じような表情をしている。いまさらこの星の月がここに集ったからと言って、何の意味があるのだろう。
「メティス」
そう言って、立ち上がったのはウェインだった。
「それは私が話そう」
そう言って、ウェインは丸い形の家の真中にあるテーブルとソファーに三人を誘った。コーヒーを淹れながら、話を始める。
「国王陛下に、ここに来てほしいと頼んだのは、私だ、メティス。第三の月が見つかったが、彼はシリンとしての自覚がない。その話を聞いて、エル、君の目覚めを促してやろうと私が提案したのだ。月のシリンの目覚めにはこの星のシリンの存在が不可欠だ。だからメティスとともに来てもらった」
「俺が、目覚めること?」
怪訝な顔をして、エルが尋ねた。
「そうだ。月のシリンが目覚めて記憶を取り戻すことは重要なことだ。そして、今日はメティス、お前に重要なことを告げようと思う」
「私に?」
「そうだ」
そう言って、淹れ終わったコーヒーをウェインはテーブルに置いて行った。
「陛下、もう一度確認いたしますが」
ウェインが、今度はアースに尋ねた。ほかの二人はコーヒーに手を付けていたが、アースは手を付けていなかった。ウェインはそれに苦笑いをした。アースは猫舌なのだ。
「メティスとエル君は犬猿の仲なのですね」
「ああ。特にエルのほうがメティスを嫌っているな。メティスはさほどでもない」
「ならば」
そう言って、ウェインはエルとメティスを見た。自信に満ちた笑みを浮かべると、両方の手で拳骨を作り、それを胸の前でかち合わせた。
「二人を戦わせましょう」
ウェインの提案で、メティスとエルが戦闘を行うことになった。アースが間に入り、殺し合いになる前に阻止することになった。二人の怪我の治療もアースが行う。エルは、やる気に満ちていた。今までボコボコにしてやりたいと思っていた相手を思い切り殴れるからだ。殺したいとは思っていなかった。いまはもう、エルは洗脳が解けていた。神父のことが憎いわけではない。しかし、そのスカした態度が気に入らなかったのだ。
一方、メティスにやる気は見られなかった。ただ、自分が戦うことでエルのガス抜きになるのならそれでいい、そう言った態度だった。
十分な間合いを取って向かい合う二人の真中にアースが立った。近くでウェインが見守っている。二人の戦闘意欲が十分になったとき、つまり、殺気が少しでもメティスに沸いたところで、アースは合図をした。
ものすごいスピードで間合いを詰めてきたエルの攻撃を、メティスはかろうじて両手で受け止めた。その後しばらくメティスは身を守るだけで精いっぱいだった。しかし、そう負けてはいられなかった。ゴロウ・コバヤシとの対決で、メティスは少し強くなった。今ではエルと互角に戦えるだろう。アースはそう見越していた。
その思惑が当たり、しばらく防戦一方だったメティスが攻勢に出た。アースから見れば素人の戦いだったが、それでも十分な気迫は感じられた。メティスは決して弱いわけではない。戦いが嫌いなだけなのだ。
相手が自分と互角だと知ったエルは、いったん攻撃から手を引いた。メティスが息を荒げて膝に手をついた。両者ともかなり疲れている。あと数分で決着はつくだろう。
アースもウェインも、そう踏んだ。
その時、エルが戦闘態勢を維持したまま口を開いた。
「俺は、お前を認めない。俺がこの星の月なら、この星のシリンは俺より強いはずだ。なのに、この俺を簡単に倒せない」
「それは、君が月だからだ」
メティスが返した。
「君が月だから、私の能力をコピーできる。その顔だってそうだろう」
「この顔!」
エルは、そう言って自分の顔をひっかいた。
「この顔は俺のものじゃない! 俺の父さんと母さんがくれた顔は、こんなんじゃなかった!」
そう言って、エルはメティスに襲い掛かって行った。殺気がみなぎっている。メティスがまた防戦に入った。かなり疲れている。エルは攻勢を強めながらメティスを罵り始めた。
「あんたがいなきゃ、こんな顔にはならなかった! 俺はこの顔が大嫌いだ! あいつらの支配がまだここに残っているんだぞ! そんなお前と慣れあいなどできない! 消えろ神父!」
その言葉を聞いて、メティスの殺気が消えた。
「まずい。陛下!」
それを見ていたウェインが二人を止めようと走り出した。しかしアースはそれを制した。
「大丈夫だ。見ていろ」
ウェインとアースが見守る中で、エルの拳がメティスの顔を殴った。一発殴られたメティスは、二発目の拳をなんとか受け止めた。
「エル、君の言いたいことはそれだけか」
それを聞いたエルは、歯を食いしばった。言いたいことは大体言ってしまった。そもそも神父に対しては大した恨みなど持ってはいなかった。だから、これ以上は何も出てこなかった。
メティスは、エルの全てを受け止めた。戦っている間は防戦一方だった。たまに攻勢に出ても大してダメージを与えているわけではなかった。それは、決してエルに対して手加減をしているわけではない。戦うものとしてのメティスの技量ではそれが精いっぱいだったのだ。
エルは、それを悟って拳を引いた。その時だった。
エルは、頭を抱えてメティスの元から飛び退り、激しく頭を振った。
「なんだこれは」
そういって、頭を抱えたまま地面に座り込んだ。苦しそうではなかったが目を見開いている。そして、ひと粒の涙を流し、凍った地面の雪を溶かした。
「そうだ、俺は、月。そして、ウェイン、あんたは」
エルが、月としての記憶の一切を取り戻した、メティスの拳に直接触れることでエルの脳内に様々な情報が入って行った。そして、月としての記憶を取り戻し、また、自分の役割をも思い出していたのだ。
エルは、ウェインを見た。
その様子を、メティスは不安げな表情で見つめていた。何かがある。エルとウェインの間には自分の知らない何かがある。
そんなメティスを尻目に、エルは言い放った。
それは、メティスをめぐる事実の中でも、悲しい事実の一つであった。
ウェインの瞳が曇る。
「ウェイン、あんたは残月だ」
残月、それは、夜に沈むことができず真昼に残ってしまった月。
地球でも見かけるが、月が三つもあるこの暁の星では、ほぼ当たり前の現象だった。
しかし、シリンの間での『残月』は、意味が異なっていた。それは、本来あってはならない月。月のシリンとして存在してはいるが、成立はしていない、その状態のことを示していた。
メティス達がウェインの元を離れるとき、エルはウェインにこう言った。
「あんたがこの先どうなるかは分からない。だけど、あんたができないことを俺はやれる。神父と東マリンゴートは俺が守るよ」
教会に着くまでの間、道中では三人は無言のままだった。誰も何も言えなかった。アースはウェインが残月であることを知ってはいたが、誰にも告げていなかった。エルが目覚めることで明らかになったが、そんな事でもない限り口外するつもりはなかったのだ。
教会では、カロンが皆を待っていた。
その報告では、警察府にも中央のスパイがいて、その人間がゴロウを逃がしていたのだという。すでにそのスパイは捕えられて本国へ送り返された。中央のことだ。おそらくこちらで処刑しなくても恐ろしい目に遭っている事は確かだろう。
カロンは、その報告だけ終えると、警察府へ帰って行った。
三人は教会へ着くといったん離ればなれになった。アースは明日から国王としての公務でハノイに行かなければならない。メティスは、クリスティーナ・カーランド女史の救出作戦を立てなければならなかった。エルはこれからモリモトとともに救護隊の演習がある。それぞれが、それぞれの持ち場に帰ると、いつものように時間が流れはじめていた。
そして、その四日後。
メティスのもとにリシテアが訪れた。カーランド女史のこととで、メティスがどういう決断を下したのか知るためだ。
メティスは自分の執務室にリシテアを招き、クリスティーナ・カーランド女史救出作戦の立案を提案した。リシテアは難しい顔でそれを聞いていたが、作戦に参加する人間すべての了解が得られたと聞くと、どこかで納得したような表情をした。
「リシテア、カーランド女史の居場所は分かっているのか」
メティスが尋ねると、リシテアは頷いた。
「カーランド女史は中央から追放されている。居場所は、今度王宮主催の晩餐会が行われるハノイの中央公会堂の地下室らしい」
「なぜそんなところに?」
メティスの問いに、リシテアは身を乗り出して答えた。
「宝石を隠すなら、宝石の中だろう。まさかそんな場所に政治犯がいるとはだれも思わないさ。どうだ、これで君の作戦は固まったかい」
メティスは、頷いた。
「だったら当初の予定を崩さずに行ける。まず、アースには通常通り晩餐会に出てもらう。ネイスもだ。アースの護衛には警察のカロンと救護隊のエルについてもらう。護衛としてだから、堂々と晩餐会には参加できる。ネイスの護衛にはシリウスについてもらおうと思っている。晩餐会はそつなくこなしてもらい、その終わりの時に救出作戦を行う」
「会場は混乱しないかい?」
「しないように、素早く事を運ぶ必要があるね。その辺は、マスコミ関係者である君にお願いしたいんだ。タイミングを見計らって、何かのスキャンダルをでっち上げて会場を騒がせてほしい」
「スキャンダルね」
リシテアが、苦笑した。スキャンダル関係の取材や報道は得意なほうではない。だが、会場を騒がすのに最も有効な手段である事は確かだった。
「わかった、考えておくよ」
そこで、作戦の会議は終わった。
リシテアはメティスに別れを告げ、その足でアースのもとへ向かった。連絡を入れたら病院の休憩所にいるからそこに来てほしいとのことだった。今日は一日休みを取ったから病院には出ない。だからと言って宿舎に帰るつもりもなかったからそこにいるのだという。
アースに会うと、リシテアは開口一番、こう言った。
「アース、クリスティーナ・カーランドを救出することがどういうことか、分かった上での作戦への参加かい」
その質問に、アースは、頷いた。
「どのみち、あれが表に出ないことには話にならないからな」
「そうか。そうだね」
リシテアはそう言って、肩をなでおろした。アースはすべてを解決に導くために動いているのだろう。だったら余計なことはしなくていい。メティス、アース、ふたりの指示通りに動く過程で自分のやれることをやるだけだ。
リシテアは、アースに、ちゃんと休むように告げてその場を去った。
雪が積もっている地面はどこまでも真っ白だった。冬も、あと二、三か月で終わりを告げる。そのあとはまた暑い季節がやってくる。この都市国家の問題はいつ、終わりを告げるのか。その答えを自問自答しながら、リシテアは、雪の積もった森を抜けて街に戻っていった。
テルストラ王宮主催の晩餐会。
それはこの都市国家連合で久しく行われていなかった、セレブ達の祭典だった。各都市国家連合の重要人物が集められ、立食パーティーに出席する。今回の晩餐会は舞踏会も行われるため食事はテーブルで行わなかった。国王であるアースとその護衛であるカロンとエルは、立食をしながら各人の踊りを見ているというスタイルで、国王自ら踊りに出ることはまずなかった。だいたい、アースは踊りが苦手だ。特にこういった場所でのあらたまった踊りは好んでやるほうではなかった。
アースとエル、カロン、賓客であるネイスとシリウスは、イヤリングやピアスの形をした無線通信機をつけていた。同じく賓客として招かれたメティスの指示を仰ぐためだ。今回の作戦の立案者はメティスだ。彼の判断にすべては委ねられていた。
会場は大きな吹き抜けのあるドーム型の施設で、広い天井はガラス張りだった。冬の短い昼が終わりをつげ、凍てついた大地を包む澄んだ空気は、そのガラス窓にきれいな星空を映し出していた。
食事中には、いろんな人間がアースのもとへやってきた。エルはこのような場所での作法をあまり知らない。誰が来ても動じない自信はあったが、いざ、握手や挨拶を求められると、戸惑ってしまった。それを見ていた客たちが、かれを「可愛い」と言い、共に踊ることを求めてきた女性もいた。アルバートもこの宴には出席していたが、メティスから今回の作戦の概要を知らされていたため、何も口出しをすることがなかった。
そのアルバートの姉・ネイスは、積極的にシリウスの手を取って踊りに参加していた。少々酒が入っていたためか、気分がよくなっていて、踊りながらシリウスと軽い会話を交わしていた。
一方、シリウスのほうはこういった場所の正装に慣れていなかったため、躓きながら踊りを踊っていた。たまにネイスのほうに寄り掛かることがあったため、薄着になって胸の開いたドレスを着ているネイスの胸が目に入り、顔を紅潮させては咳払いをしていた。
「緊張しているあなたも、かわいくて好きよ」
ネイスはそう言うと、シリウスを誘った。腕をすっと伸ばしてシリウスの背中まで回すと、踊りの途中にもかかわらず抱き着いてきた。会場からは歓声が上がり、拍手をする人間もいた。
「や、やめろよ。お前相当酔っているだろ」
「ほろ酔い程度よ。それより、今日は問題児もここにきているみたいね」
「問題児?」
二人の会話は、無線機を通してメティスやほかのメンバーに漏れていた。こういう時は電源を切ってほしいものだと考えていたメティスだったが、問題児と聞いて、何のことだろう、と、耳をそばだてた。
「ケイトちゃんよ。いえ、ケイトちゃん自身より、一緒にくっついているメアリーちゃんのほうが厄介ね。ここで騒ぎ出すと厄介よ」
ケイトと、メアリー!
メティスは、その名前を聞いて、気を失いそうになった。
彼女らは、メティスの双子の妹だ。地球に修行に出したはずなのに、どうしてこんな場所にいるのだろうか。疑問に思っていると、メティスの左右に、何か気配がした。左右を見てみると、あどけない表情をした、高校生くらいの少女が二人、メティスのほうを見て笑っていた。二人ともメティスと同じきれいなプラチナブロンドで、一人は元気のよさそうなショートカット、もう一人は清廉なイメージのロングヘアの髪の毛をアップにしてリボンで結んでいた。メティスはあっと声を上げて後ろに飛び退った。
「メアリー、ケリー」
二人の名前を呼ぶと、早鐘を打つ心臓に手を当てた。突然のことにびっくりして言葉がうまく出てこない。
「ただいま、兄さま」
ショートカットのメアリーのほうが、にこりとして兄に挨拶をした。そして、もじもじしているケリーの背中を押して、兄のもとに一歩、踏み出させた。
「何しているのよ、ケリー。兄さまに失礼じゃない」
「で、でも」
言葉を濁らせて、恥ずかしそうにケリーはメティスから目をそらした。
「あまりに久しいので、何を話したらいいのかわからないわ」
すると、メアリーがあきれたものを見るような目でケリーを見た。
「まったく、これだからあの女になめられるのよ。もうちょっとしっかりしなさいよ」
「あの女?」
メティスが尋ねると、メアリーが頷いた。
「兄さま、地球では新しい惑星間渡航者が登録されました。名をドロシー・グラデアスと言います。頼れる女性です。彼女の転移によって私たち、ここに来ました。あの女との決着をつけるために」
「決着って、どういうことだい?」
「決着は決着です。兄さまに直接は関係ありませんが、ここは協力していただきます」
「協力って?」
いったい何がどうなっているのか。訳が分からなかった。しかも、メティスは突然のことで無線のスイッチを切ることを忘れていた。会話は周囲どころか、少し離れた場所にいる仲間にも丸聞こえだった。
「ケイト」
胸を張って、メアリーがケイトの背中を押した。
「兄さま、あの女はこの子を何度も泣かせたんですよ! 許せることではないわ!」
「ケイトを泣かせた?」
メティスが怪訝な顔をして尋ねると、メアリーは強く頷いた。
「この子、フォーラさんっていう壁が厚すぎて、いつも泣いているの」
すると、今度はケイトがメアリーのドレスの裾を引っ張って、顔を紅潮させた。
「やめて、メアリー。これは私が勝手に」
「そんなことないでしょ。好きになっちゃったものはしょうがないじゃない。ちゃんと気持ちを伝える前にあきらめるの?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。それは、ケリーがフォーラさんに恋心をってことかい? それなら兄さんはそれを全力で止めなければならないんだが」
「え?」
メティスの言葉に、メアリーはぽかんと口を開けた。そして、次にはまた、あきれたような物言いで笑ってこう言った。
「違うのよ、兄さま。ケリーったら、横恋慕しているの」
「横恋慕?」
メティスが驚きの声を上げると、ケリーが困った顔で回りを見た。
「やめて、メアリー。こんなこと、知られてしまったら私」
いいかけて、ケリーはふと兄を見る。メティスは、青ざめた顔をして、ピアスのついた耳に手を当てて、一言、小声でこう言った。
「逃げろ、アース」
すると、一部始終を聞いていたアースからは、メティスの通信機に向かってこう返ってきた。
「逃げ場なんてあるものか。女のことはお前のほうが得意だろ。どうにかできないのか」
「そんなことを言っても、私に変な女癖はないよ。とにかく、妹たちはそちらに向かわせる。これは君の問題だろう。君が解決するのが筋だ」
「ま、待てメティス。お前、親友を見捨てるのか!」
「今回は見捨てる。後でちゃんと説明をしてくれよ。私の妹を泣かせたんだからな」
メティスは、そう言っていったん通信を切った。そして、妹二人にアースの居場所を伝えると、いまだにくっつきあっているネイスとシリウスの様子を見にダンスエリアへと戻っていった。
メティスの妹たちは、兄の言ったとおりにケリーの横恋慕の相手のほうへと向かった。しかし、途中でケリーが足を止めた。
「メアリー、やっぱり私」
そう言って、肩を震わせた。何を言っているの、メアリーがそう言おうとしたその時。
二人の前に、ずいぶんと胸の開いた赤いドレスを着た女性が、すっと出てきて立ちはだかった。赤い印象的なドレスをまとったその女性は美しいブロンドをたたえ、見栄えのいい大きな胸を張って二人の間に入ってきた。
「地球での問題を、この星にまで持ち込むのは感心しないわよ、メアリーさん」
その女性を見るなり、メアリーは、舌打ちをしてじりじりと後退していった。逆に、ケリーがメアリーの前に出てかばう形になった。
「ここがどんな場所で、いま、どんな状況になっているのか、考えなさい。一時期の感情に流されて、この星の重要な決断を台無しにするのが、あなたたちのやり方なの?」
「でも」
メアリーが、ケリーの陰でつぶやいた。彼女は、目の前にいる女性が苦手だった。ゆえに、ケリーの陰に隠れて彼女のことを「壁」と呼んでいた。しかし、ケリーから見ればその女性は壁でもなんでもなかった。自分と感情や気持ちを共有できる存在。そう思っていた。
「すみません。私が頼りないばかりに、あなた方に迷惑とご心配をかけてしまいました」
ケリーが謝ると、女性は、双子を見比べて、笑った。
「分かってくれたならいいの。さあ、そろそろ帰りましょう。私たちの存在を他の人に知られる前に。でもすこし」
そう言って、女性は立食を楽しんでいるセレブ達のほうを向いた。
「少し、おなかがすいたから、腹ごしらえをしてから帰りましょうか」
胸の大きな赤いドレスの女性が、双子の姉妹を連れて立食会場に行くのを、いまだにダンスをさせられていたシリウスが確認した。シリウスはダンスを繰り返すうちに、どんどん上達してきて、ネイスの胸の谷間に目をやることが少なくなってきていた。
ネイスは、赤いドレスの女性を確認すると、メティスのほうを向いて耳に手を当てた。メティスはそれに気が付いて、通信機のスイッチを入れなおした。そして、つぶやくようにこう言って優しく笑った。
「事態は収拾した。王妃はやはりお強いと見た」
事態がいったん終息し、皆が食後の酒を楽しむようになると、アースは少し風に当たりに行くと言ってバルコニーに出た。もちろん、エルとカロンもくっついて行った。そのころにはもう、会場に赤いドレスの女性も双子の姉妹もいなくなっていた。
バルコニーからは雪に埋もれたハノイの街並みが一望できた。この公会堂は街中ではなく大きな丘の上に作られている。街からも丸見えだが、こちらからも町全体を見下ろすことができた。アースは星空を見上げてため息をついた。
「窮屈なものだな、こういうのは」
すると、カロンが横にやってきてバルコニーの手すりに肘を乗せた。
「早速音を上げたのかい?」
カロンはそのまま続けた。
「でも、これはこの都市国家連合が望んで手に入れた姿なんだ。君は今その象徴なんだよ。この程度で音を上げてもらっては困るな」
「そうはいってもな」
アースはそう言って何かを言いかけた。だが、それをすぐにやめて、外を見ていた目を公会堂の建物のほうへ戻した。
「エル」
公会堂の建物の近くにいたエルを呼ぶ。するとエルは何も言わずに動いて、閉まっていたバルコニーの扉を開けた。
するとそこに一人の男が立っていた。よくテレビで見る顔だ。見覚えがある。
「エドガー・オリンフェスト」
名を呼ばれ、男は少しうろたえた様子でそこにいた面々を見た。おそらくアースに会いに来ようとして、ドアを叩こうとしていたところだろう。その気配を読まれて扉を開かれたものだから、うろたえていたのだ。
「こんなところに何の用です?」
カロンがアースの代わりにエドガーに尋ねた。すると、彼はこちらに進み出て、アースの前に片膝をついて礼をした。
「中央マリンゴート北部新進党党首、エドガー・オリンフェストです。お初にお目にかかります。以後お見知りおきを」
ひとかどの挨拶を終え、エドガーは床に目を落とした。緊張している。しかし、エドガーは一体何の用でここに来たのだろう。カロンの問いには答えていなかった。
「陛下」
エドガーに無視されたことでカロンは少し機嫌が悪くなった。自分の存在が完全に忘れ去られているようで気に入らなかったのだ。だが、そんなカロンを尻目にエドガーは続けた。
「陛下が、保守党党首の姉君を救出されようとしていることを、あるジャーナリストから伺いました。これは本当でしょうか」
エドガーの聞いてきたことは衝撃的なことだった、アースは自分の左の耳につけられたピアス型の通信機に耳をそばだてた。メティスはこれを聞いているだろう。どのように指示をしてくるのかを待っていた。
すると、指示はすぐにやってきた。
『リシテアに、新進党党首と保守党党首への連絡を指示したのは私だ』
その言葉を受けると、アースはエドガーに、顔を上げるように言った。
「エドガー・オリンフェスト、全てはお前の想像のとおりだ。私は今、クリスティーナ・カーランドを救出するために動いている」
すると、突然エドガーは必死の形相を帯びて、アースの腕にすがりついてきた。
「無礼を承知で申し上げます。それはすぐにおやめください。お命が危険にさらされます」
アースは、必死に訴えるその瞳を見た。嘘は言ってはいまい。エドガーが強く掴む腕をそのままに、膝だけで立って必死に訴えるエドガーに合わせるようにアースも床に膝をついた。
そして、こう言った。
「承知している。案ずるな」
そう言って笑顔を見せた。そして、エドガーに何かを耳打ちした。通信機はわずかな音の振動もとらえてしまう。アースは、いったんメティスには聞こえないように、通信機の電源を切った。その上で小さな声でそっと耳打ちした。すると、エドガーは安心したようにアースから離れて行った。
「すでにそうお考えでしたか。先ほどの無礼、お許しください」
「構わない。心配をかけた。エドガーも、身辺には気を付けてくれ。この先何が起こるか、私には想定ができない」
「そのお言葉、私にはもったいなく存じます」
そう言って、エドガーは安心したように去って行った。アースは、通信機の電源を入れた。エドガー・オリンフェストを何とか帰した、そうメティスに告げた。
すると、今度はメティスのほうで何かが起こったようだった。アースはカロンとエルを連れて会場に戻り、メティスの様子を窺いながら会食を進めることにした。
一方、会場に設置されたバーカウンターで食後酒を受け取ったメティスのもとに、ある男がやってきた。彼はメティスに乾杯を求めてきた。それに応じると、笑顔でメティスの後をついてきた。
そして、メティス以外の人間に聞かれない程度の声で、こう話しかけてきた。
「姉はくれてやる。だが、あれが企んでいることに潰されるなよ。私は見ているからな、メティス・ランダー」
その声も姿も、ルーティン・カーランドのものだった。追いかけてそれ以上のことを聞こうと思ったが、彼は思ったよりも素早く、すぐに姿を消してしまった。
見ている、ルーティン・カーランドはそう言っていた。何のことだろう。これから救出しようとしているクリスティーナ・カーランドに関することであるのは間違いがないのだろうが、彼は不思議な感覚を残して去って行った。カーランド女史を救うことに何か問題でもあるのだろうか。
「メティス」
考え込んでいると、アースから声がかかった。アースは時計を指差している。見ると、作戦実行まであとわずかしか時間がない。宴は終わりを告げていた。
メティスが時計とアースを見比べたその時だった。
公会堂の入り口で何やら騒がしい声がして、そちらを見た。誰かが騒いでいる。確かめようと入り口に向かおうとすると、エルに止められた。
「あれはリシテアさんだ。あんたが指示したんだろ。忘れるなよ」
そう言われて、周りを見ると、アースがいなくなっていた。カロンとエルだけがメティスと共に行動を始めた。ネイスとシリウスの姿もない。メティスより先に行っているのだろう。おそらく、カーランド女史の周りには見張りの人間がいる。その露払いをしに行ったのだろう。
メティス達が混乱に乗じて地下についた頃には、たくさんの人間がそこに倒れていて、確かに露払いをしていた跡があった。廊下にはシリウスとネイスが立っていて、早く行け、と、メティス達を促した。アースはすでにそこにいたが、メティス達が来たのを確認すると、公会堂の宴会場へ戻って行った。いくらなんでも主賓が長い間席を空けたのでは、誰もが何かの事件を疑う。シリウスとネイスも後をメティス達に託して戻って行った。
メティス、カロン、エルの三人がカーランド女史の幽閉されている部屋に着くと、そのドアは外から厳重に鍵がかけられていた。鍵はおそらく弟のルーティン・カーランドがもっているのだろう。付近には見当たらない。気絶している男たちを調べても誰も持っていなかった。
カロンが、扉を蹴って破ろうとしたが、その扉は頑丈にできていて、うまく開けられなかった。そこで、エルがスーツの裏ポケットから小型のプラスチック爆弾を取り出した。こんなものをいつ用意していたのだろうと皆が不思議がったが、エルはそれを無視して爆弾をドアに取りつけた。
「カーランドさん、ドアから離れてください。爆弾を使います」
メティスがそう言うと、ドアの前にあった気配がすっと奥に消えて行った。
するとすぐにエルは、プラスチック爆弾の起爆スイッチを押した。爆弾は大きな音を立てて爆発し、ドアの半分以上を吹き飛ばした。
その音は公会堂まで響き、何が起こったのかと一時会場は騒然となった。何かを調べているふりをしていたシリウスが、ネイスとともに来賓の客たちを鎮めていた。
「みなさん、心配しないでください。おそらく地下でやっていた工事の影響だと思われます。今連絡が入って、工事業者が間違って公会堂の下でダイナマイトを爆発させてしまったとのこと。この公会堂自体にダメージはありませんので、落ち着いてお帰りの準備を進めてください」
宴会は、そこで収束を見せていた。
クリスティーナ・カーランドは救出された。彼女を連れて、地下から裏手へ逃げてきたメティス達を、シリウスの車が拾った。全員は乗れないので、ネイスがカロンの車を持ってきていた。手回しは早かった。
アースは、来賓がすべて帰るまで一人で公会堂に残っていた。最後に、エドガー・オリンフェストが一礼をして去って行くのを見送ると、政府専用の車に乗って、ハノイにある別邸に向かって帰りの途についた。
エドガー・オリンフェストは忠実な男だった。メティスに対してどのようなことをするのかは分からなかったが、あの性格からすると、アースの説得なら聞き入れてくれそうだった。そして、中央マリンゴートに横たわる闇を知ってもいた。彼を味方に引き込むことができれば、中央に対する楔がもっと深く打ち込まれることになる。
アースが何を考えているのかは分からないが、メティスにとってエドガー・オリンフェストの態度はそれを予感させるに足る要素を含んでいた。
そして、また、その希望が打ち砕かれる日が来るのも、近い日のことであった。
クリスティーナ・カーランドが救出されて何日か経った。
メティスの執務室の隣に、クリスティーナの居室は設定された。彼女は救出されたその日から何も言わず、黙って東マリンゴートの保護下にいた。突然のことで頭が混乱しているのだろうとメティスは考えていた。しかし、事情は少し違ったようだ。
その日は乾季が近づいているのか、雪は降っていなかった。ここ数日雪はない。気温も上がってきて日照時間も長くなってきた。水のなくなる季節は近かった。教会でも病院でも、そして東マリンゴート一帯に広がる農村地帯でも、水は非常に大事にされていた。冬の間に地下に造られた貯水タンクに水を貯めて、夏の間に使う。この時期の雪解け水はそのために重要な役割を持っていた。
そんな晴れた日に、隣にいたカーランド女史はメティスの執務室を訪れた。突然の来訪に驚きながらも、メティスは部屋にまだ残っていた豆を挽いてコーヒーを淹れた。
カーランド女史は礼を言うと、温かいそのコーヒーを少しずつ口に運んだ。
「メティス・ランダー神父、このたびはありがとうございました」
コーヒーカップをテーブルに置くと、安心したような笑みを浮かべ、カーランド女史はメティスに礼をした。
「あのままでは、中央マリンゴートは立ち行かなくなります。私は、あなたが中央に借金を強いている人間ではないことを知っています。そして、その証拠も握っているのです。そのために、中央のプロパガンダにとって邪魔だった私は幽閉されました。中央の二つの党は、あなたを悪者にすることによって国民の結束を図ろうとしている。しかし、それは間違いです」
カーランド女史は、メティスにそう言うと、にこりと話しかけた。
「私は中央を変えて見せます。あなたとともに」
その言葉に、メティスは胸をなでおろした。大きな味方だ。それを得て、メティスの心に希望が浮かんできた。中央マリンゴートはクリスティーナ・カーランドの言葉で正気を取り戻すだろう。そのためにあの救出劇を演じた。エドガー・オリンフェストが案じたアースへの身の危険も感じたことはない。取り越し苦労であったのだ。
カーランド女史は、立ち上がってメティスに握手を求めた。メティスはその手を握り返し、このまま彼女とともに中央と戦ってゆくことを約束した。
その日、メティスの執務室で交わされた約束は外に出ることはなく、二人だけの約束となった。リシテアやアース、カロンやシリウスの知るところではない、かたい約束を交わしたのだ。そしてその後、メティスはクリスティーナ・カーランドの言うとおりに動いて行った。
まず、メティスは中央と東を分ける国境地帯に救護隊を向かわせた。モリモトやエルは、アースからの勅命で動いていたため、その作戦には参加していなかった。そのため動かしやすくなった救護隊を、メティスは私兵として国境へ向かわせた。そして、国境を警備している中央の兵士たちを倒し、多くの捕虜として国内へ連れてきた。そのおかげで東と中央の国境はなくなり、人の往来もしやすくなった。東マリンゴートには中央からの観光客や出稼ぎの人間が増え、東マリンゴートは空前の賑わいを見せていた。
アースは、国王としての公務より病院にいることが多くなった。病院に訪れる人間が以前の倍になったからだ。その手伝いに追われるケンもだいぶ忙しくなっていた。救護隊のエルやモリモトも、アースの直属の部下になってからはメティスの私兵として使われなくはなったが、忙しさは増していた。
そこで、何かの違和感を覚えたのはアースとケンだった。
なにかがおかしい。歯車が狂いかけている。メティスはいままで救護隊を私兵として使おうとはしなかった。それに、否応なくアースがマリンゴートの病院にいなければならない理由を作ってしまっている。ここ数週間、彼は公務に戻ることができていない。これでは、周辺各国、ハノイやクリーンスケアにも迷惑がかかる。もちろん、国王の席の空いてしまっているテルストラには、多大な損失が降りかかるだろう。メティスはそんなことさえ考えられなくなってしまったのだろうか。
「先生」
仕事に追われる中、少しだけ取れた休憩時間に、ケンが口を開いた。ここ数週間、ケンとアースは事務的な会話しかできていない。そんな中、ケンが切り出したことには意味があった。アースがなんだ、と答えると、ケンはこう、告げた。
「先生、ここは僕やモリモトさんたちに任せて、テルストラに戻ってください。何かがおかしい。それは先生も感じているんでしょう。だったら早いほうがいいです。事が重大化する前に、この東マリンゴートで何が起こっているのかを明るみに出してください。そして、できるだけ早く、最悪なことになる前にことを防いでください」
ケンは聡明だった。アースは自分の育てたこの看護師を見て、その成長ぶりに感心した。ナギの力もあっただろうが、アースとナギの二人の医者のもとで、ずいぶんと頼りがいのある人間に成長していた。アースは、ケンの提案を快諾した。
「確かに変な状況ではある。メティスもこの状況も、都市国家連合のためにはならないだろう」
そう言うと、少し考えこんだ。いつ、どのタイミングでこの病院から逃げればいい? メティスはこの星のシリンだ。彼に隠れて出ていくことは困難だろう。
そのアースの考えを知っているのか予測していたのか、ケンがアースの腕をつかんで、休憩室のドアの前まで引っ張っていった。
「今すぐにでも、ここを出てください。今なら神父さんの裏をかけるはずです。病院の緊急車両の出入り口に車を待たせています。そこへ急いでください」
ケンの言動に、アースは驚愕した。いつ、こんなことができるようになったのだろう。
しかし、驚いている暇はなかった。アースは、ケンに礼を言うと、怪しまれないようになるべく普段通りにふるまって、救急車両の出口まで向かった。
すると、そこに白いワゴン車が一台、停まっていた。後ろにはいくつかの荷物か積んであった。その車の隣には、帽子を深くかぶった中年の男が待っていた。
その男は、アースに駆け寄り、小さな声でこう言うと、車内にいざなった。
「私はエドガー・オリンフェストです。お分かりになりますね。ここはひとまずこの車にお乗りください。テルストラ王宮までお送りします」
確かに、その声も背格好もエドガーのものだった。アースはいざなわれるまま車に乗ると、後部座席にエドガーが乗り込んだ。
アースの隣でハンドルを握っていた男も、深くかぶっていた帽子を脱いだ。会ったことはないが見たことはある。ルーティン・カーランドだった。
カーランドはアースに一礼して、車を発進させた。
東マリンゴートとテルストラとの国境を抜け、市街地に入るまでは三人とも油断ができず、無言のままだった。しかし、国境を抜けると、ようやく安心できたようで、まず、後ろにいたエドガーが喋りだした。
「突然のことで申し訳ありません。あの看護師から話をもらうまでは、我々もうまく動けなくなっていました。やはり何かがおかしくなり始めているのでしょう。我々が危惧していたことに近づいているように思えるのです。もはや、中央マリンゴートにおいて、私とルーティンが争っている場合ではありません」
すると、エドガーに続いて、ルーティンも話し出した。
「陛下の采配のもとであれば、中央マリンゴートは東に併合されて、なくなってもよい、そう我々は考えています。しかし、今のメティス神父の築いた、グラグラとした大地の上で併合されるのは納得がいきません。我々二人はそこで休戦し、団結して陛下をあるべき場所にお戻しすることで、忠誠を示そうと考えました。もはや、中央に力はありません。我々も、争っていたことを反省し、過去の過ちを認めなければならない時期に来ているのです。陛下、我々がどうなろうとかまいません。もう、捨てた命です。どうか、我々に免じてマリンゴートをお救いください」
すると、アースはこう答えた。
「メティスの築いた、グラグラした大地か。よく言ったものだ」
アースは、少し緊張した笑みを浮かべて、二人を見た。
「事情は分かった。だが、少し、行動を起こすのが遅かったらしい。このままメティスを放置することは確かに危うい」
「では、陛下」
エドガーが少し、表情をやわらげた。しかし、安堵の時はそう長くは続かなかった。
「ルーティン、エドガー」
突然、アースの声が緊張を帯びたのだ。どうしたのかと二人が考える間もなく、アースが畳みかける。
「追手だ。お前たちはこのまま宮殿に向かえ。俺はこの追手をどうにかしてから行く」
「追手、ですと!」
ルーティンが悲鳴のような声を上げて、ブレーキを踏もうとした。しかし、アースはその右足をつかんでアクセルに乗せ、走り続けるように指示を出した。
「いいか、この見えない追手はお前たちには手に負えない。俺は必ず宮殿に行く。だから俺を信じて待て!」
ルーティンとエドガーは、震えながら頷き、車のアクセルを踏んだ。その、スピードのついた車からアースは躍り出た。車窓に手を置いて体を安定させて舞い降りたのだ。普通の人間にできる技ではない。アースは、宙に舞うようにして車を逃がし、いままで走ってきたその道に舞い降りると、どこに持っていたのか、ナイフを何本か出して構え、それをいくつか勢い良く投げた。すると、何もない場所に人が現れ、心臓を一突きされて倒れた。
一人が倒れると、他の人間もぞろぞろと出てきた。よく訓練された暗殺者部隊だった。暗殺者相手ならば容赦はいらない。アースは、ナイフを構えた。
「国王陛下、病院に、お戻りください。もし、お戻りいただけないのなら、捕えてでもお戻りいただくようにとのご指示です」
「誰の差し金だか知らないが、それは承諾できない」
そう答えると、その返答を予測していたのか、暗殺者たちは黙ったまま攻撃を仕掛けてきた。狙いはやはり自分だった。ルーティンやエドガーでなくてよかった。そう考えながら、アースは暗殺者たちの闇の攻撃を受けていった。
しかし、暗殺者の相手をするまでもなく、そこに、ひどく大きな力が湧き上がってくるのを感じ、アースは一歩引いた。かかってくる暗殺者を払いのけながら、その大きな力に注意を向ける。それはひどく禍々しく、憎しみや嫉妬といった、マイナスの感情をどこまでも増幅させていった。そして、それをまとった人間が目の前に現れた時、衝撃波が襲い掛かってきて、アースは歯を食いしばってその衝撃に耐えた。
「メティス」
アースがその人物の名を呼んだ、その頃にはもう、暗殺者たちは姿を消していた。
メティスは、不敵な笑いを浮かべてアースのほうへ歩み寄った。この力に触れてはいけない。そう悟って、アースはメティスから離れていった。メティスの得た力は相当危険なものだ。その上メティスはこの星のシリンだ。因果律を自分の思い通りに動かす、そのようなことを、今のメティスならやってしまえそうだった。
アースのその予感は的中した。メティスの衝撃波を受けた体は痺れ、うまく動かすことができなくなっていた。その痺れは全身を覆い、耐えきれなくなって地面に膝をつくと、メティスが近づいてきてアースの顎に触れた。
「私から逃げるからこのようなことになる」
そう言って、不気味な微笑みを浮かべる。
「君はもう、私のものだ。どこへも行かせはしない。君たちは、私だけを守っていればいいのだからね」
「メティス、その力」
アースは、体の感覚が次第になくなっていくのを感じた。限界が近い。このままでは瘴気にやられて気を失ってしまう。そうなれば、自分を必死で逃がしてくれたあの二人やケンに申し訳が立たない。
しかし、メティスのまとったその瘴気は思いのほか強く、また因果律を操るメティスの力に、今は屈するしかなかった。
そして、薄れゆく意識の中で、自分の体が地面に倒れこむのを感じた。その体を見てメティスがほくそ笑む。
「勝った、ついに勝ったぞ! この星が地球のシリンに! もう私を制するものは何もない! 思い通りにさせてもらう!」
アースが、目を覚ましたのは、メティスに敗北してから一日経った午後のことだった。次第に瘴気が抜けて意識が戻り始めると、自分がどこかに横になっていることが分かった。もう少し意識がはっきりしてくると、自分の手が後ろに回っていて、鎖につながれていることが分かった。
またこれか。
そう思って嘆息すると、だんだん部屋の中の様子が分かってきた。豪華な調度品のそろった広い部屋。そこのベッドの上に自分はいた。そして、目の前にはメティスがいた。
「メティス、お前」
そう言って起き上がろうとする。しかし、どうにも体が重くて起き上がれない。
「どうだい、気分は」
メティスは得意げにほくそ笑むと、こちらに少しずつ寄ってきた。そして、横たわっていたアースの体を起こして壁に寄り掛からせると、その顔をじっくり見ようと顔を近づけてきた。
「君が、逃げるからいけない」
そう言って、ふたたびアースの顎をクイ、と、持ち上げた。嫌な感じしかしない。背中に悪寒を覚え、アースはメティスから離れようといた。しかし、体が思うように動いてくれなかった。メティスを変えたのはおそらくあの力だろう。アースはずっとそれを追ってきた。今回メティスがまとった瘴気でそれを悟った。だが、この体たらくは何だ。その瘴気と戦う前に屈してしまった。相手がメティスだったからか、いや、そうではない。そこには完全な油断があった。
「カーランドとオリンフェストの二人は、クリスがなんとかするだろう。君を逃がして私に生意気な忠告をしてきたケンは、今、捕えて監禁しているよ。エルとモリモトさんは国外追放した。私に逆らったからね。そう、それもこれもすべて君のせいだ。君が私から逃げるからいけない。だから、こういう手段で君を縛らせてもらったよ」
「こういう手段?」
問うと、メティスは自分の傍らに置いてあるリングを指さした。
「これは私にも効果があるから触れられなくてね、どうしたらいいのか扱いに困っている。そう、これは、惑星のシリンの力を封じ、奪うための道具だ。直接触れればたちどころに体が動かなくなる。これを、君につけさせてもらった」
どうりで、体が動かないはずだ。アースが自分の体を見渡すと、つけられる場所には全部、そのリングがはめ込まれていた。メティスはここまでして、自分の主張を守ろうとしているのか。そう考えると呆れてきた。
「こんなことをしなければ、対等に話すこともできなくなったか。滑稽だな、メティス」
そう吐き捨てたアースに、メティスは余裕をもって答えた。
「そんなことを言っていられる場合かい? いま、君の味方はここにはいないんだ。そのうえで言っている。君はもう、私のものだ。誰にも渡しはしない。ここで君は私に忠誠を誓い、私を守っていくと宣言するんだ。いいか、君のその顔」
そう言って、メティスは片方の手でアースの顔をさすった。悪寒がした。
「きれいなだけの私と違って、凛々しい顔。うらやましかったよ。これが、私の求めていたものだ。それを、いま、私は手中に収めた。君を制することで、私は君のすべてを手に入れた。そう、君の妻である、フォーラさんもね」
「それが本音か、メティス」
悪寒を振り払いながら、アースはメティスの手を何とかどけた。気持ちが悪かった。メティスはこんなに粘着質な男ではないはずだ。どこかに、違う人格が潜んでいる感じがした。
「私は、ずっとあこがれていたんだよ、フォーラさんに。でも、彼女は君を選んだ。だがこれで、君と一緒に彼女も私のものになる」
メティスは、そう言いながら顔を、アースの肩に埋めた。そうして、もう片方の肩を掴んで、強く握った。そのあまりの力の強さに、アースは歯を食いしばった。これは、食われる。そう戦慄したが、ふと、メティスを見るとそのまま動きを止めて、体を震わせていた。そして、小さな声でアースの耳元に、こうささやいた。
「助けて」
それは、本来のメティスの最後の抵抗だった。一瞬、メティスから放たれる瘴気が消えた。しかし、それもすぐに元に戻り、ふたたびどす黒い瘴気が部屋に充満し始めた。
「余計なことを!」
メティスは、そう言ってアースから離れた。そして、不機嫌そうに部屋を出ると、外にいた二人の男に耳打ちをした。
「君たちの伴侶、逆らえば命はないからな。よく見張っていることだ」
そうささやかれたのは、カロンとシリウスだった。二人はメティスの言葉にドキリとし、何も言わないままその姿を見送った。
部屋の中から、アースの声が聞こえてくる。外にいるのがカロンとシリウスであることを、彼は知っていた。知っているうえで、こう言った。
「人質か」
外の二人は、何も言えなかった。ただ、黙ってそこに立っていることしかできなかった。カロンは赤ちゃんとリーアを、シリウスはネイスを、人質に取られていた。彼女らがどこでどのような目にあっているかも分からずに、ただメティスに従うしかない。カロンもシリウスも、ある意味アースよりもひどく、自由を奪われていたのだ。
「大丈夫だとは言えないな、この状況。だがもし聞こえているのなら、黙って聞いてくれ」
アースが、これは独り言だ、そう付け加えたうえで話を進めた。
「メティスに捕まる前、意識を地球に飛ばしてきた。運が良ければ惑星間渡航者がそれを拾うだろう。運が悪ければ、一週間はこのままだ。だが、一週間のうちに俺がこの状況を何とかする。だから、リーアとシャロン、ネイスの三人のことは心配しないでくれ」
すると、閉められたドアの外で、カロンが泣いた。
「僕は、なんて頼りない!」
そう言って、近くの壁を強くたたいた。
「俺もだ。二度もネイスを取られるなんて、男の風上にも置けねえ」
そう吐き捨てて、そのまま二人は黙ってしまった。
それから、メティスが何回かここを訪れることがあった。そのたびに嫌な言葉を吐いて去る。以前のメティスとは全く人が変わってしまっていた。
しかし、それから三日が立ったある日のことだった。
いつものようにこうべを垂れて見張りをしているカロンとシリウスのもとに、誰かが走り寄ってきた。勢いよく走るその姿を確認すると、ケンだった。驚く二人は、ケンの後ろからついてくる二人の人物を見て、驚愕した。
エルとモリモトだった。
追放されたはずの二人がなぜ?
その疑問も晴れないまま、ケンは二人のもとに走り寄ってきて、彼らが見張っているその扉を開けるように言った。
「お二人の人質は解放されました。いま、ここに向かっているところです」
何があったのだろう。ケンの言っていることの意味が分からない。こんなことをしてしまえばまた、メティスの怒りを買う。あのアースでさえ、少しの油断でメティスの前に膝をついてしまったのだ。彼か、彼と同等の力を持った人間でないとこの状況を打開はできないはずだ。
そう考えて、二人はハッとした。
アースは、地球に意識を飛ばしたと言っていた。誰かが地球から助けに向かってきてくれたのだろうか。
そうだとしたら、もうここの扉を守っている理由はない。二人は頷きあい、閉まっていた扉にカギを差し込んでゆっくりと明けた。
その時だった。
「何をしている」
声が、かかった。
それは、こちら側にいるケンやエルたちの向こう、廊下のはるか端のほうから聞こえた。
メティスだった。
助けは、間に合わなかったのか。メティスは速足でこちらに向かって歩いてくる。そして、何かぶつぶつ言いながらその形相を怒りに変えていった。
「カロン、シリウス、これがどういう裏切りか、わかってやっているのか!」
そう言うと、力づくでシリウスをどかした。
「分かっているさ」
シリウスは立ち直り、カロンをも、退けようとしているメティスに食ってかかった。その時、そのシリウスの手に触れるものがあった。
「鎮まりなさい」
どこからか、女性の声がかかった。どこかで聞いた声だ。皆は、周りを見渡した。メティスが歯を食いしばり、後ずさっていく。彼が苦手とするもう一人の人物。それが、ここにやってきた証拠だった。
それは、もう一つの地球。ある事件がきっかけで二つの次元に分かれてしまった地球。
その名を『優しい水』と呼ぶことで緑豊かな大地を手に入れた地球、その名をナリアと言った。
その、ナリアのシリンがこの近くに来ていた。そして、メティスをけん制した。
しかし、メティスが怯えていたのは束の間だった。彼は、突然笑いだすと、大きな声でこう宣言した。
「ナリア! いいカモが来たじゃないか! 君も私のものになるといい! これで地球のシリンを二人、私は手に入れた! 怖いものはもう何もない、私を抑制するものも、否定するものもなにもなくなったのだ!」
それは狂気だった。
メティスは完全に我を見失っていた。しかし、それもまたつかの間のことだった。
メティスは、天井から降ってきた何者かの攻撃で、一瞬にして意識を失った。その体を持ち上げ、その何者かは急いでドアを開けた。
「ナリアさん!」
カロンに名を呼ばれ、その何者かであるナリアはカロンに向き直った。ナギとよく似た面影を持つ、美しい女性だ。少し緑がかった銀色の長い髪をなびかせ、急いで部屋の中に入る。そして、アースがベッドに横になっているのを確認すると、そこに両手を掲げた。すると、アースの体の力を奪っていたすべてのリングが、粉々に砕けて飛び散った。
ナリアは、力が戻りつつあるアースを抱え上げた。
「立てますか? ここからはすぐに逃げないといけません」
アースは、頭を抱えながら、答えた。
「大丈夫だ。油断した、すまない、ナリア」
ナリアは、ケンやアースがいた建物である、教会の裏手に、車を用意していた。三台に分かれて全員が乗ると、そのままマリンゴートからテルストラの国境に一気に抜けた。追手はついていなかった。もし、あの時と同じ追手が付いていても、アースもナリアも今度は油断をしていないはずだ。負けるとは考えられなかった。
テルストラの王宮につくと、一行は広い王宮の中に用意された、いくつもの客室に案内された。カロンはリーアやシャロンと、シリウスはネイスと、ケンはエルやモリモトとともに部屋に入った。他にもマリンゴートから連れてきた人間がいた。ホランドとクーラン、そしてリシテアだった。三人ともメティスに意見して、最悪は銃殺刑になるかもしれないと、アースが踏んでいたからだ。
アースは国王の執務室に戻っていた。これからテルストラが、東マリンゴートに対してどのような政策をとっていったらいいのか、重臣たちと話し合わなければならなかったからだ。また、ハノイやクリーンスケアと連絡を取り、メティスの支配する地域に対してどのように出たらいいのかも決めなければならなかった。
アースは、その作業に半日を費やした。会議に次ぐ会議で疲れも出てきていた。そこで、重臣たちにいったん休憩を入れると言って、執務室から自分の部屋に下がっていった。
アースが自分の部屋に戻ると、ホランドとクーランがいて、部屋を掃除してくれていた。主が戻ったことを確認すると、二人は笑顔で、得意のお茶を淹れてくれた。少しの間、その茶をもらって休んでいると、ドアをノックする音がした。ホランドとクーランが出て、外を確認すると、そこにはナリアがいた。
「ホランドさん、クーランさん、いつもありがとう。これから少し、地球のシリン同士のお話があるので、いったんご自分の部屋に戻っていただけますか?」
その言葉に、二人は笑顔で答えて、それでは、と一言言って去っていった。
ナリアは周りを見渡してからアースの部屋に入って、ドアを閉め、鍵をかけた。
「何かあったのか、ナリア」
アースは、立ち上がって、部屋の真ん中にあるソファーから離れて、部屋の窓際にある机に移動した。
ナリアは、勧められるままにソファーに座り、その深い瑠璃色の瞳をアースに向けた。そして、そのいでたちを見て少し笑った。
アースは、軽めのシャツの上に、軍服を羽織っていた。ちゃんと着ているわけではない。リラックスしたいとき、彼はいつもこういった格好をしていた。
「マリンゴート救護隊最高司令官の制服」
そう言って、ナリアは安心したように肩をなでおろした。
「アース、メティスのことなのですが」
ナリアが切り出すと、アースは頷いた。
「もし、あれに取りつかれているとしたら、私たちは彼を」
そこで、ナリアは言葉を切った。この先はとても、彼女の口からは言えなかった。
「あの男は、ナリアにも行ったんだろう」
ナリアは、頷いた。
「ええ。返り討ちにはしましたが、逃げられてしまいました。その様子では、地球にも行ったのですね」
「ああ。俺も同じようなものだった。そして、あれを追ってきたら、このザマだ」
「この暁の星のシリン、メティスのことを知って、ここに来たのでしょうか」
「いや」
アースは、そう言って考え込んだ。
「ナリア、あれが本当にメティスを食ったと思うか?」
そう言われ、ナリアも少し考えこんだ。
「確証は、持てません。しかし、あれがメティスに大きな影響をもたらしていることは事実です。それに、ここにあれが来てしまったのは、地球でわたくしたちがあれを討ち損じた結果です。わたくしたちであれを何とかしなければならないのは確かでしょう」
「そうだな。だが」
アースは、そう言って、ナリアの目の前にある、飲みかけのお茶を見た。
以前までの自分だったら、考えもつかないことを、考えていた。どうも、惑星のシリンというのは、その力の大きさゆえに自分だけで何かを抱え込みたがる性質があるようだ。
だが、今のこの状況は、アースとナリア、ふたりだけでどうにかなる問題ではなくなっていた。メティスとそれを取り巻く環境の変化は、ここにいるすべての人間、そして、彼や東マリンゴートにかかわったすべての人間に関係のあることだったのだ。
「ナリア、事はもう俺たちだけの問題じゃない。今後の会議もそうだが、関係者全員にこれからは声をかけてくれ」
ナリアが暁の星に来訪して、メティスの周りにいた人間たちを洗いざらいテルストラに避難させてから数日が経った。
神父メティスは、何者かに襲われて気を失う前の記憶が、まるっきり飛んでしまっていた。周りの人間が何を聞いても覚えていないのだという。
神父はその日から執務に戻り、カーランド女史のもとで、彼らの掲げる統一マリンゴートの構想の実現に取り掛かっていった。
そして、東と中央の国境がなくなってきて、中央の貧困がより浮き彫りになったその時。
クリスティーナ・カーランドは、弟であるルーティン・カーランドとそのライバルであるエドガー・オリンフェストを、国を疲弊させた張本人として、裁判にかけることなく政治犯に指定した。政治犯は例外なく、クリーンスケアをまたいで海の向こうにある絶海の孤島の刑務所に収監される。そこは、長年この都市国家連合と対立してきた海向こうの大陸にある大国、ローデンバラとの国境付近であった。ゆえに海賊やテロリストも徘徊していて、危険な場所であり、誰もそこから抜け出して助かったものはいなかった。
このことを予測していたのか、ルーティン・カーランドとエドガー・オリンフェストは黙って刑務所に送られた。エドガー・オリンフェストはたった一言、こう言っていたという。
「国王陛下、マリンゴートを、頼みます」
その後もクリスティーナ・カーランドの快進撃は止まらなかった。中央の二つの政党を解体し、自分が率いる新保守党を作り上げ、その党首の座に座った。メティスを君主とする統一マリンゴートの構想を掲げ、国民の意思を統合していった。
しかし、ここで一つの問題が発生した。マリンゴートが統一されたことで、中央が負っていた借金を、元東側も抱えることになってしまったのだ。
これは大問題だった。しかし、その問題を解決する前に、クリスティーナ・カーランドは姿を消した。後をメティス神父に託すと言ってどこかへ行ってしまったまま帰ってこないのだ。
困惑したメティスは、借金の総額を中央側の官僚に出すように命じた。
判明した額は、総額二十七億。到底返しきれる額ではない。メティスは困惑した。自分は貸していない。だが、誰かが貸してはいたのだ。だから、その誰かに借金を返さない限り、この国はその誰かのものになってしまう。国を担保に、借金をしていたからだ。
当然、国民は憤慨した。神父が借金を返せなければ自分たちはその二十七億のために、一個人の所有物となってしまう。東の人間も、中央の人間も君主であるメティスに借金返済を求めた。だが、メティスにはもともとそんな大金はなかった。メティスは帰ってこないクリスティーナ女史の代わりに、テルストラ国王に助けを求めたが、跳ね返されてしまった。テルストラはメティスの尻拭いをしてマリンゴートを救済するためにあるのではない。すべての都市国家のパワーバランスを保つためにあるのだと。
メティスはこの時点で少しずつ、狂わされていた。
まだ姿を見せない誰か、メティスに恨みを持つ誰かの思惑は、そこにあったのだ。
その人物の思惑通り、メティスは、もともと仲間であった人間の呆れた顔と、毎日にも上る民衆のデモに付き合わなければならなくなっていた。もともと借金を抱えていた中央の人間に加え、新たに借金の的となった東マリンゴートの人間も、国家を再び二つに分けることを願っていた。
これは新たな差別、いや、戦争さえ生んでしまう。メティスは一人で頭を抱えていた。そんな時、クリスティーナ・カーランドが帰国した、という情報が入った。メティスは彼女に飛びつき、借金の返済をどのようにしたらいいのかを相談しに行った。クリスティーナは教会の礼拝堂にいるという情報を得て、メティスは急いでそこに向かった。しかし、それを止める者がいた。リシテアだ。
「メティス、今、決着をつけなければいけないのは君だ。カーランド女史への依存は止めて、自分の意思で動かなければならない」
そう言って、カーランド女史のいる、教会の礼拝堂への道を阻んだ。リシテアは体格が良い。立ちふさがられては簡単には抜けなかった。しかし、メティスは今まで何人か、強い相手と戦ってきている。リシテアをどかすことなど造作もなかった。メティスはリシテアの制止を聞かず、彼を払いのけて礼拝堂に向かった。すると、礼拝堂の入り口にはエルとモリモトが立っていた。
「ここは通すわけにはいきません。今の状況はあなたご自身の考えで打破できます。もう、カーランド女史に頼るのはおやめください」
モリモトがそう言って両手を広げた。その前にエルが出てきて、メティスの前に立ちふさがった。
「俺はあんたの優しさと、意思の強さに刺激されて自分を取り戻した。今度はあんたの番だ」
エルの言葉に、メティスは一瞬、自分を取り戻そうとしていた。しかし、メティスは今までカーランド女史に頼りすぎていた。彼女のおかげで中央と東は統一され、自分は国家元首の立場に上がることができた。こんなところで躓いているわけにはいかない。
「そこをどいてくれ、エル、モリモトさん。あなた方は私の管轄ではないはずだ。アースのもとへ帰り、彼を守っていればいい」
「そうはいかない」
エルが、その瞳に鋭い光を宿した。もとよりメティスのこの言葉は想定できていたものだ。だからこそ、止めなければならなかった。これ以上メティスはカーランド女史に会ってはならない。でなければ、メティスの全てが彼女に奪われてしまう。
「これは、国王陛下の勅命だ。この国の事態を重く見た陛下が、あんたを止めるために俺たちをよこした」
「アースが?」
エルが、頷いた。すると、メティスは高笑いをしてエルとモリモトを笑った。何が起きたのだろうか。メティスは嘲笑している。エルもモリモトもこのことは想定していなかった。メティスはいったいどうしてしまったのだろう。
「エル、モリモト、あなたたちは分かっていない!」
そう言って、メティスは笑うのをやめた。
「この国の元首は私だ。たとえ国王と言え、私のやることに手出しはできない! マリンゴートは独立国家だ。都市国家連合など関係ない!」
それを聞いて、モリモトは警戒を強めた。エルはメティスのこの言動が信じられなかった。一歩、一歩と下がりながら、メティスの様子を伺う。
すると、エルの頭の中に何かがよみがえってきた。
マスター・ソフィアだ。
今のメティスはあのころのエルと同じ、マスター・ソフィアの洗脳を受けていた時と同じだったのだ。メティスは洗脳されている。それも、強力な力で。
「モリモトさん、これは」
モリモトは、エルの言葉に頷いた。すると、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。それは二人分の足音だった。エルとモリモトはその人物を正面に捉えた。
一人は男、一人は女。
ウェイン・ランダーと、ナギ・フジだった。
ナギは、ウェインとともにメティスのところへやってくると、突然メティスに襲い掛かった。背を低く保ち、その間合いに鋭く入り込む。突然のことに戸惑ったメティスの顎に一発、ナギは拳を振り上げた。メティスは何の抵抗もできずに床に、あおむけに倒れこんだ。
さすがのメティスも、アースと互角に渡り合えるほどの実力を持つというナギには敵わなかった。ゆっくりと立ち上がろうとすると、長いローブの裾を靴で抑えられ、立ち上がれなかった。
「放せ! 何をする!」
メティスは怒鳴った。するとその襟をぐいと持ち上げ、今度はウェインがメティスに迫った。
「メティス、私を見ろ」
そう言って、ウェインはメティスを強く揺さぶった。メティスは精一杯抵抗したが、冷たい瞳をしたナギに押さえつけられていて身動きが取れなかった。
「くそ、なんなんだお前たちは!」
メティスはそう吐き捨てた。すると、ナギがメティスから離れた。
「後悔するようなことだけはするんじゃないよ、神父さん」
そう言って、エルとモリモトの肩に手を当てた。そして戸惑う二人を伴って礼拝堂に入って行った。中から鍵のかかる音がして、辺りは静まり返った。
廊下に取り残されたメティスは、同じく一緒に取り残された父・ウェインに助け起こされていた。ウェインの手を振り払い、なんとか礼拝堂の戸を開けようとするが、もともと重いその扉には厳重に鍵がかかっていて開かなかった。
「メティス」
それを見ていたウェインが、必死になっているメティスの肩をぐいと引き寄せて自分のほうへ向かせ、一発、強くなぐりつけた。
メティスは少しよろけたが、すぐに体勢を整えてウェインに襲いかかって行った。
「メティス、聞こえているのなら聞いてくれ」
メティスの攻撃を避けながら、ウェインは必死でメティスに話しかけた。その言葉はまだメティスには届いていなかった。彼の紅の瞳に光はなく、どこを見ているかも定かではなかった。
「私は、残月だ。この大地という昼に残ってしまった哀れな月だ」
ウェインが、メティスの拳を精一杯の力で止めた。メティスの力は絶大だった。しかしウェインも負けてはいなかった。残月とはいえ夜空を照らす月にもなりうるウェインは、それなりの強さを兼ね備えていたのだ。
「メティス、聞け! 残月は銀の木を呼ぶ。知っているだろう! もはやお前を救える者は、私だけになってしまった。だから聞いてくれ」
ウェインは、必死の形相で、メティスに話しかけた。まだ、紅の瞳に光は戻っていない。しかし、攻撃は緩やかになってきていた。ウェインはメティスの拳をもう一度受け止めると、今度はその拳を、自分の腹に突っ込ませた。
ウェインはその衝撃で、吐血した。メティスの拳は鋭かった。もう一度食らったら死んでしまうかもしれない。
「銀の木よ」
精一杯の力で立ち上がり、ウェインはメティスを見据えた。ウェインは銀の木を呼ぶことを決めた。しかし、それは大きく命の力を削ることになる。今のウェインには致命的だった。そのうえメティスの洗脳はまだ解けていない。ここは、残月としてやれるだけの、すべてのことをやってみるしか手段はなかった。
「暁の星よ!」
ウェインは、叫んで地面に手をついた。すると、地面に触れたウェインの足から大きな力が流れ込み、その力はメティスの体を取り巻いていった。そして、まるでメティスの体に張り巡らされた毒を浄化するように、銀色の光で包み込んでいった。
いままでその体に巣くっていた毒を抜かれたメティスは、ひどく苦しんで、その体に触れていた父親の拳を抜いた。その瞬間、メティスは目覚めた。
「これは、地あたりか」
一瞬、息をのんでウェインはメティスを見た。
大きく見開かれたその紅の瞳には、徐々に光が戻りつつあった。苦しみのあまり上を向いていた顔が、正面にいたウェインに向く。ウェインは、半死半生の状態だった。勢いよく吐血し、腹の部分を抑えていた。呼吸は荒かった。
そんなウェインの姿を見ていたメティスの瞳に、光が戻った。
ウェインの吐いた血の跡を見て、ハッと気が付いた。ウェインは銀の木を呼ぼうとしている。そんな大きな存在を呼んでしまっては、今のウェインの体はもたない。
正気に戻ったメティスは、父を止めるために走った。必死に立ち上がって何かを呟いているウェインを、止めようとした。しかし、父は止まらなかった。
「父さん!」
メティスは父の肩を抱いて、叫んだ。今まで何をしてきたのだろう。また自分一人で事をすませようとして、結果、カーランド女史に頼っていた。あの女は毒だった。善人の皮を被った悪女だったのだ。
それに気が付いたが、遅かった。
父ウェインは、メティスを救うために銀の木を呼んだ。自分の命と引き換えに。
「メティス、銀の木を使い、このマリンゴートを救え」
息も絶え絶えのウェインは、自分の肩を抱いたメティスの手を、強く握った。
「銀の木はいい。マリンゴートは私が仲間とともになんとかする。だからもうやめてくれ、父さん!」
メティスは叫びながら嘆いた。ウェインの姿が消えてゆくのを感じる。メティスの手を握っていたウェインの手が、透けてゆく。
「それでいい、メティス。私はお前の父であることを、誇りに思う。これは私の最初で最後の贈り物だ」
そう言って、ウェインは目を閉じた。
メティスは、父親の体が空気に溶けて行くのを、ただ見ているしかなかった。そして、ふと、外を見る。すると、強烈な光がガラスの窓から廊下に差し込み、メティスの視界を全て奪って行った。しばらくして光が収まり、外を見ると、そこには巨大な銀色の大樹が聳え立っていた。
メティスは、泣いた。
父ウェイン・ランダーは銀の木を呼んで命を落とした。
メティスにかけられていた強力な洗脳を命がけで解いてくれた。
メティスは、涙を拭いて、今やウェインの形見となった銀の木のもとへ急いだ。自分がこれからやらなければならないことは分かっていた。この、大掛かりな『嘘』を、終わらせるためにも、銀の木を使わなければならない。父の遺してくれたそれは、メティスにとってこのマリンゴートを救うために最後の手段だった。
そして、メティスが洗脳を解かれたそのころ。
礼拝堂でも、銀の木が現れた影響で、皆の視界は強い光のもとに奪われていた。
「銀の木か」
光が収まると、礼拝堂からは見えないはずのその存在を、ナギが口にした。すると、同じように銀の木を感じ取ったエルが、礼拝堂の床を殴りつけ、悔しさにこう吐き捨てた。
「残月か、畜生!」
すると、礼拝堂の奥で、女の高笑いが聞こえてきた。
クリスティーナ・カーランドだった。その中年の女は、高笑いをしたままこう言った。
「もうこの国もおしまい。ここに来るのは遅かったみたいね、カリスマ女医さん」
女は、そう言って、人差し指でナギを指差した。
「女同士フェアに行きたいところね」
女はまた高笑いをして、三人を嘲笑した。ここまで予定通り事を運んできた。銀の木の出現は想定外だったが、もうすでにマリンゴートが風前の灯である事に変わりはなかった。国王や周りの国々がどんな救いの手を差し伸べようが救いようがない。既にこの国はクリスティーナ・カーランドの手中にあったのだ。
「もう少しでこの国は私のものになる。神父メティス・ランダーは私の手中で踊っているにすぎないのよ。もう誰も彼を救うことはできない。父親であるウェインでさえもね」
すると、ナギは、女に対して何一つ毒づくこともなく、こう言い放った。
「そんな事だろうと思った」
そして、ナギはそのままエルとモリモトを自分の後ろに下がらせた。
「エル、モリモト、これから私のやることをよく見ているんだよ」
そう言って、ナギは自信満々な態度をとっている女に、右手をかざした。
「何の真似? そんなことで私が折れるとでも思ったの?」
「折れる?」
ナギは、そう言って笑みを浮かべた。そこには絶対的な自信が見て取れた。銀の木が出現した今、彼女たち地球側のシリンの能力を制約するものは何一つなくなっていた。銀の木を通じて現れる地球の因果律が、地球のシリンの持つ力の鱗片がナギの体を包み込んでいく。
「あんたは折れるんじゃない。認めざるを得なくなるだけだ」
「認めざるを得ない? この私が一体何を認めるというの?」
女がそう言うと、次第に、腕組みをしてナギや救護隊の二人を見るその表情が変わって行った。きれいに整っているその顔は醜悪に、細身の体は肥満体に。
女は、その姿を見て悲鳴を上げた。これは自分じゃない、こんな姿になぜしたのだ、そう言いながら破れて行く服や取れて行く化粧を何とかしようともがいていた。
女の変形が終わると、ナギはかざしていた右手を下ろした。
「今のあんたの姿、それは、あんた自身の犯した罪の表れだよ。憎しみや怒りで膨らんだ体、そして、その醜悪な顔は、欲の表れ。認めざるを得ないのはあんたの犯行動機だ。この姿を受け入れられないのなら、その犯行動機を語る資格はあんたにはないよ」
「な、なんですって!」
ナギは、焦る女を静かに見ていた。無表情だった。
「クリスティーナ・カーランド。あなたがメティスを憎み、東マリンゴートを中央ごと潰そうと考えていたのには、訳があった。そうだろう」
醜悪な姿になってしまった女は、ナギの言葉に、うめき声で答えた。もう何も言葉にすることはできなかった。自分の姿がこのようになってしまった、その壊れたプライドで体はどんどんと肥大していった。
「あなたがこの国を愛していたことは確かだった。しかし、それは十年前の戦争の時に変わってしまった。愛国心は憎しみに変わり、そのうち世界の全てを憎むようになった。それは、十年前にこのマリンゴートが真二つに割れてしまったことと、ブラウン神父の退任が影響していた」
ナギがそこまで説明すると、女はうめき声をあげながら嘆いた。そして、自分の口からこう語りだした。
「そう、そうよ。私はブラウン神父を思慕していた。なのに、あの女は、ヘレンというあの女は、私から神父を奪って去って行った。後任についたメティスは頼りなかった。ブラウン神父のように力強くもなく、カリスマもなかった。そんな男が私の愛したマリンゴートを引っ張って行くなんて、許せなかった。だから、陥れようと思った。メティスの名を使って中央に借金をさせ、中央にはメティスを傷つけても死なない程度にちょっかいを出させた。そのうち音をあげて神父の座から降りるかもしれない、そう思ったから。だけど、あいつは諦めなかった。だから、消そうと思ったのよ、クリーンスケアの核で。でも、それも阻止された。私の秘密を知っているテロリストの男は、私が殺して海に捨てたわ。でも、それも全て無駄だった。分かった、降伏するわ。私のこの姿、これは私の犯してきた罪の代償。認めましょう」
女は、そう言って礼拝堂の神々を背に、床に座り込んだ。
そして、どこか悲しげな瞳をして両手を前に差し出した。
「ナギ先生」
モリモトが、後ろからナギに声をかけた。すると、ナギは緊張した目つきでモリモトを再び後ろに下がらせた。
「これからだよ、モリモトさん。油断は禁物だ」
その言葉を聞いて、女は高笑いをした。そして、雄たけびをあげて礼拝堂の椅子の間をすり抜け、その巨体で三人に襲い掛かってきた。片手にはナイフを持ち、もう片方の手には長い鉄の棒を持っていた。
「二人とも、気をつけな。彼女は惑星のシリンだ。攪乱されるなよ」
「惑星のシリン? なぜそんなものがここに?」
モリモトがナギに訊いた。ナギは目の前の敵を見据えたままこういった。
「事情は国王に説明させる。今は目の前の敵に集中しな」
ナギの言葉に、エルは、頷いて戦闘態勢を取った。モリモトもきちんと構えている。女の化け物が通ってきたところは、床が抜けて、木でできた礼拝堂の床は破壊されていった。
女の化け物の一撃をまず受けたのは、ナギだった。片手で、女の両手の攻撃を防ぐと、するりと化け物はナギの脇を抜けてモリモトのほうに向かった。
「しまった!」
ナギは一瞬戸惑ったが、モリモトは、両手で構えて化け物の攻撃を防いだ。その隙にエルが化け物の脇腹にナイフを差し込んだ。しかし、分厚い脂肪がナイフを弾き、破壊してしまった。
エルのほうをにらんだ化け物が、その手を振り上げて攻撃しようとすると、ナギの手がそれを止めた。
「なんて力だ」
息を切らしながら、モリモトが呟いた。その声を聞いて、化け物の攻撃対象はエルからモリモトに移った。ナギが再びそれを防ぎに走る。このままではあの化け物を倒す決定打に欠く。こんな動きの繰り返しでは簡単に倒せそうにない。キリがなかった。
そこで、ナギは自分一人に攻撃を手中させる作戦をとった。もうすでにクリスティーナ・カーランドではなくなってしまったその肉塊に、強い殴打を食らわしたのだ。すると、憎しみや悲しみに意識を呑まれたその化け物の自我は、純粋な憎しみの相手だけを見るようになっていった。もうすでに何回かの戦闘で礼拝堂はぐちゃぐちゃになっていた。
ナギは、そのまま化け物のおとりになって戦っていた。それは、壮絶な戦いだった。どちらかが攻めればどちらかが退く。そしてその逆もあった。エルとモリモトはもはやただその戦いを見守るしかなかった。
その中で、肥大した化け物の体にナギの攻撃が当たるたびにその弾力の強いからだが硬く、大きくなっていくのに、二人は気が付いた。
「モリモトさん、あれって」
モリモトは、エルの言葉に息をのんだ。見たこともない化け物が目の前にいた。ナギが押されている。彼女は両手にナイフを持って戦いに挑んでいた。しかし、目の前の敵が硬化していくのを感じて、ナイフを捨てて素手で化け物の顔のあたりを殴りにかかっていた。化け物はナギのこぶしを全て受け止めて、それでも笑っていられる余裕があった。
「これはもう、クリスティーナ女史じゃない。おそらく彼女はもう」
モリモトが言いかけたその時、ナギがものすごいスピードで退いた。その代わり、あの化け物も鈍重な衝撃を受けて教会の壁面にぶつかり、体をめり込ませた。
「このあたりが潮時か」
ナギは、そう言うと汗を拭いた。ちらりとエルやモリモトを見る。
これ以上彼らを守りながら戦うのは、ナギの技量では限界が来ていたのだ。
「エル、モリモトさん、これからの戦いをよく見ているんだよ」
そう言って、ナギは、笑った。化け物が、壁にめり込んでいた体を起こしにかかった。ナギの放った衝撃波に耐えたその体に多数のとげを新しく生やしていた。
その化け物の姿を確認すると、ナギは、化け物を見据えたまま、深呼吸して、着ていたその白衣を脱いで翻した。
「ナギ先生!」
モリモトが、ナギのしたことを悟って声を上げた。その声の先、翻した白衣は地面に落ち、そこには誰もいなくなっていた。
「どういうことだ?」
エルが、目の前の光景を見て、眉をゆがめた。すると、今度はエルとモリモトの後ろ、礼拝堂の扉の前で、声がした。
「こういうことだ」
そこには、アースがいた。
いつ、ここに現れたのだろう。ナギと同じように白衣を羽織ったままそこに立っていた。アースは、白衣を脱いでエルに渡すと、二人の間を抜けて化け物の正面に出た。
「いったい、これはどういうことなんです? 我々には訳が分かりません。ナギ先生は陛下に説明してもらえとおっしゃっていました」
目の前にいる敵を見据えるアースは、モリモトにこう返した。
「この戦いを見ていれば気付くはずだ。それと、エル」
目の前の敵が、攻撃態勢に入った。油断したら負ける。アースがそこまで強いと判断した相手だった。その敵に対して構えながら、ふと笑った。
「よく頑張ったな」
アースは、そう言って地面をけった。両手にはナイフを持っている。ナギと同じ武器だが、そのナイフは全く違ったものだった。
それは見事に、硬化した化け物の皮膚やとげを貫いていった。しかし相手の大ぶりな攻撃は間合いが広く、近づけば巻き込まれ、遠ければ近づけない。厄介だった。
その中で、化け物のほうが一度、スタミナを切らせて動きを止めた。
「くっそう。貴様さえいなければ、地球は俺が征服できたものを!」
息を切らせながらそう言う化け物は、自分を俺と言った。
そこにはもう、カーランド女史はいなかった。すでに化け物の中に取り込まれて崩壊し、死に至っていた。カーランド女史の体も意識もそこにはなく、あるのは、化け物の意識と体だけだった。
「迷惑な話だ。自分の星を自分で滅ぼし、そんな姿になってまで人様の星を欲しがるとはな。地球の次はここか」
アースはそう言うと、息を切らせた化け物に一撃、拳を食らわせた。すると、また大ぶりな攻撃が来て、退くことができないまま、アースは降りかかってきた腕を受け止めた。
「あの星の文明はもう終わりだった。力のあるものが滅ぼして何が悪い。滅びればほかの星に移住する、そんなことは人類がどんな手段を持ってもやってきたことではないのか?この星だってそうだろう」
「身勝手なことを!」
思わず、モリモトが口を開いた。化け物の瞳がぎろりとモリモトを見る。
「ちっぽけな人類。ちっぽけな命。我々惑星のシリンに比べれば力もなければ命も短い。そんなものを守ってどうする? 彼らは集団で惑星を滅ぼす。文明を作っては互いに争って滅びの道を歩む! そんなものを守ってどうする?」
化け物は、言いながらアースへのプレッシャーを強くしていった。アースはそれを受け止めたまま、化け物の弱点を探っていた。
「愚かな知的生命体!」
化け物がそういった瞬間、化け物はアースにプレッシャーをかけるのをやめた。
標的が、ものすごい速さで退いたからだ。
「お前も人類なら、死ねばいい! 滅びればいい!」
化け物は、そう言って、アースに向かっていった。重いその体がものすごい速さで走り出したものだから、教会の床にその体はめり込み、大きな地響きが鳴り響いた。
「なんとか言え、この人間!」
その化け物に対して、アースは大した構えも見せなかった。しかし、化け物が彼に近づいたその一瞬で、勝負の行方は決してしまった。
化け物は、右手をつかまれて地面にたたきつけられた。その衝撃で右手は二の腕まで地面にうずもれて動けなくなった。焦った化け物は左手を大きく振り上げたが、それを強い力で捕まれた。アースは、左手で相手の左手を封じ、空いたほうの右手で思い切り、化け物の胸に拳を突き刺した。
アースは、胸の中にのめりこんだ拳を開き、化け物の心臓を握りしめた。化け物が痛みに喘ぎ声をあげる。やめてくれ、やめてくれと懇願し始めた。
「戦いの最中に」
アースは、その凍った瞳で化け物を見た。
その瞳に慈悲はない。徹底的に自分の対峙した敵を殺すときの瞳だった。
その瞳のまま、容赦なく心臓を握りしめた。化け物の体が、喘ぎ声を失って地面に倒れた。アースは、瞳にいつもの光を取り戻して、倒れた化け物の死体が蒸発していくのを見た。
「戦いの最中に、喋りすぎだ」
そう吐き捨てて、モリモトとエルのもとに帰っていった。
そこで、三人は、全てを浄化する銀の木が活動を始めるのを見た。メティスの手が触れたその木は、マリンゴート全てを覆うほどの光を放って行った。床や天井、壁などに張り付いていた肉塊は消え、傷ついた礼拝堂に静けさが戻ってきた。
それは、メティスとウェインとの、最初で最後の共同作業だった。
東マリンゴートを包む強烈な光は、数秒間続いて、その中にいるすべての人間の心にあるものを撒いて行った。それは、それぞれが抱いていた不信感や不安、相手に対する憎しみや疑いを取り除いて、光が消えるのと共に去って行った。それは果てしない優しさを置いて消え、人々は、その暖かさに包まれて、まるで母胎にいるかのような安寧を手に入れた。光が消えると、暗闇の中にあった人間たちの胸に現実と、冷静さが戻っていた。
銀の木はそのまま教会の傍らにあり、再び光を放つことはなかった。ただ静かに、その場所から、東マリンゴートだけでなく、この世界の全てを見守っていた。
メティス・ランダーは何も言わないまま教会に戻り、待っていた友の間に戻って行った。クリスティーナ・カーランドのもとでメティスが失ったものは多かった。そして、それを取り戻すことは容易ではないだろう。父を失い、国民の信頼も失った。その後悔から抜け出せなくて、悲しい瞳のまま帰ってきたメティスに、待っていた三人のうちエルが、こう言った。
「惑星のシリンってのは、常に罪を負っている。そうだろ。これくらいでへこたれる惑星のシリンなら、必要ない。あんたは必要とされている。それだけでいいじゃないか」
メティスは、その言葉に感謝の感情がこみあげてくるのを感じた。自分はまだ、必要とされている。それが嬉しかった。だが、罪を負うことに慣れていないその心は弱ったままだった。メティスはそこで泣き崩れ、床に手をついて嘆いた。
すると、優しく暖かい手がメティスを包み込んだ。
アースだ。
彼は、メティスにささやきかけるように言葉を放った。その言葉は果てしなく深く、そして、優しいものだった。
「メティス、帰ろう。皆が待ってる」
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