17話

 愛衣が学年主任と担任に呼び出されてからどれくらい時間がたったのだろう。本当は数分程度だったかもしれないけれど、愛衣には何時間も拘束されているみたいだった。

会議室で、座らされたテーブルに向き合うように担任が座り、「どうしてあんなことをしたの?」と延々と問いかけられる。愛衣は固く口を閉ざしていた。話すことなんてない。話したとしても先生たちにはわからないだろう。中学生高校生の恋愛事情にどう入り込むというのだ。愛衣はじっと息を潜めていた。

 しばらくすると会議室の扉が開いて、愛衣の知らない女の人が入ってきた。愛衣より十センチほど背が高い。淡いブルーのスーツを着ていて、ブラウスの襟は白だ。ふわりと香水が薫る。愛衣は顔をしかめた。香水の匂いに化粧の匂いが混じっている。予想していたよりも見た目は若いけれど、歳はきっと愛衣の母とそんなに変わらないだろう。

「先生、この子ですか? ミナのことを引っ叩いたっていうのは」

 ちらりと横目で愛衣を睨んだ。春間美奈子の母親か。口元がひくひくと引き攣って、微笑んでいないのに唇の隙間から白い歯がのぞく。愛衣も睨み返す。

「春間さん、どうか落ち着いて……」

 担任が美奈子の母親を宥めるが、逆効果だった。

「落ち着いていますよ、えぇ、落ち着いています」

 なんだか声がうずわっていて、調子が狂っているように聞こえる。美奈子の母親は愛衣につかつかと歩み寄ると、急に手を振り上げて愛衣の頬を叩いた。ぱぁんっ と鋭い音が響き、愛衣の頬に熱が走る。

「ッ!」

 声は上げなかった。声を出したら負けだと思ったからだ。椅子に座ったまま、愛衣はきっと美奈子の母親を睨んだ。

「なんなのその眼は? 教育が鳴ってないんじゃないの?」

 顎の先を上げて愛衣を見下ろしているその目はわなわなと震えていた。

「この子の親はまだ来てないの?」と学年主任に怒鳴る。恭平も彩夏も来れないことはわかっている。来るとしたら大樹しかいない。愛衣は唇を噛んだ。膝の上で両手を握りしめる。

(また……兄さんに迷惑をかけてしまった……)

 心臓が縛り上げられているみたいに悲鳴を上げた。

 会議室の扉が再び開く。

「愛衣」

 優しく名前を呼ばれたが愛衣は顔を上げることができなかった。その顔を見ることを躊躇ってしまう。大樹が隣に立って「大丈夫か」とまた声をかけてくれる。この兄はどこまで優しいんだろう。

「ふざけているの?」さっきよりもうずわった声で美奈子の母親が叫んだ。「高校生じゃないの! 親はどうしたのよ親はっ! こんな子どもを寄越して、アンタたちの親は何しているのよっ!」

「父は仕事です。母は入院していて今来ることはできません」

 大樹が淡々と答える。担任が、父の仕事の内容を告げると「はっ! 海上自衛隊っ!」と言い放ち、愛衣と大樹を見据えて口元を歪めた。

「それじゃあ子どもだけで暮らしているっていうの? まぁなんて酷い親だこと! 育児放棄じゃないのそれ!」

 愛衣は顔を上げた。違うと叫んでやりたかったが、大樹の手が愛衣を制した。そのとき、愛衣は初めて大樹の顔を見た。険しい表情で美奈子の母親を見据えている。言葉こそ優しいけれど、兄も怒っているのだ。

「失礼ですが、あなたは育児放棄という言葉を正しく理解していますか?」

 大樹はまっすぐ美奈子の母親を見つめて、きっぱりした声で言う。

「俺の家は確かに両親はいません。ですがちゃんと父は働いて、休日には俺たちのところへ帰ってきてくれます。ネグレクト、すなわち育児放棄は児童虐待に当たります。生命の危機に直面することを虐待とするのであれば、今の俺たちの状況は、育児放棄なんかじゃありません」

 美奈子の母親はわなわなと全体が震えている。

「ですが……今回の件は妹がご迷惑をかけました。申し訳ございません」

 大樹が頭を下げると、今度は一転、口元を歪めたまま不気味に笑った。愛衣は大樹が謝罪していることにどうしようもない罪悪感を覚えた。胸がざわざわする。美奈子の母親は満足しているのかわからないが、早口に言葉を吐き続けた。

「子が子なら、親も親ね。海上自衛隊なんて野蛮な仕事をしているから、こんな子どもができるのよ。かわいそうに」

 かわいそう? 愛衣は歯を食いしばった。どうして他人にそんなことを言われなくちゃならないの。おなかにぐっと力を入れる。そうしていないと、教室でやったことと同じようになってしまいそうだったから。

「あなたも、男の人と付き合っているんでしょ?」

美奈子の母親の視線が大樹に向けられる。

「ミナから聞いたわ。その話をしたら、その子が椅子を投げたって。やっぱり親がいけないのよ。仕事でほったらかしにしているのは間違いないでしょ? ちゃんと日ごろから教育していないから。同性と付き合うなんて頭がおかしいって――――」


「兄さんの前でそんなこと言わないでッッ!」


 愛衣はテーブルを バンッ と両手で叩き立ち上がった。もう我慢できなかった。

「なんで他人のアンタに兄さんのことを悪く言われなきゃならないの? 自分が気持ち悪いって思っていることを排除しているだけでしょ? アンタの娘はっ、兄さんたちをネタにしようとしていた! 二次元と三次元の区別がついていないっ、そっちのほうが頭がおかしいわ!」

「愛衣、やめなさい」

「イヤよ、やめないわっ」

 厳しい声で制する大樹もぴしゃりと撥ね付ける。担任も学年主任も驚きのあまりに声も出ないようだった。

「お父さんが野蛮ですって? 見たこともないくせにお父さんのことを悪く言わないで! お母さんだってそうよ。入院して今は一緒に暮らせないけれど、アンタなんかよりも素敵な人よ! お母さんはそんなふうに人を貶したりなんかしないっ、勝手に決めつけないでッ!」

 咽喉がひりひりしている。途中から半分叫んでいた。こんなふうに、感情を剥き出しにしたのは生まれて初めてだ。憎悪の波動のようなものが愛衣の身体中からうねりながら飛び出して、会議室全体をめちゃくちゃにしている。息が切れて、心臓がばくばくと盛大に音を立てていた。

「愛衣」

 大樹の手のひらが、そっと愛衣の両目を塞いだ。苦しそうな声が耳を震わせる。

「……もういい。大丈夫だから」

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