16話

 教室で話しかけてくるのは委員長の菜摘くらいだった。それ以外の女子は愛衣を遠巻きに見るようになり、男子も前みたいに反しかけてくることもなくなった。菜摘の誘いを断ったのと、その時に言った「差別はなくならない」という言葉に尾ひれがついて、まるで愛衣が差別を助長しているように広まってしまった。


 翌日。愛衣は教室で宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んでいた。

みんなの本当の幸いとはなんだろう。そう問いかけるジョバンニの言葉が頭から離れない。大樹にとっての幸せは? 雪彦にとっての幸せは? きっとそれぞれ違うはずなのに、みんなが一辺に幸せになれることなんてあるのかしら。何度も読み込んで黄ばんだページを捲る。

 昨日、大樹に言われた「愛衣は強いなぁ」という言葉が再生される。

 強くなんかないわ。ただ、気を張っているだけ。

「一之瀬さん」

 名前を呼ばれてはっと顔を上げる。今年初めて同じクラスになった女子だ。春間美奈子。そばかすが散った頬に笑みを浮かべている。肩口で切りそろえた髪を無理やりひとつ結びにしているせいで、髪の毛がぴょんぴょんはねている。

 大樹と雪彦のことがクラスに知れ渡ったころから、美奈子の視線をたびたび感じるようになった。最初は嫌われているのかと思っていたが、それは軽蔑とは違った。それが何なのか、愛衣にもわからなかった。

 美奈子は内緒話をするように愛衣に顔を寄せると、好奇心たっぷりの声で囁いた。

「一之瀬さんのお兄さん、男の人と付き合っているって、ほんと?」

 心臓が締め付けられるみたいにキリキリしてきた。どくどくと音を立てて、このままでも脈を計ることができそうだ。指先が冷たくなっているのは、愛衣が冷え症名だけではない。

「紀藤さんが言ってた通りだ。何も言えないっていうのは、本当なんだね」

 寒気が背筋を這い登ってくる。クラスの大半が愛衣たちを見ている気がした。鼓動が高まり、こめかみあたりもじくじくと痛み出した。美奈子は、自分に何を求めているのだろう。本心が見えなくて怖い。

「あのね、お兄さんたちのこと、いろいろ教えてくれる?」

 どくんっ、ひときわ大きく胸が高鳴る。

「あ、違うの。冷やかしにするためじゃないよ」

 美奈子は明るい声で、両手を目の前で振った。

「お兄さんたちのこと、創作のモデルにしたいんだ。漫画とかであるでしょ? BLってやつ。あれみたいなことしてたりするの?」

 咄嗟に言葉が出なかった。愛衣の周りの空気が一気に低下する。体感温度は零度を下回っている。

 美奈子の言葉を脳内で繰り返す。

 兄さんと、雪彦さんのことを?

 創作に?

 BL?

 教えてほしい?

 冷やかしじゃない?

 頭に血が上る。頬がちりちりとざわめいた。周りの温度は低下したのに対して、愛衣の体温は怒りで上昇していた。


 一瞬、何が起こったのか愛衣にもわからなかった。


 バシッ と乾いた音がして、愛衣の手のひらに火を押し当てられたような痛みが走る。美奈子がよろめいて、隣の机に腰をぶつけて尻餅をついていた。ぽかんと口を開き、叩かれた頬を押さえて愛衣を見上げている。一瞬遅れて周りで悲鳴が上がった。

 愛衣は美奈子を平手打ちしていた。どうにもならない吐き気と不快感が、愛衣の胸を鋭く突き刺していた。

立ち上がった反動で倒れた椅子の足を掴む。両手で椅子を頭上高く持ち上げる。悲鳴がさらに大きくなる。鳥みたいな鋭い声が、ますます愛衣の胸の奥にある怒りを引きずり出す。椅子って、こんなに軽かったっけ。

「―――― やめて」

 自分でもぞっとするほど険しく冷たい声が唇から零れた。悲鳴をかき消すように椅子を振り下ろす。

「―――― 兄さんと雪彦さんの邪魔しないでッッ!」

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