15話

 教室へ入ると愛衣はいつもと違う空気に気付いた。愛衣に向けられる奇異の目が、あちらこちらから飛んでくる。それは授業中も続いて、愛衣が授業で当てられるたびに背後で何かこそこそと話す声が聞こえてきた。

いつもと変わらないというと図書室だった。本の匂いと静けさは愛衣の心を落ち着かせてくれる。奥の席へ向かうと、ロッキングチェアに座った音莉が分厚い本を膝の上に広げていた。

「何を読んでいるの?」

「今日のお供はミヒャエル・エンデの『果てしない物語』です」

「また寝ちゃだめよ」

音莉は「もう少しで寝ちゃいそうでしたぁ」と可愛らしく笑って、大きなハードカバーから目だけをひょっこり覗かせた。

「お兄さんのこと、大変でしたねぇ。噂、二年まで聞こえてきましたから」

 もうそんなに広まっているのか。愛衣は原稿用紙を出して書く用意を始める。

「噂なんてすぐ消えるわ」

「でも事実は消えません」

 音莉の言葉に愛衣は何も返せない。ぺらりとページを捲る音が、愛衣と音莉しかいない図書室に響く。

「アイちゃん先輩はお兄さんのことが大好きなんですね。そうやってご兄弟の幸せを願えることって、普通できないことですよ」

「そう?」

 聞くと音莉は一人っ子で、兄弟がいるという感覚がわからないと言う。

 兄弟の仲の良さなんて考えたこともなかった。嵐志には怒ることも多々あるけれど、仲が悪いわけでもない。かわいい弟だ。大樹も結衣も、兄弟がいなかったらなんて考えたこともなかった。

「先輩は驚かなかったんですか? お兄さんが、男の人と付き合うって知った時」

 ペンケースからシャープペンシルを出して、考える。確かに驚いたけれど、違和感というものがなかった。なにより、拒否感がない自分に驚いていたというのもある。

「もしかしてアイちゃん先輩、恋とかしたことないですかー?」

「ないわ」

「初恋とかも?」

「うーん……あ、『ムーミン』シリーズのスナフキン……」

「あー、わかりますわかります! カッコいいですよね、スナフキン! ……じゃなくてっ、生身の人間の初恋はまだですかってことですっ」

 ばんっ、と音莉は勢いよく本を閉じる。

「そうね……それはまだ」

「そうですか」

 音莉も言葉を濁す。本の登場人物を好きになるというのは、決して珍しいことではない。結果的に成就しないけれど、ストーリーが決まっているからこそ、誰かに取られるということもないからだと、愛衣は思っている。

「そうですねー、じゃあ、アイちゃん先輩は本は好きですか?」

「本は好きよ」

 音莉はロッキングチェアを大きくゆらりと揺らした。自分の中の言葉を吐き出すみたいに揺れは大きくなっていく。

「音莉は、恋するって、そういう好きと同じだと思うんですねー 何か気になったり、ドキドキしたり、最初はそういう〝好き〟から始まって、何度も何度も繰り返し読んで、それで手放したくなっていく一冊になる」

 次第に小さくなっていく揺れに合わせて、音莉はゆらゆらと声を乗せていく。愛衣の頭の中でも同じようにゆらゆらと彼女の言葉が揺れて聞こえる。

「人もおんなじだと思いますよ」

「音莉は、恋しているの?」

音莉はうふふっ、と小さく微笑み「さーて、どうでしょう?」と可愛らしく小首をかしげた。


 ***


「愛衣ちゃん先輩っ!」

 放課後に文芸部へ行く途中、ハスキーな声に呼び止められる。振り返ると文乃が廊下を走ってくるところだった。

「こら、廊下は走っちゃだめよ」

「うおっと! すみませんっ」

 愛衣の目の前で急ブレーキをかけて止まる。文乃もこれから部活に向かうところだった。いつも一緒の鐘花は、今日は掃除当番で遅くなるそうだ。

「愛衣ちゃん先輩のお兄さんって……普通の人ですよね?」

「普通?」

 文乃の言葉に愛衣は足を止めた。

「あ、いや、見た目って、男性って格好してますよね?」

「まぁ……女装は似合わないと思う……」

 そうですか、と文乃は少しほっとした表情をした。何を聞こうとしているのだろう。少し視線が泳いでいる。

「やっぱり、見た目とか服装とかで恋愛できるできないって決まらないんですね」

「どういうこと?」

 先に階段を上りきった文乃が立ち止まる。どうやら愛衣と話すために待っていたみたいだった。文乃は頬を指で掻くと、ちょっと深呼吸をしてから話し始めた。

「私、恋愛とか、恋バナとか、そういうの友達同士で話すのは好きなんですけど……みんな『付き合うなら文乃ちゃんのほうがいい』って言うんですよ」

 文乃は見た目からしてイケメン女子だ。少し癖がついた短い髪も、少しだけ吊り上った目元も、引き締まった筋肉も、そこらのひ弱な男子よりも男の子らしいと思う。言動もさばさばしているし、よく運動部に間違えられると言っていた。「文芸部です」と答えるたびに、意外な声を上げられるという。

「まぁ、冗談なんですけどね。そう言われるのは嬉しいですけど、私が女であることは事実ですし」

 それでも、冗談だとしてもなんだか辛いんです、と文乃は言った。悲しそうな眼をして、窓の外を眺めた。グラウンドが見える。そこでは野球部やサッカー部、テニス部やラグビー部が活動していた。

「性格もさばさばしていて男っぽい、服装もスカートよりもパンツ派、どっちかっていうとメンズ寄りが好みです。今は制服なので、スカート履いてますけど、時々、落ち着かない時があったりする……」

 スカートの裾を少しだけつまむと、形のいいふくらはぎが見えた。すーすーしていて、気持ち悪い時もあります、と付け加えた。

「文乃ちゃんがそういう好みになった理由って、あったりするの?」

 愛衣の問いに文乃は「心当たりは、ないです」と答えた。

「元々外で遊ぶのが好きだったので、動きやすさ重視で服を着てました。親はもっとスカートとか、フリルとか、着てほしかったみたいですけど」

 愛衣もフリルは苦手だった。少しくすぐったくて、女の子であることを強要されているような気もした。大樹の高校の文化祭で出会ったサキだったら、反対のことを言うのだろうか。シンプルなズボンが落ち着かない、と。

「男子に好意を持ったこともありますけど、こんな身なりだから周りからは『ボーイズラブ』って弄られることがあって。小六の頃ですよ? 小学校に入学してから仲良しだった男子ですけど、もう一緒に遊ばなくなりました」

 驚いた。小学校でそんなことがあるのか。けれど、男友達が少なくなっていくのは少しだけ気持ちがわかった。

「そんなことがあったの」

「はい」

「一緒に遊べないのは、辛いわね」

文乃は少し笑って「我慢しました」と言い切った。

「文乃ちゃんは偉いわ」

「だからって、自分の好みを切り崩してまで好きになりたくないなって。それで本の世界に逃げちゃいました」

 手に提げていた鞄から、分厚いファンタジー小説を取り出す。厚さ十センチにもなる海外の児童文学だ。大長編のシリーズもので、文乃が持っていたのは五巻目だった。

「今この世界とは違う次元、ファンタジー世界を読んだり書いたりすることで、忘れようとしていたのかもしれません」

カラフルな表紙を大切そうに見つめる。

「だから、愛衣ちゃん先輩のお兄さんたちのこと、ちょっとだけ、共感できるというか……すごいと思います。そうやって、向き合えるなんて」

 私にはできませんでした、と文乃が言った。少し悔しそうだった。歯を食いしばる文乃の背中を擦ると、ぐすっと鼻をすする音が聞こえた。

「それは……兄さんたちが高校生だからかもしれないわ」

 愛衣たち中学生よりもずっと自己が確立している。愛衣たちみたいに不安定じゃない。曖昧かもしれないけれど、思春期の入り口に立たされた愛衣たちよりは、経験者だ。

「だから、文乃ちゃんはこれからなのよ。私たちは、こんなところに押し込められているだけで、ここを出ちゃったら、少しは楽になるかもしれない」

 サキの言っていたことを思い出した。

早く、ここから出たい。

早く、大人になりたい。

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