14話

「愛衣ちゃん先輩?」放課後の部活で、夜鷹が片頬をぺたりと机にくっつけて愛衣の顔を覗いた。「元気ないですよ? 大丈夫ですか?」

 にへっと間抜けな笑い方をして愛衣の頭をぽんぽんと撫でた。

「大丈夫よ」

「あまり気にしちゃダメですよ」

お返しに夜鷹の髪をくしゃくしゃと撫でると、嬉しそうにまたにへっと笑った。

「アイちゃんせんぱーい! 音莉もなでなでしてほしいですー」

「静かにしていたらね」

「はぁい」

 後輩たちといると安心した。授業中ずっと大樹と雪彦のことで悩んでいたが、少しだけ気分が晴れた。しかし原稿が進まなかった。百字だけ書いただけで、後が続かない。愛衣が思っている以上に、昼間のことでダメージを受けていたらしい。家の事情に踏み込まれたからか。自分のことじゃないのに。黒い塊がどんよりと心の中に住み着いてしまった。

「一之瀬、気分が優れないならこれでも読んでろ。確か猫好きだったろ」

 花鶏が背後から大きな図鑑を差し出してきた。

「え? ちょっと花鶏これどうしたの?」

それは『世界で一番美しい猫の図鑑』だった。一冊五千円するから、なかなか手に入らないと思っていた図鑑だ。表紙の綺麗な猫を見るだけでも心が和んでくる。

「今日届いたんだってよ。あと、犬とフクロウもある」

 ドンッ、と分厚い図鑑を机に置く。どっちも綺麗な表紙で部員たちの目は一瞬にしてきらきらと輝いた。

「はいはいはーいっ! 音莉フクロウ見たいでーす!」

「あーん、あたし犬―!」

「愛衣ちゃん先輩、猫一緒に見てもいいですか?」

「あ、夜鷹先輩ずるいっ、私も見ますー」

 花鶏のおかげで初めは暗かった部内の空気が一掃された。

「よーしっ、今日は原稿お休みの日にしましょ!」

 風夏が立ち上がってノートパソコンをしまい始めた。それを聞いた文乃も色鉛筆とスケッチブックを片付けた。

「えー、でも十一月の締め切りって今週じゃないですか?」

「夜鷹……一週間締め切りを遅らせてあげる」

「ありがとうございます風夏部長様!」

きゃいきゃい騒いでいると、教室の掃除当番を終えて図書室に入ってきた悠馬が「静かにしろ」と怒鳴った。


 帰り際、家の前で悠馬が「大丈夫か?」と聞いてきた。

「何が?」

「紀藤と何かあったんだろ。変な顔してる」

 そんなに変な顔していたかしら。

 玄関を開けると珍しく桃子が出迎えに来てくれた。いつもリビングから出てこないのに。

 にゃーう。

「ただいま」

 足元に擦り寄って、満足したのかリビングへ去っていく。制服のまま桃子の後に続くと、早めに帰っていた大樹が戸棚からホットプレートを出してきたところだった。

「おかえり、愛衣」

「ただいま。今日のごはん、なに?」

「久々にもんじゃ焼き。愛衣の好きな明太チーズもあるからな。腹減ったろ? 早く着替えてこい」

「時間かかる?」

「いや、嵐志たちももうすぐ帰ってくるからそこまで遅くならないと思うけど……どうした? 風呂か?」

 小さく首を縦に振ると、大樹は分かったと愛衣の頭を撫でた。

「沸かしといてやるから、とりあえず着替えてこい」

 大樹に背中を押されて二階の自分の部屋に向かう。階段の途中で大樹の猫の吹雪とすれ違う。なに辛気臭い顔しているんだと言わんばかりに顔を見られた。猫に見られるなんて、どんな顔していたのかしら。

 大樹が沸かしてくれたお風呂に入る。湯船に浸かると足の先から緊張がほぐれてくる。

愛衣は嫌なことがあるとすぐにお風呂に入る。今日あった嫌なことを水にすべて流してしまうのだ。体もリラックスできて、思考もすっきりさせてくれる。

ふぅっと息を吐く。途端に眠たくなってきた。

「…………だめだ、消えない」

 今日あった出来事が頭の中から消えない。部活のときの賑やかであたたかい時間を思い浮かべても、心の奥に根付いたものは消えてくれない。気を緩ませるとすぐに顔を出してくる。きっと忘れられない。こんなに精神的に強烈なことは初めてだったから。

「差別……」

 口に出してみる。反響して変に意味深いように聞こえた。

「差別って……なにかしら……」

今までこんなふうに考えたこともなかった。どうにもならない曖昧なもの。とてつもなく大きな壁にぶち当たったような気がする。愛衣は湯船の中で両足を抱えると湯船がちゃぷんと波立った。

「それに……男同士だなんてどうでもいいことだわ……否定は、したくない……好きになることに、変わりはないんだもの」

 双方の気持ちが一番大事だと愛衣は思う。それで大樹と雪彦の関係は成立しているのだから。

「それに……兄さんのことも、雪彦さんのことも……大好きだから……」

 三つ年の離れた兄は、両親不在で愛衣たち三人の面倒を見てくれていた。嵐志は楽しいことを父の恭平に、苦しかったり大変だったりすることを大樹に教えてもらっている。約十歳も離れている結衣にとっては父親みたいなものだ。普通の高校生が経験することのない苦労をしてきた分、幸せになってほしいと愛衣は願っている。

雪彦もそうだ。自分のことを言い出せないこともあったはず。その中でも大樹を選んだ。そしてお互いの気持ちが一致したのなら、何の問題もない。ここ数か月雪彦と接して、愛衣も彼優しい人だって知っている。

「でも、兄さんと雪彦さんのことを……クラスのみんなは受け止めてくれるのかしら……今日あったみたいに、排除するのかしら……」

 湯船からちょこんと出た膝に頬を乗せる。もう一度、深く息を吐くと、白い湯気に溶け込んで消えていった。


「兄さん、話したいことがあるんだけど」

 夕食後に大樹の部屋に向かうと、ちょうどベッドの上で吹雪のブラッシングをしていたところで、盛大に吹雪に叱られていた。

「イテッ! 吹雪、ブラッシングのときぐらいおとなしくしててくれよー」

 ぅにゃーーーーおっ!

「すみませんっ、俺が悪うございましたっ!」

 また引っ掻かれている。もう十年以上も吹雪のお世話をしているにも関わらず、この主従関係は絶対だ。完全に大樹は吹雪に下僕扱いされている。特に機嫌を損ねたときは敬語が出てくる。

 吹雪は不機嫌そうに唸りながら大樹の膝から飛び降りると、本棚の上にひょいと飛び上がって愛衣を見下ろして尻尾をゆらゆらと激しく振り乱していた。

「兄さん……また機嫌損ねたのね」

「あぁ……また絆創膏が増える……」

 引き出しから絆創膏と消毒液を出してきて手当てする様子はずいぶんと手馴れていた。

「で、話があるんだって? 高校入試のことならやめておけよ」

「違うの。雪彦さんのことなの」

「雪彦?」

 大樹が顔を上げる。立ってないで入っておいでと促される。大樹の隣に座ると湯冷めしないように羽織ってきた肩掛けを、羽織りなおす。

「あのね、兄さんと雪彦さんのこと、クラスの子に思わず話しちゃった……」

 大樹はなにも言わなかった。顔を見ると優しい表情で「いいよ、続けて」と促される。

「昨日、私、雪彦さんと出かけたのをクラスの子に見られていて……私の彼氏だって噂されて……それで思わず、兄さんと付き合っているんだって、言っちゃったの。そしたら、気持ち悪いって……」

 目頭が熱くなる。声も震えて、喉が痛くなる。

「私っ、私は、兄さんや雪彦さんと同じ立場じゃないから、兄さんみたいにうまく説明できなくって……」

 ベッドの隅にあった大きな猫のクッションを愛衣に渡した。もちもちとした手触りに顔を埋めると、頭を優しく撫でられた。

「……気持ち悪いってのは、俺たちのこと? それとも愛衣のこと?」

「両方……」

 今まで名前で呼んでいたのが急に苗字に変わったのは、きっとそういうことなのだろう。

「あと……盗撮されてた」

「それは……」大樹もこれには口ごもった。「今の中学生って、思っていた以上にえげつないことをするもんだな。立派な犯罪だろう、それ」

 実際に写真を見せられたわけではない。けれど麻美ならやりかねない。火照った頬を両手で包み込む。熱い。

「写真撮られて、彼氏だって噂されて、それが悔しかった……違うって声を上げて言いたかった」

 そうやって広げられるのが怖い。放っておいてくれない。それがまた苦しくて悔しい。

「……俺たちのせいで、辛い思いをさせてごめんな」

「兄さんが謝る必要なんてない」

 パジャマの袖で涙を拭う。大樹もハンカチで顔を拭いてくれた。

「それでも、本来なら俺たちに向けられているものだ。その嫌悪は愛衣に向けられるものじゃない」

「兄さんたちに向けられるものでもないわ」

「愛衣は強いなぁ」

 本棚の上でくつろいでいた吹雪が下りてくる。華麗に着地すると愛衣の膝の上に乗ってきた。「俺のところには来ないんだな」と大樹がしかめっ面をして見せるも、吹雪は大きなあくびをするだけだった。

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