13話

 三年D組の教室は、確か詩織先輩が三年の時のクラスだった。砂のような雲がまばらに散る秋空を愛衣はぼんやり眺めていた。先輩もここからの景色を見ていたのだろうか。どんなふうに見えていたのだろう。雪彦と話してから、詩織先輩のことが懐かしく思い出され、その思い出に浸っていた。

「ねえ、アイちゃん」

 馴れ馴れしい甘ったるい声が背中にかかった。一年経っても慣れるものじゃない。心地いい声とそうでない声。これは後者だ。せっかく懐古に浸っていた気分が一瞬にして台無しになった。

「なに? 麻美さん」

 甘ったるい声の主、麻美がにこにことした笑顔で立っていた。

「こないだの日曜日、駅前の喫茶店にいたでしょ?」

 甘い声が絡まる。愛衣は歯をかみしめた。見られていたのか。あの幸せな空間が引きずり出されようとしている。「だったら何?」

「一緒にいた人って彼氏でしょ~。アイちゃん彼氏なんて興味ないって言ってたのに」

喉の奥がきゅっとい縮こまって声が出ない。男の人=彼氏という式がどうして浮かぶのだろう。麻美の顔が見られなかった。肯定か否定か。彼女はそれを求めていない。回答はすでに彼女の中に出来上がっているから。彼女は疑問文で聞いてこなかった。

愛衣は麻美を横目でちらっと見て、席に戻った。唇の隙間から細く息を吐く。

どうしたらいいかを考える。昨日の悠馬の時だってそうだ。雪彦のことをどう説明したらいいのだろう。うまく立ち回らなければ。そっと息を潜めてじっと周囲を見渡した。


「愛衣ちゃーん」

 休み時間に、図書室で夜鷹と原稿用紙を広げていると風夏がやってきて隣に座った。

「原稿?」

「そうよ……どうしたの風ちゃん?」

 風夏は自分も原稿用紙を出しながら、どこかそわそわしていた。一度周囲をじっと見渡してから愛衣の耳に口を寄せ、反対に座った夜鷹に聞こえない音量でこそりと風夏が耳打ちした。

「愛衣ちゃんって、年上の彼氏いるってホント?」

「それ、誰に聞いたの?」

 思った以上に声が低く出た。

「あ、えーっと……愛衣ちゃんのクラスの子が話しているのがちょーっと聞こえちゃって……あの、いつも愛衣ちゃんにくっついている引っ付き虫ちゃん……名前何って言ったっけ?」

 勢いよく立ち上がると音を立てて椅子が倒れた。夜鷹が「びゃっ!?」と変な声を上げて飛び退いた。

「ど、どうしたんですか……愛衣ちゃん先輩?」

「ごめん、先に戻るわ」

「え、ちょっ……愛衣ちゃん先輩原稿忘れてますっ」

 原稿も筆記用具も持たず愛衣は図書室を出た。訳も分からない感情が胸の中を荒らしまわっている。自分でもその正体がわからなくて恐ろしい。教室のドアを開けるとざわついていた室内が一瞬しんとなった。音が大きかったからかもしれない。けれど女子の何人かは愛衣を見てこそこそと話している。噂はもう広がっている。愛衣は冷静を装って自分の席に着いた。窓側の一列目の一番前。開けた窓から入ってくる風が直撃していた。


 給食の時間が終わる。もうすっかり愛衣のことがクラスに浸透していた。高校受験のモードに入るのは遅いのに、浮ついたことには敏感ですぐに馴染む。

 窓に寄りかかって朝と同じように空を見ていた。風が強くなって木の葉が舞っている。秋風の中に冬のにおいが混じっていた。すっと鼻をとおっていく冷たい空気が教えてくれている。

 隣に誰かが立った。麻美だった。

「何見てるの?」

「何もみてないわ。ボーっとしてただけ」

「あの男の人のことでも考えていたんでしょ」

「……なにか広まっているのはあなたが話したの?」

 麻美はけろっとした表情で「だってアイちゃん、何も言わなかったもん」と言ってのけた。「何も言わないってことは、図星ってことでしょ?」

何も悪いことはしていないという態度に愛衣は眉を寄せる。

「だからって好き勝手に話していいってことにはならないわ。一体何を考えているの?」

 呆れを通り越してもう絶望しかない。麻美は考えることを知らないみたいで、常に自分の意見を正当化していないと生きていけないみたいだった。愛衣の言葉を無視して麻美は自分の話を続けた。

「あと、彼氏ができたら真っ先に報告するって約束してたのに、麻美に内緒にしてたんだーって思って」

 勘違いもいいところ。そう叫んでしまいたかった。約束なんてした覚えはない。胸がむかむかしてきて、脂っこいものなんて食べてないはずなのに胸やけがした。窓枠に置いた手が、サッシに食い込む。

「あの人は彼氏じゃないわ」

「え? 違うの?」

 ぎゅっと唇を噛んだ。何を今更聞くのだろうか。そんなに恋愛ネタがほしいのだろうか。麻美はへらりとまた笑った。

「えー、でもアイちゃんそうやって誤魔化してるんでしょ。だってアイちゃん隠すのヘタだもんね」

 笑顔がうっとおしいと思ったのは初めてじゃない。

 愛衣は一度、麻美と遊びに行く約束をしたことがある。けれど猫の桃子が具合が悪くなって急遽行けなくなったのだ。他の兄弟に任せてもよかったが、愛衣が責任を持って面倒を見るという約束で桃子を育てているし、何より桃子のほうが大事だった。

 そのことを麻美に伝えると、彼女はさも当たり前のように「じゃあお見舞いに行くよ」と言ってきたのだ。まだ病院にも連れて行っていない状態で、何が原因かもわからないのに、お見舞いとか有り得なかった。それに桃子も具合が悪くて不機嫌だ。愛衣でさえも近寄らせてもらえない。

「アイちゃんのネコちゃん見たいな~」

 単なる愛玩動物としてしか見ていないように聞こえた。

「ごめんなさい、まだ何が原因かわからないし、お医者さんにも見せてないから合わせることはできないわ」

 すると電話の向こうからこう返ってきた。

「アイちゃんさー、ネコちゃん理由にして私と出かけるのイヤって言ってるでしょ。やっぱり家の用事が一番断りやすいもんねー。でもネコちゃんは断る理由にしては、ちょっとキツイよ?」

 イライラした。早く電話を切りたくて受話器を持った手が震えていたのは、今思い出しても気分が悪くなる。

 麻美の言い方に疑問はない。決めてかかっているのだ。何の確証もなく自分だけの判断で。それかとても恐ろしかった。

「とにかく、あの人は私の彼氏じゃないわ」

 まるで自分こそが愛衣のことを一番よく知っているとでも言っているようだ。愛衣自身がいうことさえも否定されている気分。なにを言っても信じてくれない。

「えー、じゃあアイちゃんの何なの?」

「兄さんの友人よ。同じ弓道部の人」

 麻美の目が輝いた。

「え、ちょっと待って。弓道やってるのあの人? 超かっこいいー」

 言葉の一つ一つが気にかかる。大切にしているものを汚されていくみたいだ。雪彦の横顔が浮かぶ。それから大樹の顔も。前に保健室の山崎先生から「言葉は呪いみたいなものよ」と言われたのを思い出した。ここまで苦しいとは思わなかった。

「やっぱり高校生はかっこいいよねー それに弓道やってるってめっちゃ素敵じゃない! あとイケメンだよねー 私、写真撮っちゃった」

 ガンッと頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。同時に愛衣の心が煮え手繰り始める。写真に撮った? よくそんなことができるものだ。思わず悲鳴を上げそうになって咄嗟に口を手で塞ぐ。麻美の考え方や言動は、愛衣には到底理解しがたいものだった。

「それ、犯罪でしょ」

「え? そうなの?」

 けろりとして首をかしげる麻美に愛衣はもう我慢がならなかった。甘い砂糖のような声を、バッサリと切りつけるように口に出した。

「兄さんの彼氏よ」

 一瞬、静まった。麻美の表情が固まっていく。

「え、今なんて?」

「だから、兄さんの彼氏って言ったの」

「アイちゃん麻美のことからかってるの? 彼女の間違いでしょ?」

「麻美さんって、耳悪かったかしら? 何度も言わせないでちょうだい」

 言葉が次々に口からこぼれ出てくる。愛衣は後悔していなかった。そんなことでいじめに発展することも知っていた。一人でいる時間が増える。それはそれで愛衣にとって好都合だった。

「え……ホモ?」

 愛衣は何も言わなかった。雪彦から聞いて知っていたが、ホモだったりレズだったりというのは差別用語だ。しかしそっちの方が浸透しているのは事実だった。

「ホモとご飯食べてたの?」

「……兄さんたちのことを軽々しく差別用語で呼ばないで」

 愛衣がきっと睨む。麻美はあり得ないという目で愛衣を上から下へと見ていた。いっそこの場で彼女を窓から投げ落としてしまおうか。

「え~、一之瀬さん、気持ち悪くない?」

 サッシを掴んだ手が痛い。相手に媚びて、自分に都合が悪くなったら離れていく。今まで馴れ馴れしく、自分こそ一番の親友という風に接していたのが、もう一転している。

「えぇ。それよりもあなたの方が気持ち悪いわ」

 声が震えているのが分かった。怒りで震えて、声を出すたびにきりきりと痛む。ここまで他人に怒りを覚えたことはなかった。自分の言葉に棘があるのがわかる。気味悪がっている麻美の横をすり抜け、自分の席に着いた。授業開始のチャイムが鳴り響く。喧騒が一気に引いていく。数学の教師が入ってきて、教科書とノートを開くよう指示する。愛衣はセーラー服の胸ポケットに手を当てた。赤珊瑚の万年筆が入っている。

(兄さんと雪彦さんのこと、言ってしまった……)

心臓がどくどくと音を立てていた。まだ咽喉が痛い。感情に任せて口に出してしまった。冷静に考えてみれば、これでは愛衣が大樹と雪彦の関係を公表しまったのも同然だ。しまったと思っても、もう遅い。

(どうしよう……兄さんや雪彦さんに許してもらっていないのに……)

 机の下で両手を固く握りしめる。

 愛衣は当事者じゃない。現在当事者なのは大樹と雪彦のほうだ。大樹は元々ノーマルだったからどう表現したらいいのかわからない。けれど今、雪彦と同じ立場であることは間違いない。

 当事者じゃない愛衣はどうしても二人と同じ少数派側になれない。状況を知っていたとしても、差別をいくら反対していたとしても、愛衣の意見は、所詮は多数派側の意見に過ぎない。

(兄さんと雪彦さんに何かあったら……私のせいだ……)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る