11話

「買い物に付き合っていただいて、ありがとうございました」

 期末テストが終わった週の日曜日。愛衣は雪彦と電車を乗り継いで、街中の百貨店に来ていた。紺色の膝下丈のワンピースに淡い黄色のカーディガンを着た愛衣は、大きな紙袋を二つ手に提げて雪彦の隣を歩く。

「いや、いいよ。俺も暇つぶしできたし。こっちこそありがとう」

雪彦は白の長袖シャツに、紺色のベスト、ジーンズに、黒のハットを被っていた。さすが高校生。中学生よりもオシャレだ。

 雪彦はあそこで一服しない? と、地下にあるカフェを指した。愛衣も何度か行ったことのあるCafé 黒猫。愛衣が持っている荷物を奪い、エレベータ乗り場に向かう。

「この荷物じゃ帰るまでに疲れる」

 もしかして疲れているのは雪彦のほうかもしれない。ここはおとなしくついていくことにしよう。


「まったく、兄さんったら、ちょっと風邪っぴきだったのに、昨日の雨の中、嵐志と走りに行ったから熱を出したんですよ」

「それは大樹の自業自得だ」

 席に通されてから、愛衣は大樹の愚痴を雪彦に聞いてもらっていた。本当ならば、雪彦は大樹と出かけるはずだった。けれど大樹が熱を出したせいで、延期になってしまった。

「雪彦さんとのデートをすっぽかすなんて、妹として恥ずかしいです」

「嵐志くんは大丈夫だったの?」

「嵐志は心配いりません。今までで風邪もインフルエンザにもかかったことないんです」

「それは……すごいな」

店員の女性が水とおしぼりとメニューを持ってくる。

「お決まりになりましたらお呼びください」

「けっこう、メニュー多いんだ」

 テーブルに広げ、雪彦は唇に指を当てて考え出す。コーヒーの種類だけでも十種類はあった。黒猫ブレンド、アメリカン、ブラジル、コロンビア、マンデリン、サンミゲル、モカ、キリマンジャロ……あ、ケニアもある。

「私、ブレンドで」

「すんなり決めるんだね」

「まぁ、コーヒー好きですから」

 デザートのメニューを見ている間も雪彦はドリンクで迷っていた。紅茶で迷っているらしく「これもおいしそうだし……でもこれも捨てがたい……」と一人ぶつぶつ呟いている。

「雪彦さんって、迷われるほうですか?」

「いろんなものあれば迷うよ。普段食べたり飲んだりできないようなものがあるなら、なおさら」

 二十分迷った挙句、雪彦はミルクティーとオレンジブリュレ、愛衣は黒猫ブレンドコーヒーとイチゴタルトを注文した。

「ブリュレでよかったんですか?」

「迷った末だよ」

「何と迷われていたんですか?」

「いろいろ。抹茶のモンブランも、ミルクケーキも、イチゴのミルフィーユも捨てがたかったけど……」

 名残惜しそうにメニューを眺める。その他にも抹茶のロールケーキや、フルーツロールケーキ、紅茶プリンにコーヒーゼリー。迷うのも頷ける。

「優柔不断なんですね」

「弓道ではそんなことないけど」

「判断する反射神経が弓道に全部持ってかれたんじゃないですか?」

「もしかしたらそうかもしれない」

 雪彦の目が細くなる。

 店内は至るところに黒猫が描かれていた。おしぼり置きの皿も猫が付いていた。客層はカップルや、女の子たちが多かった。

「それにしても、よくそれだけ買ったね」

 愛衣の隣にある二つの紙袋を雪彦はしげしげと眺めた。この中身は全部さっき買ったばかりの本だ。小説から漫画、資料の風景写真集や画集。選びに選び抜いた、総額二万円の戦利品。

「全部読むの?」

「えぇ。読まなければ買いません」

「それはそうだろうけど」

「これだけなら、一週間あれば読破できます」

 うわぁ、と雪彦の口から声が漏れた。

「愛衣君、ほんとに中学生?」

「ご覧の通りの中学三年生です」

 生徒手帳を出そうとしたが雪彦に止められた。生徒手帳はとりあえず出かけるときは財布と一緒にいつも携帯している。愛衣はクラスでも平均的な身長体重で、少し胸が出ているくらい。あとは走るのが少しだけ速くて、数学が苦手で、本にお金をかけるくらいの、どこにでもいる中学生。自分ではそう思っていた。

「おこづかいとか、どうしてるの?」

「もらってないですよ」

 愛衣はくすくすと笑った。おこづかいなんて久しぶりに聞いた言葉だった。

 一之瀬家では、両親が常に不在のため、自分がほしいものは各々が貯めたお年玉を切り崩して使っている。たまに、家の片づけや手伝いをしておこづかいをもらうという話を聞くたびに、おかしいと思う。家は自分が住む場所だから片付けて当たり前だし、家族が疲れていたら無償で手伝いをするのは当然のことだと思っていたからだ。家の状況や価値観の違いだろうから、あまり愛衣は気にしていなかった。

クラスの友達が、いくらおこづかいもらっているかと話したことがあった。愛衣がもらっていないと答えると、月に一万円貰っている子から、かわいそう、と言われたことを思い出した。

「お金の管理は兄さんがやってます。本のお金は毎回買いに行くたびに貰っているんですけど、あまり負担をかけたくないんですよ。嵐志と結衣も、まだ手がかかる年頃ですし」

 氷が少し溶けた水を飲む。思い出したことと一緒に、深く深く沈める。

 コーヒーと紅茶が運ばれ、そのあとにデザートが運ばれてくる。広げられたカップを見て、愛衣と雪彦は肩をすくめた。

「見た目で判断しないでほしいね」

「そうですね」

 雪彦のティーカップの柄が、明らかに女性もののデザインだった。淡いオレンジ色のカップに花があしらわれ、取っ手も小さい。対して愛衣のコーヒーカップも、明らかに男性用のシンプルなデザインで、かわいいとは言いづらい。

「まぁ、仕方ない。今更カップ変えてくれとは言いにくいし」

 反対に置かれたカップを取り換えて雪彦は落ちる砂時計の砂を眺めていた。

 男はコーヒー。女は紅茶。その決めつけみたいなものが見えた気がしてもやもやしたものが愛衣の胸に広がる。気にしすぎかしら。雪彦のほうが年上だからコーヒーが置かれたのかもしれない。敏感になりすぎるのも考えものだ。湯気の立ったコーヒーを口につける。苦さが心地よかった。

「砂糖は?」

「あ、今日はいらないです」

「ブラック?」

「はい」

「俺、無理」

「そうなんですか」

 雪彦の家が、紅茶を飲む人が多かったらしい。それで自然とコーヒーより紅茶を選ぶようになったそうだ。環境によって好みが変わるのも納得だ。

「たまに砂糖入れますけど、最近は小豆を入れるのがマイブームなんです」

「小豆?」と聞き返される。コーヒーに小豆。確かにアンバランスなようにも聞こえるが、控えめな甘さが苦みと合って、和風コーヒーになるのだ。

「俺もミルクティーに小豆入れる……」

「雪彦さんも?」

「最近発見した。小豆は合う」

「合いますよね!」

 思わず握手をしてしまった。愛衣と雪彦は好みが同じなのかもしれない。わかってくれない人がいるという話題も、すんなりと彼と意気投合した。共感できる人ができたのは、初めてだ。中学のクラスメイト達とは全く合わなかった話題が話せる。そのことに胸が高鳴り、カップの柄のことなんてどうでもよくなった。

「ちなみに、大樹は何が好きなの?」

「ふふっ、恋愛相談ですか?」

 聞くと、雪彦は弓道以外に興味を持ったことがなかったせいで、大樹の好みがわからないという。

「無理しないで、わからないままでもいいんじゃないですか? これからお互い知っていけばいいんですから」

「愛衣くん、ほんとに中学生?」

「そうですよ」

 兄と雪彦の邪魔をしたくないという思いもあった。今まで恋愛らしい付き合いをしたことがない二人だからこそ、失敗したくないと思うのかもしれない。砂時計の砂が落ち切った。雪彦が とぽぽ、とカップに紅茶を注ぐ。

「我が家の男子は全員コーヒーが飲めません。カフェオレにしないと飲めないんです。それもミルク多めで」

 大樹も嵐志も父の恭平もそうだ。それなのに外で飲むときは格好つけてブラックで飲む。やはり親子は似てくるものなのだろう。

「変なプライド捨ててミルク多めのカフェオレ頼めばいいのにって、いつも思いますよ」

 カツカツ、とブリュレのカラメルを割っていた雪彦の手が止まった。

「愛衣くんは馬鹿にしないんだね」

「馬鹿にする人がいるんですね」

「まぁね」と雪彦は頷いた。イチゴのタルトをフォークで一口サイズに切り分ける。タルト生地がぽろぽろと崩れ、それをフォークで口に運ぶ。

「愛衣くんだけじゃない。大樹も、嵐志くんも、結衣くんも。君たち兄弟は、一緒にいてほんとに居心地がいい」

「そう思っていただけて、光栄です」

 イチゴを口に運ぶ。甘酸っぱい。甘いタルト生地とうまく調和している。雪彦にブリュレを一口もらった。カスタードの中に、オレンジがごろっと入っていた。

「愛衣くんは、好きな人はいないの?」

「いないです」

 即答する。心当たりに近い人はいた。けれどそれは恋ではないと自分で気づいてしまった。

「一年のころ、文芸部の部長……詩織先輩っていう人だったんですけど、先輩がそうかなと思ったことはありました。でも、それは違いました。ただの憧れでした」

 宮沢詩織先輩は変わった人だった。廃部寸前の文芸部を立ち直らせた張本人で、図書室の一角を部室にして、自分専用のロッキングチェアを運び込んだ。今、音莉が占領しているあのロッキングチェアは、もともとは詩織先輩の私物なのだ。そこで読書をして、小説を書いては、賞に応募していた。卒業してからは高校一年で受賞して、高校生活と作家活動を両立している。けれど、どこの高校に通っているのかは教えてくれなかったからわからない。卒業の時に使っていた赤珊瑚の万年筆を愛衣に譲ってくれた。まだ一度も使ったことがない。お守りとして制服の胸ポケットに忍ばせている。

「その先輩のおかげで、書くことは根暗なことじゃないって教えていただきました。それで今までは読むだけだった小説を書いてみたいと思うようになったんですけどね。私の恩人です」

 そう、恩人という言葉がしっくりくる。話しているうちに、だんだんと懐かしくなってきた。コーヒーを一口飲む。

「読んでみたい」

雪彦が興味深そうに言った。

「誰かに読ませたことはあるの?」

「いいえ」

首を横に振る。書いた原稿をクラスの友達に読ませたことはある。けれど、帰ってきた言葉は「すごい」「面白かった」「私には書けない」がほとんど。ちゃんとした感想は、文芸部員くらいからしかもらったことがない。特に文法間違いの指摘をするのは悠馬だけだった。

「兄弟以外では、部員と顧問の先生くらいしか……あ、でも部誌にして図書室には置いてありますが」

 雪彦はもう一度、読んでみたい、と愛衣に告げた。帰りに一之瀬家に寄って、渡すことになった。そういえば、大樹や顧問の先生以外で年上の人に作品を読んでもらったことなんてなかった。どんな感想が聞けるだろう。

「なるべく厳しい意見をお願いします」

「うわ、プレッシャー」

「弓道とどっちがプレッシャーありますか?」

「いや、どう考えても感想言うほうが難しい。自分の感じたことを言葉にするのは、あまり得意じゃないから」

「楽しみにしています」

 ブリュレを平らげて、雪彦は最後の一滴まで残さず紅茶をカップに注いだ。取っ手が小さくても雪彦は器用に持ってカップを口まで運んでいた。その手のひらは当然愛衣よりも二回りも大きい。それでもペンのインクの跡が残る愛衣の手よりも綺麗だった。

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