10話

「さぁみんな。とうとうこの日が来ました!」

 十一月の寒空の中。まさに発表会日和に晴れた青空。合唱コンクール本番当日を迎えた三年D組の生徒は、会場である公会堂に併設された庭園に来ていた。広大な庭園のあちこちで、昼食を終えた三年生がクラスごとに最終練習を行っていた。愛衣たちも練習最後の調整を終えたところだった。

「最後の歌も完ペキだったよ! これなら金賞間違いなしっ!」

「これが終わったらテストがあるし、本格的な受験シーズンに突入するけど、ここで団結力を深めよう!」

 委員長の菜摘と指揮者の誠からひと言ずつ声が上がる。愛衣も円陣に加わってそれを聞いていた。意図的なのか偶然なのか、男女交互に並んだ円陣。何人か飛ばした先に、本が読めなくてイライラしている悠馬の姿が見えた。

「でも油断は禁物だよ」と菜摘が釘を刺す。

「そうだ。練習の時に思い知ったとおり、ほかのクラスもハイレベルだ。全力を出して金賞を取るぞ!」

 誠が隣同士と肩を組むと、クラス全員がそれに倣った。

「D組金賞! いくぞ!」

「おーーーっ!」


 本番直前。舞台袖は朝焼け前のように薄暗い。その中で前のクラスの発表曲に耳を傾ける。『あの素晴らしい愛をもう一度』は、花鶏のクラス。しかも数日前に知ったことだけれど、伴奏が花鶏なのだ。花鶏にこんな特技があったとは知らなかった。

 周囲を見渡すと女子たちは「わー、緊張してきたー」と震えている子もいれば、「大丈夫大丈夫」と暗示をかけている子もいた。

 演奏が終わる。一拍置いて盛大な拍手が上がる。

進行役の生徒会役員に誘導されてステージに上がる。隣に立つ菜摘が「がんばろうね」と小声で囁いた。照明は眩しく、観客なんて見えなかった。会場内にアナウンスが流れる。

「続きまして、三年D組の合唱です。曲は『遠い日の歌』」

 十七世紀、ドイツの作曲家パッヘルベルの名曲『カノン』をカバーした合唱曲。聞いたことがある人は多い。有名だからこそ仕上げるのが難しいと、音楽担当の先生が言っていたのを思い出した。

 指揮台で誠が客席に一礼をする。それから力強く腕を振り上げ、伴奏に合図を送った。


 ♪


 歌い始め。男声と女声のAメロは穏やかに。続けて緩やかなスキャットへ。ここではまだ強弱をつけない。静かに、囁くように。まだ声を伸ばすから互いのパートが合わせやすい。指揮もまだ小さい。間奏もないまま二番へ入る。

 女声と男声の交互のAメロ。スキャットも少しずつアップテンポなリズムに変化していく。ソプラノとアルトのハーモニーに、クレッシェンドとデクレッシェンドが付き始め、リズムをとるのが難しくなっていく。丁寧に声を合わせる。

 三番目。愛衣がいるソプラノはここからずっとスキャットが続く。一人一人息継ぎに注意して、男声とアルトの声を引き立てる。ラストの直前、指揮の手が大きく振り上げられる。伴奏もそれに合わせて大きくなり、歌声にも盛大なクレッシェンドがかけられ、誰もが知っているであろうスキャットに突入する。声に熱がこもり、しとやかに広がっていくのがわかった。文字で表現するのは難しい。感情、声量、リズムとメロディ。一人一人の声とピアノの音。歌い終えたくないと、ほんの一瞬思った。


 ♪


 結果、愛衣のクラスは銀賞だった。それでも担任や一部の女子に泣き出す子も出てきた。歌い始めから三分十四秒。他の楽興局に比べれば短い。歌ってしまえば、間奏もないせいか、あっという間に感じた。特に深い思い入れもない、あまり協調性もないクラスにしてはいい結果だと思う。

 表彰式を終えて、会場から出る。ずっと座っていたせいか体がぎしぎしして節々が痛い。腕を組んで背伸びをする。冬の気配が混じった空気は冷たくて、暖房が利いた会場の中にいた愛衣の体中を冷やしていく。そういえば、大樹たちに会わなかった。来ているはずだろうが、帰ったのかしら。

「一之瀬さん!」

兄弟たちの姿を探していると知っている声に呼ばれた。誠だった。指揮をしているときと違って、おどおどしているみたいに見えた。

「ちょっと今から時間ある?」

「……少しなら。何か用?」

「あー……ここじゃ、ちょっと……」

 少し遠くに複数の男子たちがこっちをちらちらと見ていた。すぐに勘付いてしまったけれど、誠の後に付いていくことにした。

 連れてこられたのは庭園の奥にある東屋みたいなところだった。足元にたくさん枯葉が落ちて、踏むたびにカサカサと乾いた音を立てている。このまま奥に行けば、市内でも三本の指に入る図書館があるな、とか考えていると、誠が愛衣に向き合った。

「一之瀬さん、好きです、俺と付き合ってください」

 何を言われるか想像はしていたけれど、なるほど、ここ最近のアプローチはそういうことだったのか。十センチほど背の高い誠の顔を見上げる。正面に向かい合った誠の頬が紅葉色になっていた。そんな彼を見ても何も思わないのは、自分が薄情だからだろうかと、一瞬思った。

「……ごめんなさい。すぐには返事できない」

 それしか返事が思いつかなかった。こんなにストレートな告白を受けたのは初めてだったけれど、だからといってときめきがあるわけでもなかった。

「そっか……」

「ちょっと考えさせてくれる?」

「うん……」

「少なくとも、そうね……テストが終わってから返事を考えるわ」

「テスト……」

 テスト後と聞いた誠は少し残念そうな表情をしていた。「やっぱまずはテストが先かー」と空を仰ぐ。ここまでへこまれるとなんだか申し訳なくなってきた。でも罪悪感と付き合うとは話が別だ。それにこの後に控えている期末テストの結果次第で志望校を絞り込む。重要なテストだった。

「前向きに考えておくから」

 そう伝えると誠は「サンキュー」と照れたように頬を掻いた。返事を強要させられると思っていたが、案外ちゃんと考えてくれていたらしい。

「本当はな……」公会堂に戻る際、誠が口を開いた。「金賞を取ったらステージで告白しようと思ってたんだけど……」

 一気に気持ちが冷めていくのが手に取るようにわかった。全身に鳥肌が立ったのは、きっと風が吹いて寒くなったせいだけじゃない。立ち止まった愛衣を誠が振り返る。

「どうしたの、一之瀬さん」

 このときほど金賞を取らないでよかったと思ったことはなかった。そんなの公開処刑でしかない。笑い話でこの場を和ませているつもりだったのかもしれない。さっきよりも低い声が口から滑り出た。

「ごめんなさい……前向きに考えられなくなった」

「え?」

「私、そういうサプライズみたいなことダメなの……」

「え? なんで? 女子ってそういうの嬉しいもんでしょ?」

 サプライズ=女子が喜ぶとでも思っていたのか。少なくとも愛衣はその手の類が本当に苦手だった。しかも、ステージの上で全校生徒が見ている中で告白とかは漫画の中だけでいい。

「ごめんなさい。本当に無理なの。気持ち悪いとしか思えないの。土川くんのことが好きだったとしても、今ので好きじゃなくなったわ。だから今ここでお付き合いはお断りしておく……」

 それだけ言ってその場を走り去った。

 口元を手で塞ぐ。まだ背筋のぞわぞわしたものがなくならない。土川誠はいい人だ。いい人だけれど、それでも限度というものがあった。ひときわ強く風が吹いて、紅葉がそれに乗って愛衣の上に振ってきた。

「愛衣ちゃーんっ! どこ行ってたのーっ!」

 公会堂の前にいた風夏が、大きく両腕を振って駆け寄ってくる。そこには文芸部員が全員集まっていた。

「ちょっといろいろ……」

 風夏は「銀賞おめでとうっ!」と愛衣に抱きついた。

「感傷に浸っていたのかな? よし、これで文芸部全員集合ね」

 風夏がぐるりと部員たちを見回す。文乃、鐘夏、音莉、夜鷹、花鶏、悠馬、うん、全員居る。

「これからあっちにある大きい図書館行くんだけど、愛衣ちゃんも行く? 花鶏のやつが行きたいって言って聞かないのよー」

「俺のせいにするなっ!」

「そうですよ~ 一番行きたがってたの風夏先輩じゃないですか~」

「あっれー、そうだっけー? まぁみんな行く気満々だけど……愛衣ちゃんどうする?」

愛衣は迷うことなく「行くっ」と即答した。


 愛衣が知らないうちに土川誠がふられた話は広まっていた。合唱コンクールが終わった次の週、教室に入った際に女子たちに「なんで土川のことフッたの?」と質問攻めにあったくらいだ。誠と仲がいい女子が「一之瀬さんっておとなしそうだけど、ひどいことするよね」と根拠もないことを言い始めた。誠は男子にも女子にも人気がある。クラスの大切なムードメーカーでもあるのだ。女子は遠巻きに見ていたが、男子はというと「一之瀬さん冷徹ー」「心も氷なんじゃねぇの?」とまで言い出した。

「気にしちゃ負けよ愛衣ちゃんっ! だってイヤだから断ったんでしょ? それだけじゃないの」

 合唱コンクールの後、誠との一連を風夏にだけ話した。風夏は最初は「愛衣ちゃんモテるー」と冷やかしていたけれど、後半は結構心配していた。

「もう気にしてないわ。勝手に言わせておけばいいのよ」

「おっ、いつもの愛衣ちゃんに戻ったね」

風夏がそう言って愛衣の背中を叩いた。

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