9話

 夏休みが終わったころから話題になっていた合唱コンクールのクラス曲が決まった。

「私たちのクラスは『遠い日の歌』に決まりましたー!」

今朝のホームルームの時間に、学級委員長の二村菜摘が教台に上がってそう伝えると、教室のあちこちから歓声だったり文句だったりの声が飛ぶ。『遠い日の歌』はシンプルなだけに難しい。けれど馴染みのある曲で、愛衣はこの曲を第一希望にしていた。

「はい、文句は言わないで。この曲で金賞を狙いましょう!」

 菜摘が声を上げる。

 菜摘は愛衣と同じ小学校出身で、小学四年のころから中学校生活の三年間も含めて、毎年のように学級委員長を務めている。それだけ信頼もあるのだろうが、第一要因は彼女の容姿にあると愛衣は思う。一言でいうと菜摘は美人だ。ぱっちりした二重に桃みたいにふっくらした頬、一つに結った髪もさらさらで、クラス公認の美人だ。

 それに加えて優等生であり、協調性もある。菜摘は誰にでも声をかけ、世話を焼くようにくるくると走り回っている。クラスメイトが皆平等になるように奮闘しているのだ。それこそいじめなんかが起こらないように。それが担任の評価を上げているのかもしれない。


「あぁ、私のとこね『春に』になったよ」

 放課後の文芸部でも課題曲の話題が上っていた。部長の風夏がノートパソコンのキーボードをかたかたとせわしなく打ちながら、嬉しそうに教えてくれた。十月号の製本が終わったと思ったら、もう十一月号の作品を打ち込んでいる。部員たちも新しい作品の構成を練ったり書き始めたりしていた。

「でも『遠い日の歌』も捨てがたかったなぁ」

「やっぱり三年生になると難しい曲が多いんですか~?」

 文集のイラストを描きながら文乃が訪ねる。

「そうね……合唱に慣れてくるからかしら」

『cosmos』や『信じる』みたいに壮大な曲は、三年生以外に歌われているのを見たことがない。文乃は『君をのせて』、鐘花は『心の瞳』になったらしい。簡単だが歌い方次第では素晴らしい出来になる。

「あ、そうそう愛衣ちゃん! 花鶏のクラス! 何の曲になったと思う?」

「知らないわ」

「なんと! 『あの素晴らしい愛をもう一度』だって!」

「あら、結構マニアックな選曲ね」

「でしょー? あの花鶏がよ? 『あの~すば~らしい~あ~い~を~』なんて歌っているの想像したら可笑しくってっ!」

「何が可笑しいだって?」

 風夏の後ろに物凄い形相の花鶏がいつの間にか立っていた。この二人は幼稚園からの幼馴染だという。仲がいいこと。それでも二人ともお互いに「腐れ縁だ」と言っていた。愛衣も悠馬とは幼馴染だが、同じクラスで同じ部活でもここまでの近さはない。

 原稿に向かっていた夜鷹も丸眼鏡を押し上げながら「ぼくんとこは『大切なもの』になりましたよ~」と教えてくれた。

「音莉はですねぇ……えーっと……『君と見た海』です」

「あ、それ去年私のクラスが歌ったやつね。難しいとこあったら教えるよ」

「じゃあ遠慮なくお願いしますね~、風ちゃん先輩」

 赤い毛布に包まりながら音莉が音楽の合唱曲集を広げる。十月に入ると生徒はこの合唱曲集を持ち歩くようになる。愛衣のものはすでに表紙がめくれあがり黄ばんでいる。こうしてみるとマーカーの書き込みも多くなって、結構な曲数を歌ったことを物語っていた。

「夜鷹も。一年のときの学年曲だったから『大切なもの』は教えられるわよ」

 風夏が音莉と約束しているのを見て、愛衣も夜鷹に声をかけてみる。

「え、いいんですか? でもぼく男声だから……」

「ちゃんと最後まで歌えるようになってから、一緒に合わせてみましょう。声を合わせることは大事だからね」

 同じパートだけじゃなくて、たまには一対一で別のパートと練習するのも上達の一歩だ。これはあの菜摘委員長が言っていたことで、結構理にかなっている。ソプラノ、アルト、男声の三人で合わせることで、気づきにくい個所も見つけることができる。それに彼女が大好きな『クラスのみんなが仲良くなれるきっかけ』にもなる。

「あ、えーっと……じゃあ、時間があるときにお願いします」

 夜鷹もぺこりと頭を下げた。


 合唱曲が各クラス決まったところで練習が始まり、校舎内は合唱の声が響くようになる。音楽の授業は全面的に練習時間に充てられる。発声練習として『夢の世界を』を歌ってからソプラノ、アルト、男声のパートごとに分かれて練習を始める。愛衣はソプラノパートでパートリーダーは委員長の菜摘だ。

「愛衣ちゃんどう? わからないところとかあった?」

「そうね……今のところ問題ないわ」

「ならよかった!」

 菜摘は一人ひとり確認してから、次の練習部分を始める。全体で質問しにくかったり、指摘しづらいことも一対一ならば話しやすいのだろう。いろいろとアドバイスも授けている。これはこれでいい練習方法だと思う。けれど一方で、菜摘はアルトパートの方へも顔を出していた。アルトには合唱部が二人もいるからわざわざ見に行かなくてもいいのではないかと、ひやひやしながら愛衣はその様子を見ていた。

「ねぇねぇ、アイちゃん。放課後一緒に練習しようよ」

「麻美さんってアルトじゃなかった?」

「そうだけど、でも声合わせるのって必要でしょ?」

 菜摘の言葉を使っている。

「ごめんなさい、放課後は文芸部に行くから。声を合わせるのは大事だろうけれど、今はまだ自分のパートをしっかり覚えたいの」

 文芸部に行くのは後輩たちに癒しを求めていくのもある。学校行事があるときは大抵後輩たちの癒しが欲しくなるのだ。これは部長の風夏も言っていることだが、どうして後輩はこうも可愛く見えるのだろう。

「部活と合唱コンどっちが大事なの? アイちゃんって協調性ないよね」

 頭にカチンときた。これは協調性とかの話ではない気がする。まだ練習し始めたばかりだ。有名な曲だしメロディーを知ってはいるが、歌ったことは一度もないのだ。知識があることと実行することは似ているようで実は似ていない。麻美に曖昧に笑みを返す。

「そんなに練習したいなら、別の人と練習すればいいじゃない。例えばほら、なっちゃんとか」

 なっちゃんとは菜摘の愛称だ。小学校のころから彼女は周囲から「なっちゃん、なっちゃん」と呼ばれ、今でも同じ小学校出身者は彼女のことを「なっちゃん」と呼んでいる。

 ちらりと菜摘の方を見る。彼女はオシャレで可愛い女子グループに属していて、その中の中心にいる。今も菜摘の周りにはオシャレで可愛いクラスメイトが集まっていた。

彼女たちが持っている筆記用具やノートも白だったり淡いピンクだったりの色合いでカラーリングされている。まるで「私は女の子です」とアピールしているみたいだった。

女の子らしいことをしていれば女の子になるのかしら? ふと疑問が湧いてくる。この間LGBTの本を読んだときからよく考える。可愛いものが好きな男の子もいると思うけれど、そういう人の場合、どっちに見られたいのかしら。男の子? 女の子? どっちにも見られたいのか、あるいはどちらにも見られたくないのか。

「ねぇ、アイちゃんってば!」

 麻美の声で現実に引き戻される。

合唱コンクールの時期になると放課後にも練習が出来るようになる。部活動も休みになるところもあれば、時間をずらして遅くから開始するところも出てくる。その中で文芸部はいつも通り活動をしていた。本を読んだり書いたりすることは多少の息抜きにもなるし、芸術的感性を磨くことにも繋がる。それに文集『夜明け』の原稿締め切りも通常と変わらない。

 同じ文芸部の悠馬も放課後の練習は参加するが、一時間ほど練習したらすぐに図書室に向かっている。活字中毒の悠馬は少しでも本を読まない時間があるとイライラして態度が悪くなる。教科書の文章を読んでいる時は平気だが、楽譜は駄目らしい。

 愛衣も鞄を持って悠馬に続く。菜摘に伝えると「オッケ~ 原稿がんばってね」と笑顔で手を振っていた。

「ねぇ菜摘。一之瀬さん行かせちゃっていいの?」

 教室の扉を閉めたところで声が聞こえた。この声は清水亜優美だ。続いて久野万結華の声も聞こえる。

「一之瀬さんって文芸部じゃん。何もすることなくない?」

「本読んでるだけでしょ。サボりなんじゃないの?」

 文芸部が他の部に比べて、どれだけ下に見られているのかが分かる言葉だった。運動部は大会もあれば、成績を残せば高校推薦も貰える。文化部も合唱部はコンクールという大々的な発表の場があるし、愛衣の中学の合唱部は強豪校として知られている。それに比べて、三年前まで幽霊部員のたまり場になっていた文芸部は、そこまでの立場がない。そのため部活カーストの中で底辺に見られることが多いのだ。

 亜優美も万結華も菜摘と同じオシャレで可愛い女子のグループだ。菜摘ほどの発言力はないが、仲間内だったら強く言い出せるタイプ。今は愛衣本人がその場にいないから菜摘に言い出せているんだろう。肩に掛けた鞄の持ち手をぎゅっと握りしめ、その場から早足で立ち去った。


「どうしたんですか~ アイちゃんせんぱーい?」

すでに眠そうに『鏡の国のアリス』を読んでいた音莉がロッキングチェアから身を乗り出した。ゆらゆらと規則正しく揺られて眠気もさぞピークだろう。

「どうしたって、何が?」

「アイちゃん先輩、なんか元気ないみたいです~」

 赤い毛布を頭に被りながら音莉が分厚い装丁の表紙をぱたんと閉じた。

「愛衣ちゃん先輩、嫌なことでもありましたか?」

 隣に座った文乃も原稿の手を止める。

「なんにもありませんよ」

 文乃の頭をぐしゃぐしゃ撫でる。

「やっ! 愛衣ちゃん先輩やめてくださーい」

「って言いながら文乃ちゃん嬉しそう」

 一年生の文乃と鐘花は初めての合唱コンクールが楽しみなようで、原稿を書いているときも鼻歌で合唱曲を歌っていた。練習楽しい? と聞くと、二人とも「はいっ!」と元気よく答えた。その声が愛衣の心の中にまるでピアノの音みたいに とーん と響いた。


「ねぇ、いい加減にしてよ委員長」

 音楽の授業中、アルトパートで声が上がった。視線が一気にそちらに注目する。合唱部の横川桜と菜摘が対峙していた。けれど菜摘は「え?」と首をかしげて困った表情をしていた。

 桜はクラスの中でもおとなしい子だ。彼女が所属するグループは絵を描いたり本を読んだりして、小動物みたいにみんな小柄で、目立たないし自ら目立つこともない。そんなグループの桜が声を上げたことにクラス中が驚いていた。愛衣も見たことがなかったし、男子も珍しそうに桜を見ていた。

「こっちはアルトなの。委員長はソプラノでしょ? 自分のとこの練習したらどうなの?」

「でもソプラノもアルトも女声だから、一緒のペースで練習したほうが足並みは揃うと思うのよ」

「それは全体練習でできることでしょ? アルトにはアルトの声の出し方だったり、歌い方があるんだから口出ししないでよ」

「でも……」

「なっちゃん」それでも言い返そうとする菜摘の腕を愛衣が引っ張った。「ソプラノの練習が止まってるわ」

 菜摘はしぶしぶと引き返してきた。桜もまだ不満なのか顔をしかめてこっちを見ている。そういえば、合唱コンクールの時期は合唱部が力を持ち始めるのを今更ながらに思い出した。ましてや他校の合唱部に強豪校として知られているのなら尚更で、一生懸命の度合いがクラスメイトとは違うのだ。

 菜摘委員長と合唱部の衝突は、放課後の練習でも度々起こっていた。

「なぁ愛衣。あれ、何とかならないのか?」

 図書室に向かう最中、痺れを切らしたのか悠馬が聞いてきた。随分とイラついているのがわかる。

「何とかなるならとっくにやってるわ」

「お前はそれでいいのかよ」

「私は歌うことができればそれでいいの。やる気がある人同士がぶつかるのは迷惑だけど、勝手にやっていればいいわ」

「うわぁ……容赦ねぇな」


 愛衣の体調が変化したのは合唱コンクールまであと二週間を切ったころだった。一限の国語の授業中。おなかのあたりが異常に痛い。続いて頭痛もやってくる。次の授業は音楽。移動教室の上に女子は神経質になっている。男子は男声パートで一致団結みたいな雰囲気になっているけれど、ソプラノとアルトはそんなにお気楽になれていない。

「あぁ……キツイなぁ……」

「一之瀬ちゃん大丈夫? 具合悪い?」

 ぼそりとこぼれた声が聞こえたのか、後ろの席から早川優香が小声で訊ねてきた。

「国語のとき顔色悪かったし。平気?」

「今日……女の子の日で……」

「あっ! そうなのか……それは辛いね。大丈夫? 音楽だけど、どうする?」

「保健室……行くわ」

 体を起こすのもだるい。薬を飲んでくるのを忘れた自分を恨んだ。

「わかった、じゃあ私から先生に伝えておくね」

「ありがとう、早川さん」

「いいよいいよ。私も女の子の日は痛み酷いほうだし……それに体が辛いなら休んだほうが絶対いいんだから」

 優香は階段のところまで愛衣に付き添ってくれた。優香は距離が程よくて一緒にいて心地いい。あまり踏み込んでこないから一緒にいて楽だった。誰にでもフレンドリーで男子とも程よく仲がいい。プライドが高い運動部のグループにいるとは思えないくらい性格がよかった。

「でも、女の子の日だからって言って部活休むと、顧問や先輩にすごく怒られたからなぁ」

「そうなの? 先輩にも?」

「生理で休むなんて甘えだ、それくらい我慢しろってさ。でも我慢した結果、貧血になって倒れちゃった。今こそ笑い話にできるけど、その時はほんとに痛かったし辛かったなぁ……」

 いつも活動的で女子バスケ部でもエースを張っている優香が倒れたというのは驚きだった。みんなと同じように隠れて痛みを我慢しているのだろうか。少し優香に親近感を覚えた。

「個人差もあると思うけど、無理して悪化したら大変だよ。ゆっくり休んでおいで」

 手を振って優香は音楽室へと向かった。愛衣も手すりに掴まりながら階段を下りていく。

「アイちゃーん」

 背中に声がかかって愛衣は眉を寄せた。

「次音楽室だよ? どこ行くの?」

 麻美が階段を下りてくる。

「……保健室」

「え? 体調悪い?」

「まぁ……そんなところ」

「大丈夫? 一緒に行くよ」

「いいわ。一人で行ける。それより授業遅れるわよ」

「何言ってるの? ついてくよ。友達でしょ!」

 心に杭が打たれた。優香がくれた優しさがべったりとペンキに上塗りされていく。友達なんて酷い言葉。なにをするにも「友達でしょ」と言ってしまえば許されているような気がする。お腹も痛いし、頭もハンマーでガンガン殴られているみたい。

 結局麻美は保健室までついてきた。二限の始まりを告げるチャイムが鳴ってもついてきたのだ。

「失礼します」

「あら一之瀬さん。どうしたの?」

 お腹を押さえていると、山崎由美先生が察してくれて愛衣をソファーへと促す。一緒に入ってこようとした麻美は追い返された。

 白湯を手渡され「また生理になっちゃった?」と聞かれる。

「……はい」

「お薬は飲んでる?」

「いえ……さっきなったばかりで」

「横になりたい?」

「できれば……」

 体温を計ると37度5分。微熱だった。山崎先生はベッドと湯たんぽを用意してくれた。そのとき、先生は必ずこう訊いてくる。

「何か困っていることとかない?」

 不安要素の積み重ねでストレスを感じると元々は酷くない生理痛がさらに酷くなることがあるそうだ。痛みを少しでも和らげられるように山崎先生は毎回訊いている。

「……友達のことで」

 愛衣は名前を出さずに話した。いつも付きまとってくる子がいること。自分が嫌だといっても「友達でしょ」と言って付いてくること。話を聞いた山崎先生は、愛衣の隣に座って頬に手をやった。

「友達ねぇ……その子のことを『友達』っていうの、思い切ってやめちゃったらどうかしら?」

 やめる? 訊きかえすと山崎先生は柔らかく微笑んで愛衣の頭を撫でてくれた。

「一之瀬さんは文芸部だったわよね。言葉が体を縛り付けるって聞いたことないかしら?」

「……あります」

 言霊だと愛衣は咄嗟に思いついた。文芸部の先輩が話していたのを思い出す。言葉には言霊があり、軽々しく口に出してはいけないと。口から出た言霊は勝手気ままに一人歩きをするんだと。だから言葉を紡ぐ書き手は、言葉選びを慎重にしないといけない、と。

「ちょっと気にしなくなると、少しは楽になるんじゃないかしら。相手が友達と言ってきても、一之瀬さんに押し付けることはできないわ』」

 ベッドに横になると「ゆっくりお休みなさい」と湯たんぽを渡して布団をかけてくれた。布団は温かい。貸してくれた湯たんぽも、猫の桃子を抱いているときみたいで気持ちも落ち着いてくる。


 保健室から戻ると「一之瀬さんさっきの授業サボりー?」と土川誠が肩を叩いた。気分がさらに悪くなったように感じる。

「ちょっと熱があっただけよ」

 誠は言い返せばすんなり引き下がってくれる。麻美とは大違いだ。それは彼が実質クラス男子のトップにいるからだろう。

 男子の格差も見た目と部活で大体決まってくる。サッカー部や陸上部、それと中学では珍しいラグビー部が上位に来ている。

土川誠はサッカー部で部活以外にもジュニアユースの選手としても活躍している。おまけに頭も顔も性格も良いときた。まるで少女漫画に出てくるようなイケメンが、トップにならないわけがない。

「一之瀬さんってほんとそっけないよなー」

「でも窓際の美人じゃね?」

 たまに流れて聞こえてくる男子たちの会話は、女子の耳に入るとめんどくさいことが起こる。

「ねぇねぇ一之瀬さん」

 誠と同じサッカー部の男子が愛衣の席の前に立つ。

「一之瀬さんって好きな人いるー?」

「いると思う?」

「わからないから聞いてるんだけど」

「今のところはいないわ」

「国枝は?」

「悠馬?」

「ほら、名前で呼んでるし同じ部だし」

「悠馬とは生まれた病院からの付き合いよ。親も仲良しだし……普通よ」

「なーんだ。じゃあ今フリー?」

「さっきも言ったでしょ」

「ふーん、わかったー」

 それだけ聞いて男子は去っていった。これが男子たちだけじゃなくて、女子も起こるから厄介なのだ。所謂『恋バナ』に繋がっていく。

「一之瀬さんって好きな人いる?」

 まるで情報収集のように嗅ぎまわっている。誰が誰のことが好きなのか、興味があるのかないのか、付き合っているのか。そんなことを知って何をしたいんだろうと常々疑問に思う。そうして出てくるのは、わざわざくっつけようとする人たちだ。こういう人はクラスに二人はいる。男子に一人、女子に一人。決まって学校行事と並行して現れる。雰囲気的にお似合いの男女をくっるけたがる。事務的な内容を話していたとしても、すれ違っただけでも冷やかされる対象になる。これが愛衣にとってとてつもなく厄介だった。


「そもそも、学校行事に色恋ごとなんて持ち込んでほしくないんだけど」

 図書室で原稿を進めながら愚痴をこぼす。保健室から借りてきた湯たんぽをお腹に当てながら、シャープペンシルで原稿用紙に文字を綴っていく。どんなに体調が悪くても、最低でも五枚は書くことにしている。

「あー……愛衣ちゃんまたかね?」

「またなの」

「おっつかれさまー」

風夏はノートパソコンの画面とにらめっこしながら呆れたように相槌を打った。

「これはしょーがないって。あたしたち文芸部員は文字書きだし、それなりに本も漫画も結構読みこんでいるけどさぁ、クラスメイトなんてド素人よ? 少年漫画少女漫画しか読んでない人だっているの。だからそんなの相手にするほうが間違っている」かたかたと軽快にキーを打ちながら風夏は持論を展開する。「と……風夏部長は思うわけですよ~っと。あ、音莉ー、誤字発見!」

「えぇー? どこですかー?」

 のっそりとロッキングチェアから音莉が起き上がる。最近寒くなったからか、音莉専用の赤い毛布がもこもこなものになっていた。

「私はただ歌いたいだけなの。それに絆とか団結とか必要ないわ。金賞はおまけみたいなものなんだから」

「愛衣ちゃん……それ、クラスで言ってやりなよ」

「言う機会があったらね」と隣で原稿を進める夜鷹の頭を撫でた。

「ふにゃっ! なんですか~愛衣ちゃん先輩?」

「ちょっと癒しがほしくて」

「ぎゅーします?」

「それはいい」

「よーたーかー? それ今日中に提出だからねー? あんただけよー?」

「あーーもうっ! わかってますから急かさないでくださいよ部長ーーっ!」

 

 本番が近付いてくると、授業を一部変更して、体育館を借りて練習もできるようになる。本番は市内にある公会堂のホールを使うことになっていて、声を広域に響かせる練習も兼ねている。

この練習時にパート同士のハーモニーを調整する。特に特定のスキャットが多いとされる『遠い日の歌』は、一つのパートがずれるだけで聞き苦しいものになってしまう。指揮はいつの間にか土川誠に決まっていた。

授業終了のチャイムが鳴る。入れ替わりに入ってきたクラスと交代の時間だ。

「一之瀬さんって歌声綺麗だったりする?」舞台から降りるときに誠がやってきた。「合唱部より上手じゃない?」

「なんでそう思うの?」

「いや、なんとなく。てか普段の声も綺麗だもんね」

「……そんなことないけれど」

 気づかない間に隣にいた麻美がもう体育館の入り口で上履きに履き替えている。なんとなくだが顔が不機嫌なのが分かった。

「いやいや、まじで。国語の時の朗読とか」

 今考えた口実なんじゃないかと思ってしまう。誠は一年のころから名前は知っていたけれど、クラスも違えばこうして話したこともない。気を許していない分、何を話していいのかもわからない。

「一之瀬さんがいれば金賞は間違いないね」

 教室に戻るときに複数の男子が冷やかすように誠に喚声を浴びせていった。誠も「うるせー」とは言っていたけれどまんざらでもない顔をしている。

「つっちー、一之瀬さんに気でもあるのか?」

「そんなんじゃねーよ」

「いやでもお似合いじゃね? 土川と一之瀬さん」

「やめろって」

 時々そんな会話が聞こえてくるようになった。本人が聞こえるような距離でいうことではないと思う。図書室から借りてきたビアトリクス・ポターの『ピーターラビット』の英語版を開く。喧騒から逃れるには頭をいやというほど使ってシャットダウンするしかない。簡単な英語表現で書かれている『ピーターラビット』はちょうどよかった。

 

「あー……もう……学校行きたくない……」

 お風呂から上がって、結衣が作ってくれた苺入りのミルクプリンにスプーンを突き刺す。本音がつい出てきてしまった。いけないいけない。けれど行きたくないのは事実だ。行くだけで体力が消耗される。

「あいお姉ちゃんどうしたの?」

 ソファーに座った愛衣の膝に結衣がごろんと頭を乗せてくる。最近はもっぱらこうやってテレビを見ることが多い。「食べているときはダメ」と叱るけれど結衣は「いーのっ」と言ってどいてくれない。仕方ないからそのままにしている。結衣が「あーん」と口を開くから、そこにプリンを運ぶ。

「行きたくないなら行かなきゃいーんだ」

 愛衣の様子を見ていた嵐志はそれだけ言って、着替えを持って風呂場に向かう。

「中学生になったらそんなこと言ってられないの!」

「だったら中学生になんてなりたくないやい!」

 風呂場からすぐに声が飛んでくる。嵐志の率直な意見がぐさりと刺さった。嵐志のようにそうやって素直に思うまま行動できたらどんなに楽なんだろう。時々、嵐志が羨ましくなってくる。

「嵐志だってそのうち行きたくなくなるかもしれないわよ?」

「俺は大丈夫だもーんっ」

 どこからそんな明るい根拠が出てくるのだろう。素直に信じられるのは、嵐志だから? それとも、まだ小学生だから? 悶々としたものが愛衣の胸に広がっていく。憎たらしいけれど、羨ましいのは確かだ。

「あいお姉ちゃん、今度の土曜日合唱コンクールでしょ?」

 結衣が見上げてくる。

「ゆい、お兄ちゃんたちと見に行くね」

「ありがとう、結衣」

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