8話

 その週の土曜日。雪彦に連れられて愛衣と嵐志と結衣は椿原高校にやって来ていた。今日は椿原高校の文化祭だった。愛衣はテスト直前の追い込みだったが、息抜きにいいだろうと雪彦が誘ってくれたのだ。

「私、初めて兄さんの文化祭に来ました」

「……今までは来なかったの?」

「やっぱり中学生と小学生だけでは危ないって。兄さんも後片付けで一緒に帰ることができないので、心配らしいんです」

 大樹の教室に向かう前、窓に大きく貼ってあったプラネタリウムという言葉に惹かれた。南校舎の入り口にも看板が立てかけられている。雪彦に伝えて、一人でプラネタリウムをやっている天文部へと向かう。

「ついて行こうか?」

「大丈夫です。私も半年後には高校生ですから。雪彦さんは、嵐志と結衣をお願いします」


☆ 天文部 プラネタリウム こちら ☆


 そう書かれた看板に案内されて、南館の四階を目指す。看板に出くわすたびに、張り付けてある星の数が増えていく。面白い演出だ。

 最後のほうは駆け足で階段を上ったが、プラネタリウムはすでに上演中だった。

「残念お嬢さん。今は春の夜空が上演中だよ」

 缶コーヒーを手にした男子生徒が、締め切った扉の前で椅子に座っていた。足元にからっぽになったであろう缶コーヒーが並んであった。

「あーあ、またなくなっちゃった」

 手にした缶コーヒーを飲み干して、男子生徒は椅子から降りた。

「ちょっと買い出し言ってくる。天文部はプラネタリウムだけやってるわけじゃないよ。隣の教室に展示もあるから、そっちもよかったらどうぞ」

 愛衣は突然のことで何も言い返せなくて、仕方なく隣の教室に足を運んだ。

 教室は薄暗かった。天井が覆われていて、足元にランプ型の灯りが点いている。下からぼんやりした明かりに照らされた壁一面に天体写真や星景写真が張り付けられていた。写真の下には丁寧な字で

【こと座 M57 環状星雲】

【アンドロメダ座 M31 アンドロメダ銀河】

【ペルセウス流星群 火球】

 と題目が書かれてある。

 机には太陽系の模型も飾ってあった。よく見ると立体パズルでできている。

 愛衣はある写真に目を留めた。天井を覆う幕。それもよくよく見たら写真だった。北極星を中心に、星々が巡る星景写真。それを布にプリントして引き伸ばしたものだったのだ。

 思わず天井にくぎ付けになった。次第に首が疲れてきて、最終的には床に寝転んでいた。

「うわ、びびった」

 さっきの男子生徒が愛衣の顔を覗き込んでいた。愛衣も「ひゃっ」と声をあげて飛び起きた。いけない、つい見入ってしまっていた。来ていた水色のワンピースの裾を叩く。

「す、すみません……」

「気配がないから帰ったのかと思ったら、倒れてるからさ」

 腕いっぱいに抱えた缶コーヒーを鞄が置いてあるとこに置いてくると「どれがいい?」と缶を三つ差し出した。オレンジジュースとカフェオレとミルクティー。

「どれも冷たいけど」

 遠慮がちにカフェオレを選ぶと、男子生徒は意外な顔をした。

「もしかしてブラックがお好みだったりする?」

「はい」

「まじか」

 自分用にズボンのポケットに入れていた缶コーヒーを愛衣に渡した。余ったドリンクを弄びながら、「一年にあげるか」と呟いた。

「なんか、すみません……」

「君、一人?」

「いえ、兄弟と来ています」

「何人?」

「あと三人ですが……」

男子生徒は人数を聞くや否や「あげる」と愛衣に残りの缶を渡してきた。

「学内の自販機だし、文化祭用の安い奴だから気にしない気にしない」

 しばらく押し問答が続いたが、お菓子までつけて袋に入れてもらったらもう愛衣には何も言えなかった。プラネタリウムは三十分後の上映だ。それまでここで時間をつぶすか考えていると、また男子生徒が話しかけてきた。

「さっきさ、上の写真見てた?」

「……はい」

「どう感じた?」

 どうと言われても愛衣は即答できない。テーマなしに即興で物語を書けと言われているようなものだ。

「……うまく言葉にできないですけど、単純に綺麗と思いました。写真でも。空調の加減で幕が揺れて、あの写真が動いてみえると、外国の宇宙論を思い出しました。夜空は実は大きな布に星が縫い付けてあるとか、空の女神が天井を覆っているとか……」

「君、面白いね。今の部長とおんなじこと言ってる」

 話に聞くと愉快な部長らしく、このアイデアも部長だという。しかし残念ながら今不在だという。その部長さんには会ってみたかった。次のプラネタリウムには捕まえておくと男子生徒と約束して、愛衣は雪彦たちのところへ戻ることにした。

 面白い先輩だったなと思い返しながら、名前を聞くのを忘れていたことも思い出す。またあとで聞けばいいかと、雪彦たちを探し続けた。こういうときに嵐志の大声が目印になるはずなんだけどまだ聞こえない。一体どこにいるんだろう。

 周りを見ると、メイクをしたりスカートを短くした女子生徒がたくさんいた。さすが高校の文化祭。愛衣みたいな中学生が行う文化祭とは規模が違う。なにより、あんなにスカートを短くしても注意されないなんて。それからカップルが目立った。男女二人組で回る生徒たちがよく目につく。いちゃいちゃするのも人目をはばからない。文化祭っていうフィルターがかかっているからなのかしら。考え出したら止まらなかった。

「ねぇねぇお嬢さんお嬢さん、一人?」

 背の高い男子生徒に声をかけられる。髪を金に染めている。実際に染めている人を初めて見た。

「何です?」

「一人なら一緒に回らないかなーって思って。高校のことわからないでしょ?」

「いえ……大丈夫です」

「君可愛いし、一緒に回りたいなー」

こういう時は無視するのが一番だ。けれど人だかりの上、通路を遮られている。

「何でですか」

「一目惚れしちゃったかも」

 愛衣の背筋がぞっと何かが這った。大樹と雪彦の真剣な付き合いを見ていたからだろうか、軽々しく可愛いとか一目惚れとかを口にするのが気持ち悪く感じた。肩に置かれた手が予想以上に大きくて怖かった。

「あー、やっと見つけたぁ」

 金髪の横から白くて細い手が伸びて、愛衣の肩を掴んだ。腕の先にいたのは明るい茶髪をポニーテールに結った、背の高い女性だった。

「急にいなくなったから、お姉ちゃん心配しちゃったよ~」

 まったく面識がない女性は「妹がごめんね」と金髪に謝ると、愛衣の肩を抱いてその場を足早に去った。

「大丈夫だった?」

 廊下の隅で愛衣の顔を覗き込む。

「はい……ありがとうございました」

「気を付けてね。私が居たころより規則が緩くなってるから、ああいう羽目を外すようなやつも出てくるから」

「はい……」

「連れの人とかいるの?」

「あ、兄がいます。ここの生徒で……確か、和風喫茶をやるって言ってました」

「あれ~、さっきそこ行ってきたよ~? じゃあ一緒に行ってみようか」

 女性に手を引かれて和風喫茶の教室の前に来ると、書生のコスプレをした大樹が伝票を持って教室から出てきた。

「お? どうしたんですかサキさん。また来たんですか……あれ、愛衣! どこ行ってたんだ? 雪彦が探してたぞ!」

「あらやだっ! お兄さんって、大樹くんのことだったの?」

 女性は大樹を見るなり意外そうに愛衣と交互に見た。「あ、でもよく見ると目元が似てるかも……」なんてぶつぶつ言いながら観察している。

「で、なんでサキさんと愛衣が一緒にいるんだ?」

「ナンパされてたから、このサキさんが助けてあげたのよっ!」

「うぉ、マジですか」

「ごめんなさい、兄さん……」

 大樹に頭をくしゃくしゃと撫でられて、自分の不甲斐無さに愛衣は目を伏せた。

「どうしようか……今日は最終日だし、片づけもあるから、一緒に帰ってやれんからなぁ」

 本気で考え込む大樹は、後夜祭に出るのもやめるかと言い出す始末だ。大樹にとっては高校最後の文化祭になる。愛衣もそれだけはやめてもらいたかった。

「大樹くんっ、ここに強力な助っ人がいることをお忘れ?」

 大樹の頬をサキの細い指が突っついた。

「妹ちゃん、文化祭が終わるまで私が面倒見ていてあげる!」

 サキと名乗った女性を見上げた。大樹も「ですけど……」と言いよどんでいる。

「拒否権はなしっ!」

 彼女は強引に愛衣の肩に手をまわして「それじゃ、妹ちゃんお借りしまーすっ!」と愛衣を誘導した。


「大樹くんの妹さんだったのね~ お姉さんびっくり」

 サキがラムネを愛衣に差し出した。

「あ、お金」

「いーのいーの。今日はお姉さんに甘えなさい」

 彼女は藤野幸貴と名乗った。

「これで〝ゆきたか〟って読むけど、サキって呼んで!」

「サキ……さん?」

「そう!」

「……男の人?」

「〝元〟ね。トランスジェンダーって知ってるかしら?」

 サキは雪彦の友人で、先日行われたLGBTのパレードで大樹と知り合ったと教えてくれた。椿原高校の卒業生でもあり、今は県外の大学に通っているという。

「いやー、大樹くんにこんな美人の妹さんがいるなんて思ってなかったー」

「サキさんは……いつからトランスジェンダーだと感じたんですか?」

「私? ずっとよ。個人差はあるだろうけれど、どうしても女の子になりたかったし、男の子に恋してみたかった」

 なんともあっけらかんとサキはいろんなことを教えてくれた。

「性同一性障害だとか言われたこともあるし、自分でもトランスって言っているけれど、こんな時代なんだから、私は私って名乗ればいいって気づいてからは、あまり性別のことは口に出さないようにしているの」

 それからサキは自分が中学生のころにあった違和感とかも話してくれた。話すのが辛くないかと尋ねてみたが、サキは「とっくの昔話だし、もうすっかり笑い話よ」と笑い飛ばしていた。

「愛衣ちゃんはこういうことに興味あるの?」

「はい、兄さんが雪彦さんと付き合うってなってから、ちょっと気になったんです」

「あら、そうだったの。それは好ましいことね。きっと雪くんも喜んでるわ」

「そうでしょうか」

「そりゃ、味方が多いほうが精神的にも安心するわ。多いことに越したことはないのよ」

 からり、とラムネ瓶の中のガラス玉が音を立てて揺れる。液体の中の泡もしゅわしゅわと消えていく。愛衣には泡の一粒一粒が一人の人間に見えた。

「大学生になるとね、いろんな人に会えるわ」とサキは言った。

「私も〝いろんな人〟の中の一人。そうやって単純に考えてしまったらね、すっごく生きるのが楽ちんになったのよ」

 長い睫のカールを気にしながらサキは続けた。

「中学生だと、まだ価値の合わない人たちと一緒にいなくちゃいけないから、辛かったりすると思うけど、そこを耐えてしまったら、きっと楽しいことがあるわ。なんであんなことで悩んでいたんだろうって思っちゃうくらいにね」

 多くの人に愛されようとするのは素敵だけれど、全員に愛されるのは難しい。正しい選択とは何か。多くの人が認めれば安心するけれど、自分自身が認められなければいつまでも後悔が残る。だからサキは、自分自身の選択を恐れないのだと、自信満々に胸を張って宣言した。


「愛衣ちゃん愛衣ちゃん! 次はここへ行ってみましょう。茶道部のお茶会、お菓子付きですって」

 校内案内のパンフレットを見ながら、サキはうきうきと廊下を歩いていく。きらびやかなサキは、いろんな部活やクラスの勧誘を受けている。その後ろを愛衣ははぐれないように必死でついって行った。

「待ってください、サキさん!」

「あ、軽音部のライブがあるわ、なつかし~! 私ね、ここの生徒だったとき軽音部だったの。ここも後で見に行きましょ! その次には体育館で吹奏楽部のコンサートと演劇部の舞台もよ!」

「プラネタリウムも忘れないでくださいね」

「はいは~い。一日限定のかわいい妹のためだわ、そっちを先に見に行きましょうか!」

 サキに急かされて賑わいを見せる校舎を歩き出した。

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