7話

「座標上の二点間の距離は、こうすれば……ほら。三平方の定理がここで使えること、わかる?」

ノートに雪彦は簡単なにグラフを書いてみせた。この日、愛衣は雪彦に数学を教えてもらっていた。

「グラフはあったほうが絶対にわかりやすいしミスも減る。面倒でも書いたほうがいい」

 中学は再来週からテスト週間になる。愛衣が数学が苦手という話をしてから、雪彦が教えてくれることになったのだ。

「それにしても、中学の数学ってこんなに簡単だったっけ」

 中学三年の数学の教科書をめくりながら雪彦が呟いた。数字を見るだけで頭が痛くなってくる愛衣にはとてもそう思えない。

「数学は九十点代以外取ったことがないから」

「雪彦、それは俺に対する嫌味かよ」

 中学時代、数学が赤点すれすれだった大樹が読んでいた洋書を雪彦に投げつける。

「英語ばっかりの本読んでいる大樹だって、俺からしたらだいぶ嫌味みたいだな」

 リビングのテーブルに広げたノートや参考書を読みつつ、愛衣は二人を見ていた。大樹と雪彦が付き合っていると言われてから数週間。だいぶ雪彦も一之瀬家に馴染んできた。愛衣にとっては兄がもう一人できたみたいに思えた。

 それにしても、大樹と雪彦は同じ高校生とは思えない。二人とも弓道をやっているから体格に差はないのだが、雪彦は大樹よりも大人に見えた。いつも家で一緒に暮らしている大樹はともかく、愛衣が中学生だからそう思うのだろうか。中学生が高校生を憧れの目で見るような、そんな感覚なのだろうか。愛衣が高校生になったら、そういった感覚はなくなるのだろうか。

「雪彦さんは苦手な教科とかはあるんですか?」

愛衣が尋ねると「国語」と雪彦は即答した。

「古典、現代文、特に作者の考えを書けとか、登場人物の心情を答えろとか。無理。人の気持ちなんて文章だけでわかるわけないし、模範解答だって正しいかどうかわからない。なにより答えが一つじゃない」

 愛衣は最初、雪彦が言っていることがわからなかった。模範解答が正しくない。彼が言っていることは正しい。確かに心情なんていくらでも異なった書き方ができる。答えの通りに文字数ピッタリに書けない場合もある。けれど愛衣は、心情を考察する問題が苦手という人の気持ちを初めて知った気がした。

「数学とか理科は答えを導き出す方法は難しいけれど、答えは一つしかない。それが、安心する」

 雪彦は膝に乗ってきた吹雪の喉を撫でた。大樹には全く懐いていない吹雪だったが、雪彦には気を許しているみたいだった。喉を撫でてもらった吹雪はごろごろと喉を鳴らしたあと、大きくあくびをした。


 この時期になると、テスト勉強をしに放課後に図書室を訪れる生徒が増える。いつもの窓際の席で、今日は英語の問題集を広げる愛衣は、いつもとは違うざわめきに耳を塞いだ。

「うーるさいですねー、アイちゃんせんぱーい」

 音莉がロッキングチェアに揺られながら読書スペースにいる勉強している生徒たちをじろりと眺めた。

「テスト週間だからね」

「そーですけどー、おしゃべりする場所ではないんですよー」

「昼寝をする場所でもないと思うんだけどいかがかしら?」

「本を読むのに居眠りは付き物でーす」

 屁理屈を述べる音莉だが、彼女が言っていることも一理ある。勉強を名目にグループでやってくる生徒たちもいた。おしゃべりの大半はそのグループから発生している。

 特に声が響くのは愛衣と同じクラスの女子二人組。彼女たちはクラスでも注意を受けているのを何度も見たことがある。校則すれすれの規則破りをしてスリルを楽しんでいる人たちだ。

 二人とも同じクラスで、三年間同じクラスだったけれど、愛衣はこの人たちに声がかけられなかった。クラスにできたグループの中で、この二人がいる女子テニス部グループは見た目も行動も華やかなおかげでカーストトップに入っている。特に女子テニス部は先輩が厳しいのが伝統らしく、一年の時はおとなしかった子も三年になるころには暴君とまではならないが、多少厳しく染まると言われていた。そのためこのグループに関わらない人のほうが多い。関与するとしても自分たちにメリットがあるように行動する人くらいしかいない。

「あの、ちょっといいかしら」

「お、一之瀬ちゃんじゃん。なーに?」

 二人組のうちの一人が、マスカラがついて大きくなった睫毛をあげて愛衣を下から見上げた。よく見ると机にはノートどころか教科書もない。愛衣は少し困ったふうに演技をして見せた。

「ごめんなさい、少し声落としてくれるかしら。美紀さんの声、少し響くから」

「あー……わかった」

 納得いかない顔をしていたが、一応理解した。そんなふうに愛衣には聞こえた。

「一之瀬ちゃんってさ、ちょっと怖くね?」

 席に戻った愛衣にひそひそと聞こえてきた。

「わかる。何考えてるかわからないカンジ? あれ演技してるのかな? 自分はあなたたちと違いますよって」

「そうだとしたらウけるんですけど」

思わず耳をそばだたせてしまう。聞いても意味がないことなのに。スクールカーストなんてどうでもいいと思っているけれど、無意識のうちに察知して回避いるだけなのかもしれない。

「愛衣ちゃん先輩、ネリちゃん先輩、こんにちは」

「こんにちは~」

 一年生の文乃と鐘花が静かにやってきた。掃除当番で遅れたと言っていたが、テスト一週間前だから無理して来ることもない。しかし文乃と鐘花はいつも顔を出してくれる。

「文乃ちゃん、鐘花ちゃんいらっしゃ~い」

 音莉がロッキングチェアから手を振った。

「製本の表紙が描けたので、風夏先輩に確認してもらいに来ました」

 文乃がスケッチブックから何枚か原案を出した。文乃のイラストは色鉛筆が使われていて、ポップで華やかだ。一方で鐘花は水彩画を使う。透明感があってのびやかな雰囲気だ。今まで絵を描くという発想がなかったおかげで、これまでの表紙は無地か、写真を使っていた。愛衣は二人が描いてくれる表紙が好きだった。

「風ちゃんならもうすぐ来るわ。今、先生と印刷しに行ってるから」

「じゃあ、それまでの間、愛衣ちゃん先輩、お願いがあります」

「ん?」

「ほら、鐘花」

 文乃に促された鐘花が「あの……愛衣ちゃん先輩……」と泣きそうになりながら歴史の教科書を出してきた。あぁ、そういえばそうだった。鐘花は歴史が苦手だったっけ。

「社会の歴史、教えてもらえませんか……?」

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