5話
雪彦が一之瀬家に来るようになって五回目の夕食会。今日は結衣と嵐志に調理を頼んでいる。それまでの時間、愛衣は自分の部屋に籠って部誌の作品を書いていた。
うにゃー
素足に桃子がじゃれてくる。遊んでほしいのかしら。
にゃーぅ
「はいはい、ちょっと待っててね。ここの場面書いたら相手してあげるから……」
ボールペンを原稿用紙に走らせていると、ノックの音がした。嵐志は借金の取立ての時みたいに音が大きい。結衣はノックの際に「愛衣おねえちゃーん」と呼ぶ。三回ノックは大樹。今回は大樹だった。
「愛衣」
「なに、兄さん?」
部屋に入れた大樹はどこか戸惑っているような顔をしていた。重大なことを話すときの父に似ている。
「飯の後、ちょっと話したいことがある」
「今話さないの?」
大樹はなにか言いたげに口をもごもごさせたが「嵐志と結衣にも聞いてほしいことだから」とだけ言った。大樹の変な様子に愛衣はくるりと椅子を回転させて見上げた。
「兄さん……なんか私たちに隠してる?」
「悪い知らせではないから、安心してくれ」
「今の兄さんの様子見ていたら安心もできないんだけど」
「そ、そうか?」と大樹は強張った頬をむにむにとほぐす。そんなことをしても無駄だ。大樹は嘘をつくのが下手だ。すぐに顔に出る。
「影崎さんがいても大丈夫なことなの?」
大樹は話しづらそうにしていたが、やがて口を開いた。
「あぁ。話したいのは雪彦のことなんだ」
「影崎さんのこと?」
「そう」
意外な話題に愛衣は困惑した。雪彦について何かそんなに重大なことでもあるのかしら。
大樹が部屋を出ていくと、再び机に向かった。
にゃーぉ。
「あ、ごめんごめん」
桃子のことすっかり忘れていた。抱き上げると満足したのか、口元をぺろぺろと舐めてくる。慰めじゃないのは分かっているけれど、つい頬を摺り寄せてしまった。
夕食の後、大樹は唐突に告げた。
「俺、雪彦と付き合うことになったから」
愛衣の手が止まった。スプーンからあんみつの寒天が零れ落ちる。
「え?」
雪彦を見ると頬を赤くしていた。肌が白いせいですぐにわかる。嵐志と結衣は何を言っているのかまったく理解していない。大樹が言ったことは間違いないのだろう。けれど、念のため、確認しておく。
「えーと、兄さん? 誰と誰が付き合うって言った?」
「愛衣。気持ち悪いとか、兄弟として恥ずかしいとか、思ってくれても構わない」
言いにくそうにしている大樹に愛衣はイライラした。歯切れが悪い。気丈に振る舞っているけれど、びくびくしているのが丸見えだった。
「そんな言い訳を聞いてるんじゃないわ。誰と誰が付き合うかって聞いてるの」
「俺と、雪彦」
確認すると、自然と腑に落ちた。兄の告白には驚きはしたが、自分の中で納得できてしまった。そうなのか、と思ってしまう。純文学作品も読んでいたからだろうか。純文学では〝気持ち悪いもの〟〝恥ずかしいもの〟として一切書かれていない。
「よろしい。兄さんたちが幸せなら、それでいいんじゃない? 年齢イコール恋人いない歴が消えて、よかったわね」
雪彦も意外な顔をして愛衣を見ていた。
「予想外の反応しちゃ悪い? って、兄さん、さっき言ってた大事な話ってこれのこと?」
「まぁ、そんなとこだ……」と梅の求肥をもごもごと食みながら、言葉を濁す大樹を睨む。なんだか変な覚悟をしていたのが、あほらしくなってしまった。兄弟が誰と付き合おうが、それに文句を言って何になる。世界が滅ぶわけじゃあるまいし。
「なんだ、そんなこと」
「そんなことって……おまえほんとにドライだな」
抹茶の求肥を寒天と一緒に飲み込んでから「思ったことを言ってるだけよ」と返した。実際そう思っているし、大げさなリアクションを求められているわけでもない。それから愛衣は雪彦に向き直った。恋愛として付き合うことは、友達づきあいよりもきっと難しい。
「影崎さん、兄さんのどこが好きなんですか?」
雪彦はどう思っているのか。それだけが知りたかった。
「いや、同性とか異性とかの話じゃなくて、どんくさくて、気が利かなくて、ちょっとしか頼りにならなくて、図体ばかり大きい、こんな兄さんが好きなんですか?」
黙って聞いていた雪彦は「大樹の悪口全部当たってる……」と苦笑してから、隣に座る大樹を見た。
「俺は、大樹の隣が居心地よかった。たとえ気が利かなかったりどんくさかったりしたとしても、大樹の隣に居たくて、好きになった。それだけじゃ、大事な兄さんは貰えないかな?」
雪彦の穏やかな笑みに、本当に大樹のことが好きなんだな、と感じた。安心しきっている。例えたら悪いかもしれないけれど、桃子がくつろいでいるみたい。
「いいえ。不束な兄ですがどうぞもらっちゃってください」
「兄者―、つまりどーいうことだー?」
今まで蚊帳の外になっていた嵐志が口を挟んだ。結衣も難しい顔をして首をかしげている。そうだ、嵐志と結衣にはなんて教えたらいいんだろう。言葉を詰まらせる。雪彦もどう教えたらいいのかと大樹と目を合わせた。
「嵐志。結衣も。これから言うことは、決して笑い話にしたり、馬鹿にしたりしてはいけないことだ。だからよく聞いて」
大樹がソファーから降りて大樹と結衣の目線にしゃがみ込む。それに対して嵐志も結衣も大樹が話すことを一言一句聞き逃さないように耳を傾け、目をしっかりと見つめ返した。
「俺と雪彦は、恋人になった」
「男同士でもか?」
「そう。男同士でも。女同士でもだ。誰とだって恋人になれる。でも嵐志。男同士恋人になるってのは、お前の友達とかからしたら、おかしいって言われることだ」
「兄者、さっき、誰とだって恋人になれるって言った。なのに、おかしいって言われるのか?」
嵐志の疑問は間違っていない。大樹は嵐志と結衣の肩に手を置いた。
「そうだ。俺たちみたいにおかしいって思わない人は、今は少ない。でも、男が男を好きになる、女が女を好きになる、それはそれでいいことなんだ。わかるか?」
「んー……わかんない」
「ゆいも……よくわかんない……」
「難しかったかな……じゃあ嵐志、結衣、質問を変えるぞ。嵐志は俺と雪彦が恋人になることは反対か?」
さっきまで首を傾けていた嵐志が、今度は勢いよく横に振った。
「ううん! 賛成! だって雪彦兄ちゃん、好きだもん!」
「ゆいもゆきひこおにいちゃんすきーっ!」
愛衣も賛同するよう頷いた。それから雪彦に聞いた。
「あの、私も雪彦さんって呼んでいいですか?」
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