4話

 その日はまだ夏休みだった。八月の中旬。リビングにかけた簾の陰で涼みながら、愛衣は今日の夕食を何にしようか考えていた。冷麦や冷やし中華ばかりでおなかがたぷたぷしてきたと嵐志が言っていたから、今日はちょっと変わった料理にしてみようか。

 冷蔵庫の中を確認しに行く途中、リビングの固定電話が音を立てた。こんな時間に誰かしら。

「はい、一之瀬です」

『あぁ、愛衣か』

 電話の向こうで大樹の声がした。

「どうしたの兄さん?」

『今日さ、夕食に友人を一人連れて行ってもいいか?』

「兄さんの友だち?」

『そう。弓道の仲間で……』

 それだけ聞いて愛衣は誰かすぐに分かった。土曜や日曜、それに夏休みに大樹と同じくらい練習に打ち込む弓士といったら、彼しかいない。

「影崎雪彦さんね」

『うぇ! 何でわかるんだよ。監視でもしてるのか?』

 名前を言うと大樹は電話の向こうで驚いた声を出した。

「夏休みに兄さんと同じ弓道場で練習してるなんて、影崎さんしかいないって、だいぶ前に言ってたじゃない。監視するほどのブラコンじゃないわ」

 夕食に一人増えたところでようやくメニューを決める。電話を切ると、いるかのアップリケがついたエプロンを被った。庭先に吊り下げた風鈴が ちりん と揺れた。

 七時。大樹が雪彦を連れて帰ってきた。

「大樹兄者おかえ……」

 出迎えに行った嵐志の声が途中で止まった。一分。二分。三分。

「あぁーっ! 兄者がいつも試合で負けてる人だぁーっ!」

 絶叫。近所迷惑。しばらくして「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ! ゴメンゴメン兄者許してっ! ちょっ、ほんとギブッ! ギブ~ッ!」と悲鳴が聞こえてきた。自業自得。でも嵐志が言っていることは間違いない。大樹は雪彦に弓道で一度も勝てたことがないのだ。

「嵐志、声大きい!」

 玄関に顔を出すと、大樹にこめかみをぐりぐりされている嵐志と、呆然と立ち尽くしている雪彦の姿があった。あぁ、完全に引かれている。

 雪彦は紺色の七分袖のシャツに白いジーンズを履いていた。Tシャツにジャージのズボンといったスポーティな服装の兄とは対照的な印象だった。雪彦は愛衣に気付いた途端、またかちんと固まってしまった。

「いらっしゃい、影崎さん」

 名前を呼ばれ、顔が引きつる。こんな大勢で出迎えたからかもしれない。雪彦は軽く頭を下げた。

 嵐志に手を引かれてリビングに通された雪彦は、弓と着替えが入ったスポーツバッグを隅に置くと、きょろきょろ見回しながらソファーに浅く座った。

「ゆきひこおにいちゃん」

 結衣が雪彦に近づく。腕には梅吉が抱かれていて、「この子、梅吉さん」と雪彦に紹介していた。雪彦は、いきなり目の前に出されたうさぎを見て少しだけ困惑した顔で首をかしげた。

「ゆきひこおにいちゃん、うさぎさん好き?」

 結衣もたどたどしかったが、梅吉を通して雪彦と仲良くなろうとしているようだ。

 恭平が仕事で、母の彩夏は入院していていない中、兄弟以外の人が夕食に同席することは初めてだった。それが嬉しくて仕方ないのか、嵐志と結衣はいつもよりも張り切って準備を始める。リビングのローテーブルにテーブルクロスを敷き、出来た料理を運ぶためキッチンに跳んでいく。

「あ! こらっ!」

 愛衣が叫ぶ。いつの間にか雪彦の膝の上に、愛衣の猫の桃子が丸くなっていた。雪彦はどうしたらいいのか、両手を宙に浮かせたまま身動きを取れないでいた。愛衣に叱られて桃子はのっそりと動き、雪彦の膝から降りる。じろりとアイスブルーの目が愛衣を睨んでくるけど、これからご飯なのだからやめてほしい。

「ほーら、降りなさい!」

 なるべく名前を呼ばないように怒る。桃子が自分の名前を嫌ったらもうおしまいだ。

「ごめんなさい雪彦さん、猫アレルギーじゃないですか?」

 雪彦は呑気にあくびをしている桃子を見ながら「大丈夫」と答えた。それから小さな声で「猫は好きだから」と付け加える。

 部屋着用のジャージに着替えてきた大樹もリビングにやってくる。

「雪彦は猫に好かれる体質なんだよ」

「そんなことないっ」

「弓道場の野良猫も寄ってくるんだよな」

「だから違うってば」

 急に雪彦は食って掛かったような言い方になる。やっぱり緊張していたのかもしれない。

 今日のメニューはトマトとエビのパスタに、タコとグレープフルーツのサラダ、カボチャの冷製ポタージュ。並んだ料理を、雪彦は珍しそうに眺めていた。

「たくさん食べろよ、雪彦」

 大樹が促す。パスタを口に運んだ雪彦はしばらくの間、黙っていた。

「雪彦兄者、おいしくないか?」

 隣に座った嵐志が雪彦の顔を覗く。

「ううん、おいしい」

 柔らかく微笑む。「すごくおいしい」とかみしめるような言い方が、妙に引っかかった。けれど「愛衣は料理がうまいんだ」という大樹の声に消されてしまった。

「俺だって作れるぞ!」

「嵐志、立たない」

「ゆいもつくるー!」

「結衣、口に入れたまましゃべらない」

 雪彦はそのやり取りを、眼をぱちぱちとさせながら見ていた。

「嵐志も結衣も、少しは静かにしなさい。影崎さんが食べづらいでしょ」

「あ、いや……大丈夫」

 雪彦は箸を持った手を振った。

「こうして大勢で飯を食べてないから……なんか、楽しくて」

「影崎さんは、ご兄弟はいらっしゃるんですか?」

 愛衣の問いに雪彦は「え」と声を上げる。

「あ、ううん……一人っ子。だから、こんなに大勢の食事は初めてで……」

 雪彦は何か言いたげだった。しばらく黙ってから「また、食べにきていいかな」と聞いてきた。

 目の下が赤くなっている。右目の泣き黒子の周りも桜色になっていた。こんなにきれいなグラデーションで赤くなるのを、愛衣は初めて見たかもしれない。

「え、あ、はいっ、いつでもどうぞ」

「姉者! 次雪彦兄者が来るときは俺が飯作る!」

「ちがう! ゆいがつくる!」

「二人とも、食事のときは立つな」

 嵐志と結衣のテンションは収まることを知らず、オセロやトランプを持ち出してきた。最初は二人にされるがままになっていた雪彦だったが、オセロを始めると嵐志と結衣をそれぞれ負かせて得意そうな顔をしていた。

 愛衣は何度か、試合で雪彦が弓を引くところを見たことがある。その時の雪彦はまるで鷲か鷹のような眼差しで的を狙っているのだ。一目睨まれたら最後、命を取られてしまう恐怖と畏れ。なにより氷を張ったようなぴいんとした冷たさがその場を支配する。そして弓道を終えると、今までの殺気じみた雰囲気はどこにいったのか、途端にやる気をなくした目をするのだ。入れ替わりの激しさに、思わず別の人かと疑問を持ったくらいだった。

「影崎さん、そんなに怖い人じゃないのね」

 皿を洗いながら大樹に言うと、「人はとって食わんよ」と返ってきた。

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