3話

 居心地のいい時間はあっという間に過ぎていく。文芸部も製本時期でない限り、見回りの先生がやってきて五時に帰るのを促される。

 文芸部がある日は、愛衣は悠馬と一緒に帰ることになる。国枝悠馬は愛衣が幼稚園に通っていたころからの幼馴染で、家も近所だった。現在入院している母に聞いた話だが、悠馬とは生まれた病院も同じで、しかも誕生日も一日違いだという。聞いたときは何かの運命だと少しは思ったが、彼とは特に何もない。中学一年目にクラスが離れてからというものの、悠馬と話す機会もなくなって、以前に比べて疎遠になっていった。

 前を歩く彼の影を踏み、愛衣は無言で歩く。どうしてかしら。声をかけようにも、言葉が出てこない。悠馬と話すのってこんなにも難しかったかしら。いいや悠馬だけではない。クラスの男子と話すことにも、息苦しさみたいなものを感じる。気さくに話しかけられない。愛衣が知っている本を読んでいると、その内容について話したくなる。けれど空気がそれを許さないような気がする。

 愛衣の家の前まで来ると悠馬は振り返り、愛衣に片手をあげて「また明日」と帰って行った。これは小さいころから変わらない。一応、後ろにいた愛衣の存在は認識しているのだ。

 愛衣も片手をあげて見送ると家の中に入った。

「ただいま」

 桜子がリビングから元気に走ってきてお出迎えをしてくれる。

「よしよし、もうすぐごはんだからね。今アンタのご主人が作ってるから、もうちょっと待っててあげてね」

 靴を脱いで真っ先にキッチンに向かう。中華のいい匂いが廊下にまで漂ってきていた。

「嵐志っ! また桜子を家に上げたでしょ!」

「げっ、姉者もう帰ってきた……」

 キッチンで水色のエプロンをした嵐志が振り返りながら冷や汗を流した。

「桜子の小屋は庭でしょ」

「いーじゃん! 吹雪も桃子も梅吉もみんなうちの中だしさ! なんかずるいよ! なぁ桜子?」

 コンロの火を消して嵐志は頬を膨らませる。理解しているのかいないのか、愛衣の足元に走ってきた桜子も、きゃんっ と一声あげた。

「……ちゃんと足は拭いてあげた?」

「拭いた!」

「なら今回は許してあげる」

 再び足元で桜子が嬉しそうに吠えた。

 二階の自分の部屋に向かい私服に着替える。ノースリーブのシャツにジーンズ。ひらひらした制服のひだスカートよりも、こっちのほうが落ち着く。

「姉者―っ! 飯―っ!」

 嵐志の声が家中に響く。何に影響されたのかしらないけれど、嵐志は変な呼び方で愛衣や大樹のことを呼ぶ。人より声が大きい。その大声はうるさいし頭に響く。けれど学校であった嫌なこととか、もやもやした気持ちとかをすべて吹き飛ばしてくれるみたいで、嫌いではない。朝にやられると頭が痛くなるけれど。

「わかったから、少し静かにしてなさい」

 夕食当番は一週間ごとで交代するのが一之瀬家のルールだ。大樹や愛衣だと夕飯が偏らないように趣向を凝らしている。けれど嵐志が当番だと彼の好物ばかりが出される。昨日と一昨日も中華料理だった。そろそろあっさりした日本料理が食べたい。

 リビングでくつろいでいた桃子もご飯のにおいを嗅ぎ付けて催促し始めた。いつもはぼんやりしている桃子だが、甘えるときの声は可愛くて好きだ。

「おー、愛衣も帰ってたか。おかえり」

 テレビを見ていた恭平もキッチンに集まってくる。嵐志と結衣と、恭平と愛衣。大樹は部活があって、今日は帰りが遅くなる。

「嵐志」

「なーにー?」

「酢豚なのにピーマンが入ってない」

 すると嵐志はまた「げぇ、またバレたぁ」と変な声を出した。

「何がバレたよ。また父さんに買収されたんでしょ」

「買収じゃねーもんっ! とーちゃんがプリンくれるって言ったから……」

「それを買収っていうのっ!」

 大元になった恭平はというと、結衣と一緒に箸を並べたりご飯をよそったりしている。子どもみたいに好き嫌いをする父親に呆れる。ピーマンくらいちゃんと食べてほしいのに。栄養管理をするこっちの身にもなってほしいものだ。

「今回は許してあげるから。父さん、今度は嵐志を買収しないでね。母さんに言いつけるわよ」

 自由人の恭平にはこれが一番効く。母に報告すると言った途端、恭平はしゅんと項垂れる。犬みたいだ。恭平は妻の彩夏には頭が上がらない。けれど帰ってきたら真っ先に彩夏が入院する病院に足を運ぶくらい大好きなのだ。

 夕食の後に、嵐志特製の杏仁豆腐が出される。ソファーでテレビを見ながら舌鼓を打っていると、桃子がのそりと膝に乗ってきた。

「あら、桃子どうしたの」

 桃子は不機嫌にふさふさのしっぽをだらりと床に垂らして左右に振っている。機嫌が悪いみたいだ。視線は桜子の方を向いている。いつも外にいるはずの桜子が家の中にいることに警戒しているのか。背中をなでてやると にゃー と鳴いて愛衣の横でごろりと寝転がった。

 大樹が帰ってくるのは大抵二十時を過ぎたころだ。今日もその時間に帰ってきた。

「ただいま」

「おかえり兄さん」

 弓道部に所属する大樹は、弓を自分の部屋にしまってからキッチンに置いてあるフードカバーを外して、今日のメニューを確認する。

「愛衣、酢豚にピーマン入ってないぞ」

「嵐志に言って」

 ドライヤーで髪を乾かす。耳元で唸る機械音が苦手だが、乾かさなければ風邪をひく。

「そうそう、明日雪彦が来るからな」

「わかったわ」

 明日の土曜日は、兄弟たちが一番楽しみにしている日だ。雪彦がやってくる。

 雪彦は、大樹の恋人なのだ。

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