2話

 家のことを全部やってから家を出るので、愛衣はいつもギリギリに登校することになる。

「おはよう、一之瀬」

 校門前で、学年主任の谷田先生が待ち構えていた。この先生は毎朝校門に立ち、生徒の遅刻と身だしなみをチェックする。一秒でも間に合わなかったら遅刻とみなし、生徒手帳を取り上げてそれを記入される。身だしなみも一つでもアウトならば即追い返され、女子のスカートに関しては定規を持ち出す始末だ。

「おはようございます」

 いつも通りの挨拶をやり過ごして、昇降口までの道のりで愛衣は溜息をついた。

 三年の教室は決まって三階と決めたのは誰なんだろう。階段を上る際にも溜息がこぼれた。最上階まで登ってから、三年D組の教室に入る。

 中学生活の一年はクラスで決まる。誰が言ったのか知らないけれど、それは確かだと愛衣は思う。小学校の寄せ集めで大した選抜はしていない。そんな空間で協調性を求めるのは難しい。そのためクラスがハズレだと、いじめが起きる。極端に言えば、良くて仲間外れ、悪くて不登校。二年の時のクラスが前者だった。愛衣のクラスの一人が、最初のころに不登校となって三年に進級する前に転校していった。三年になった今は、社交的な生徒が多かったこともあり、とりあえず何事もなく学校生活を送ることができている。

「おはよー、アイちゃん」

 ノートや教科書を鞄から出していると、紀藤麻美がやってきた。二年の終わりから話すようになった、ぱっと見た限り地味な女の子だ。甲高くて甘い声は地声で、常に聞いているとねっとりと絡みついてくる。

「おはよう」

 鞄をロッカーに入れて社会の資料集を持ってくると、麻美が愛衣の前の席に座り、机に塾の問題集を広げていた。自分の机でやってよ。声に出さないで心の中で呟く。

 席について、文庫本を出して読み始める。最近は歴史の授業で先生に教えてもらった、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』にはまっている。小説も漫画も読んだ。特に漫画は、様々な人がそれぞれの解釈で描いていたりするから、同じ作品でも読んでいて違った面白さがある。

「ねぇ」

 ちょうど見ごたえのある場面で、麻美が訊いてくる。

「何?」

「アイちゃん、この問題わかる?」

「先生に訊けばいいじゃない」

「でもこれ、塾の問題だし……」

 塾の問題だから何なのだろう。私よりも専門の先生に訊いたほうが、早く解決できるのに。感情が表情に出ていないか、本で顔を隠す。

「先生のほうが確実だよ」

「……そうだね」

 妙な顔をして何か言いたそうだったが、予鈴が鳴って、麻美はようやく席に戻っていった。こんな朝が、三年になってから毎日続いている。ため息が漏れた。いけないいけない。今日三回目。幸せが逃げてしまう。

 愛衣は休み時間ごとに図書室へ逃げた。読書スペースがある図書室の奥。そこは文芸部の部室に充てられていて、部員の愛衣はいつもそこで本を読んだり作品を書いたりしている。

 図書室の一番日当たりがいい場所に、なぜかロッキングチェアが置かれている。それは学校にしては不釣り合いだが図書室には似合っている風景だった。そこにボブショートの少女が、椅子の上で体操座りをして赤い表紙の大きなを読んでいた。ゆらゆらと規則的に揺れながら読んでいると、すぐに眠くなるだろう。彼女は愛衣の後輩であり、文芸部員二年生の星野音莉だ。

「あー、アイちゃん先輩、また来たんですかー」

 愛衣に気付くと、音莉は本から顔をあげて子猫みたいに にっ と愛らしい笑みを浮かべた。

「音莉こそ、また授業サボっていたの?」

「サボってないですよぉ、もう、ひどいなあ、先輩はー」

 ゆらゆらと揺れながら音莉はページをめくる。

「何を読んでいたの?」

「今日はですねー、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』です」

 音莉は赤く分厚い装丁の本のタイトルを、誇らしげに愛衣に見せた。

「すぐ寝ちゃうのに、長編を読むのね」

「だいじょーぶですよ-、今度は寝ませんってー」

「ほんと?」

 黒いショートボブをゆるりと揺らして音莉はまた読書を始める。愛衣は窓際の一番奥の席に腰かけ、持ってきた『南総里見八犬伝』を読み始めた。読書をしていると時間はすぐに過ぎてしまう。長編ファンタジーを読むには、十分の休み時間は短すぎる。愛衣は持ってきた本を抱えて、早歩きで図書室を出た。三年D組の教室に戻ると、入口のところで麻美が「どこ行ってたの?」とやってくる。

「図書室だけど」

 それだけ言うと、チャイムが鳴った。ナイスタイミング。愛衣はするりと麻美を躱して自分の席に着いた。こんなやり取りも、三年になって毎日続いている。

 麻美とは二年生の時の学外合宿のときに知り合った。たまたま同じ食事係だっただけのことだが、その時から麻美は愛衣に声をかけるようになっていた。初めのうちはお気に入りの本の話だったり好きなアーティストだったり、愛衣も麻美と話すことが楽しかった。けれど時間が経つにつれて、麻美はクラスの女子たちの悪口を言い始めた。それも愛衣が仲良くしている女子たちのことだった。愛衣がそれに気づいたのが冬休み明け。愛衣がほかの女子と話していると、後から「何話していたの」と聞いてくるようになった。学級委員長である二村菜摘と事務的なことを話していてもだ。数学の教科書を眺めながら、彼女はいったい何をしたいんだろうと、何となく考えた。

 退屈な時間が過ぎて放課後になって部活の時間が始まる。各々部活に向かう中、愛衣も鞄を持って教室を出た。

「一之瀬ちゃんばいばーい!」

 階段を下りていると、バスケ部の早川優香が元気よく手を振りながら愛衣を追い越して行った。愛衣も手を振りかえす。愛衣はクラスの中でも友好関係は良好なほうだ。たまにある悪口を言ったり聞いたりいする雰囲気には堪えるけれど、それなりに楽しい。

 愛衣は文芸部の部室になっている図書室に向かった。奥にあるロッキングチェアには、さっきと同じように音莉が座っていた。けれど今回は丸くなってすっかり眠り込んでいる。

 窓際の席には二年の倉敷夜鷹がいた。原稿用紙を机の上に大量に書き散らしている。足元にも数枚落ちているが本人は気が付いていない。そしてその手が止まることはない。

「精が出てるわね、夜鷹」

 隣の席に鞄を置くと、ようやく夜鷹は手を止めて愛衣を見上げた。

「あぁ、愛衣ちゃん先輩。来月の部誌に載せる作品、まだ書けてなくて……」

 文芸部は『夜明け』という部誌を毎月一冊発行している。その完成品は図書室の棚の一角に置かれることになっていて、生徒や先生の中には熱烈なファンもいたりする。もちろん、製作に奮闘した文芸部員全員には一冊ずつ献本されるのが恒例だった。

「確か、今月の部誌は明日が締め切りじゃなかった?」

 愛衣が言うと夜鷹は「そーなんですーっ!」と困ったように肩をすくめ、また原稿用紙に書き始めた。夜鷹は熱心な書き手だった。少しでも納得しなければ場面を徹底的に書き直す。取材や資料集めを怠らず、努力を惜しまない。文芸部の中でも制作時間に一番時間をかけているのは夜鷹だ。そのせいでいつも締め切りぎりぎりの提出になってしまう。

「頑張ってね」

 すでに作品を提出した愛衣は夜鷹の肩をぽんと叩く。「はいっ」と元気のいい声が返ってきた。

 しばらくすると、文芸部員が続々と集まってきた。

「おっはよー!」

 元気よく入ってきたのは部長の雨宮風夏。癖の強い長い髪を強引にポニーテールにしているせいで、髪があっちこっちにはねている。頭を振るたびに元気良く揺れるものだから、よく馬の尻尾みたいと言われている。

「うるせぇ、もっと静かに入れ」

風夏の次に入ってきたのが三年生の瀬呂花鶏。少し目つきは悪い。もうすぐ受験シーズンに入るが、風夏と共に毎日欠かさず文芸部に顔を出してくれる。

「「遅くなりましたーっ」」

 澄んだ声がさわやかな風のように吹き込んだ。一年生の山下文乃と天川鐘花がやってきたのだ。

「すみません、掃除当番でゴミ捨て行ってて……」

「私は日直の雑用で~」

 文乃と鐘花は、よく見ると対照的なコンビだ。文乃は髪が短くて、釣り目で、背も高い。中学一年生の女子にしてはハスキーな声をしていて、活動的な印象だ。対して鐘花は、腰まである長い髪を三つ編みにしている。垂れ目で、背は文乃より頭一つ分低い。まさしく文学少女というような雰囲気の、おっとりした性格をしている。

「そんなに急いで来なくても大丈夫なのに」

「だって、早く部活に来たいんですも~」

 鐘花がゆるりと首をかしげて微笑んだ。

 掃除当番を終えてやってきた国枝悠馬と、ここに星野音莉と倉敷夜鷹、そして一之瀬愛衣を含めこの八人で、文芸部は活動している。

「まだ十月号の『夜明け』の作品提出してない人は出してねー 特に夜鷹っ!」

「あーもう、わかってますって~!」

「たかるな、部長ー」

「たかってないしっ」

 風夏は春風みたいな声で伝えると、自前の赤いノートパソコンを出してきて、提出された手書きの原稿を打ち込み始めた。『夜明け』のページレイアウトは部長の風夏に一任されている。表紙のイラストは、一年生の文乃と鐘花が交互に担当していて、今回は鐘花の番だ。デジタル原稿の印刷が終わると、全員で製本作業に取り掛かる。

 原稿を打ち込み終わるまでは、各々読書をしたり宿題をやったりしている。愛衣は『南総里見八犬伝』を広げ、悠馬はカール・マルクスの『資本論』を持ち出して読み始める。なぜそんなものを読むのかと悠馬に聞いたところ「読むものがなくなったから」と彼は言っていた。

 鐘花はスケッチブックを広げて今回の表紙の下書きを描いている。彼女は水彩絵の具を使うため、準備は早めにやっている。

 文芸部はこうしてのんびりと放課後を過ごしている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る