愛衣の白地図

青居月祈

1話

 愛衣の一日は早い。

朝の四時に三つ上の兄・大樹と、三つ下の弟・嵐志がランニングに出かけてから、愛衣が起きる。男兄弟が返ってくるまでに、愛衣は湯を沸かして朝食の支度をする。

リビングのカーテンを開ける。緑のカーテン兼食料のゴーヤの葉が、ネットいっぱいに広がって、大きなごつごつした実がだらんと垂れ下がっている。夏休みがけて九月ももうそろそろ終わろうとしているのに、まだまだ暑い。そりゃゴーヤも成長するわけだ。

 んーっと背伸びをしていると、足元にころんと白い毛玉が転がってきた。にゃーとなくそれを抱き上げる。

「おはよー、桃子」

 まずは、ペルシャ猫の桃子に朝ごはん。今日はカラフルなペレット状のキャットフードを半皿と、鶏肉とじゃがいもとキャベツを煮てミキサーにかけたものを与える。味付けは鶏肉と野菜の出汁だけで、人肌に温めて食べさせる。桃子は今日も、白い顔をごはんの器に突っ込むようにして、すべて平らげた。

 にゃー。

 ごちそうさまを言ってキッチンを出ていくと、今度は灰色の猫がやってくる。こっちはロシアンブルーの吹雪。吹雪は、桃子が平らげた皿をくんくんと嗅いで、愛衣を見上げて、にゃー、と催促してくる。

「二匹とも一緒に来てくれると手間が省けるんだけどな……」

 吹雪は にゃあ と鳴いてみせるが、私の意志なんて関係なく催促しているのだろう。桃子はソファーの上で大きなあくびをしていた。

「さて」

 今度は人間の朝ごはん。昨夜仕込んでおいたフレンチトーストを冷蔵庫から出す。野菜室からレタスとトマトも出して、四人分の皿に盛りつけた。

「あいおねえちゃん、おはよぉ」

 たどたどしい足取りで六つ下の妹・結衣がキッチンに現れた。オレンジ色のパジャマを着て、背中まで伸びたふわふわした栗毛の髪が寝癖ではねている。

結衣は同じくらいの背丈の白いうさぎのぬいぐるみを両手でぎゅっと抱きしめている。結衣は毎朝このもこもこのぬいぐるみを連れて起きてくる。そろそろくたびれてきたから、新しく綿を詰替えたほうがいいかしら。結衣はリビングまで行き引っ張ってきた白いうさぎのぬいぐるみをソファーに置く。それからリビングの隅に置いてある木箱を覗いた。

「うめきちさーん、あさですよー」

 木箱から本物のうさぎを、両手で「よいしょ」と抱き上げた。茶色のうさぎは、我が家では一番年下のくせに「梅吉さん」と呼ばれている。結衣の小さな手で頭を撫でられて、梅吉は気持ちよさそうに目を細めている。

「結衣、梅吉のごはんよ」

「はーい」

 結衣は干し草とラビットフードが入った器を大事そうに持っていく。

 焼けたフレンチトーストを皿に盛り、味付けのトッピングをテーブルに並べて置く。ポットに刻んだ林檎とオレンジ、ブドウとティーバックを一つ放り込み、お湯を注ぐ。おばあちゃんから教わったフルーツティは、朝の定番の飲み物になっている。

「ただいまーっ!」

 玄関が勢いよく開いたと同時に、威勢のいい声が吹き荒れる。次男が返ってきたのだ。

「嵐志うるさい」

 一緒に帰宅した大樹の声を背に、嵐志は気にも留めずキッチンまで走る。威勢のいい声には眠気も感じられない。

「アイ姉! 桜子のごはんっ!」

「リビングに出してある」

「サンキュー!」

 リビングから桜子のご飯をかっさらっていくと、庭できゃんきゃんと吠えている柴犬の元へ走って行った。

「桜子ー、めしだぞー!」

 一之瀬家では、五歳になると動物一匹与えられる。命を育てる難しさと責任を学ぶ勉強ということで、五歳の誕生日プレゼントは決まって動物だった。大樹はロシアンブルーの吹雪。嵐志は柴犬の桜子。結衣はネザーランドドワーフの梅吉。愛衣はペルシャの桃子。犬が一匹、うさぎが一匹、猫が二匹。各々が世話をしていて、もう半分相棒みたいになっている。

「よー、吹雪。おはよう」

 背の高い大樹がしゃがんで、廊下でごろりと横になっていた吹雪の腹を撫でると、手を引っ掻かれた。

「イッテッ! 吹雪……朝の挨拶がこれって、ちょーっとつれなくないか?」

 ぅにゃーーぉ

「はいはい、下僕が勝手に触ってはいけないのね……」

 大樹と吹雪は常にこの主従関係だ。触って怒られる。

「嵐志、今度はアンタがごはんの番よ」

「はーいっ!」

 バケットで作ったフレンチトーストが四つと、レタスとトマトとポテトサラダ。嵐志が冷凍庫からバニラアイスを出してくるとスプーン大盛りで乗せている。

「アイ姉、バニラアイスがもう残り少ない」

「じゃあ、今日帰ったら買ってきなさい。兄さんにお金出しといてもらって」

 フレンチトーストに限ることではないが、一之瀬家の兄弟は決まって好みの味付けがバラバラになる。けれどどれも甘いものには変わりなかった。大樹がイチゴジャムをかける隣で、嵐志はホイップクリームとバニラアイスをスプーン大盛りで乗せる。愛衣は粉砂糖をさらさらとふりかけ、結衣はメープルシロップをたっぷりとかける。

「嵐志、ついでにイチゴジャムも」

「えー、また大瓶で? あれすっげぇ重いんだよなぁ。兄者もよくイチゴジャムばっかで飽きないもんだぜ」

「バニラにクリームのベタ甘なお前に言われたくないな。なぁ愛衣?」

「シンプル・イズ・ベスト」

 愛衣がしれっと呟く隣で、結衣が舌足らずな口調で「しんぷる・いず・べすとぉ」と真似をする。

 この時間帯、起きているのはこの四兄弟だけだった。父の恭介は多分まだ夢の中で、母は入院中だ。

 朝ごはんが済むと、それぞれ学校の支度を始める。

 部屋で準備すればいいものの、嵐志が宿題だの教科書だのをリビングでランドセルに詰め込む傍らで、着替えてきた結衣が自分の髪を櫛で梳かして二つ結びにし始める。

「あ、やっべ、宿題……」

「あらしお兄ちゃん、また宿題やってなかったの?」

「結衣ッ、しーっ!」

「コラ」嵐志の頭に、大樹の拳骨が降る。「だから昨日聞いただろうが」

「ごめんなさーい」

 謝ってはいるものの、嵐志に反省の色が見られない。

最初に出ていくのは嵐志と結衣の小学生組。嵐志の赤いランドセルと結衣のオレンジ色のランドセルが元気よく玄関を飛び出していく。

その次が高校生の大樹。大量に荷物を詰め込んだリュックサックと、部活の着替え、そして弓道で使う弓を担いで出ていく。

そして最後に中学生の愛衣が戸締りをするのだ。

 玄関で靴を履いていると、奥の部屋から背の高い男が、大きなあくびをしながら のそり と出てきた。大きな巨木のようなどっしりとした風格があり、筋肉で太くなった腕は丸太のようだ。肩幅が広く、大熊みたいにも見えるこの男が、愛衣たちの父親の恭平だった。

「おお、愛衣。おはよう。もう学校か?」

「もうって、もうすぐ八時よ」

「そっか~、最近の学校は始まるのが早いなあ」

 童顔の父は五十後半を超えているのに、実年齢よりも若く見られることが多い。そのせいで、父というよりは歳がうんと離れた兄のようでもあった。

「父さんは休みなの?」

 またあくびをしながらぼりぼりと腹を掻いている父を横に、玄関にある姿見でセーラー服の襟を整える。

「ああ。次の当直が来週だったかな。まぁ、その辺りだ」

 子どもみたいにパジャマ姿で見送りに出てくる父は、海上自衛隊の潜水艦乗り。いわゆる〝クジラ〟というやつだ。

「じゃ、自分の洗濯物はお願いね」

「はーい」

「今日の夜ごはんは嵐志の当番だから、帰ったら忘れないように言っておいて」

「はーい」

「暇だったら、庭のゴーヤ収穫しておいてくれる?」

「あいあいさー」

「あと、今度の土曜日に雪彦さんがごはん食べにいらっしゃるって」

「はーい」

「じゃ、行ってきます」

「いってらっしゃーい」

 伝えることを一通り伝えて、外に出る。太陽がすっかり昇り、今日も暑くなることを教えていた。まだ蝉が鳴いている。季節通りに寒暖がやってこないかしら、と愛衣は太陽を睨み付けた。

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