第3話

「いっそ消えてしまえば……楽だな」

 しとしとと、雨音のような声が少女の耳元に降る。

「俺もチケットを捨てて風に乗せた」

「……あんなの、ただの紙切れじゃない。そんなに重要じゃないわ」

「そうかい。じゃあ落ち着いてからまた改札を通ってみればいい。今度は通れるかもしれん」

 少女は静寂の中に靴音が遠のくのを聴いた。

「あなたッ!」

 少女は立ち上がり、薄ら明るいホームに鮮明な黒の、青年の背中を視界に入れた。その背中は、少し、遠いが。

「消えてって言ったのよ。聞こえたでしょ?」

「終着駅は君の世界か?」

 遠い背中からする声は、夜の駅舎に響き渡る。

「そうなの」

 少女は無理に笑ってみせた。

「だって、あなたいないもの。私にはやっぱり見えなかったの。ごめんなさい」

 笑った。涙は止まらないのに、笑った。どこか馬鹿にした笑い口調も止まらない。

「何しに来たんだ?」

「意味が無いって、言ったでしょう?」

「目的を声に出して俺に伝えてみろ」

「関係ないの」

「次の汽車で戻るんだな」

「それが今から消える人がいう言葉かしら?」

「消すのは、君か?」

「そうよ」

 次の返事は青年の失笑であった。

「消えたいのは、君だろ?」

 それは言葉ではなく、少女を支えていた不安定な硝子の軸に罅が入った音だった。

「そ、そんなこと……」

「もっと簡単にしてやろうか?」

 続く余韻が……沈む、深く──。

「俺が、殺してやろうか?」

 少女は、その言葉で既に殺されたような気分になった。

 多分わかっていた。気付かないようにしていた繰り言だったのだ。狂、殺、死……それらに隣接した感情を身近に持っていたい。同次元を超越した世界に、憧憬にも似た想いを抱いていたのかもしれない。そんな自分が、崇高だとさえ思っていた。

 「死」。結局、その言葉で完結されるのだろうか。

 風が冷たい。一層冷たい風が擦りぬける。

 少女の目に輝きはなく、洞窟のような瞳がぼんやりと一点を見つめていた。

「終着駅はあくまで終着駅だ。何ものにも変わりはしなかった。どれだけ寂れ果てようと、消えはしなかった。君の小さな想念では地震の一つも起こりはしない。……いや、どれだけ大きな渦を起こしても、壊すことも呑み込むこともできなかった」

「わからないわよ……難しくしないで」

 青年が少女の方に向いた。

「君が思うよりもずっと、難しいのさ。簡単ではなかった……気安く触れてはいけない。君は、俺に殺されればいい。それだけだ」

 物騒な言葉がどこか安らぎにさえ感じるのは、やはり待っていたからかもしれない。

 青年が、優しく微笑する。

「おいで」

 氷を溶かす温かい水が流れだしたように、すんなりとその声は絡みついてきた。

 殺されるかもしれない。だが、殺気も何も感じない。ただ飛び込めば、受け入れてくれるだけの人のようだ。

 おぼつかない足取りで、少女は一歩、二歩と青年に近づく。

 が、立ち止まる。

 青年の右手にキラリと何かがひらめいた。

「巧く、殺してやろうね」

 閃きの正体はメスであった。小さなメス。

 青年は軽々とメスを回転させ、その切っ先を少女に向けてピタリと止めた。

 少女がその動作を視認する間も与えずに、青年はメスを掴んだ右腕を小さく引き上げて、素速く振り下ろした。

「あぅッ……!?」

 少女は腹部を抑えて小さくうめいた。

 痛みが起こったわけではない。背中に冷気が突き抜けて、まず腰が引けた。それと同じく、呼吸の機能が一瞬麻痺した。

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