第5話

 宴会の騒ぎ声が頭の外で響いていた。

 しかし裕太は、手にしたぐい飲みを目の前に、いつまでも躊躇っていた。

『ここまで来ても腹が決まらないとは……』

「ユウくん」

『また失敗するかもしれないし』

「ユウくんってば」

『でも今さら飲まないことも出来ないし』

「………ユウくん、私の話を聞きなさーーい!ガブッ」

 フィオナは裕太の左耳に噛みついた。

ったい!なにすんだよフィオナ!」

「見て見て、ユウくん。私、今日のためにで買った一番お気に入りのワンピースを着て来たの!スカートの裾の花刺繍が可愛いでしょう?………なのに、ユウくんってば全然褒めてくれないんだもの。バカ!ユウくんなんて知らないんだから!」

「そんな理不尽な……。ちょっと、おじさん。フィオナにどれだけ飲ませたんですか」

 座卓の向かいに座る中年に声をかける。こちらの方も完全に

「え?ちょっとだけだよ~。フィオナちゃん、酒弱いんだなぁ。ハハハハハ」

「勘弁してくださいよ」

 話は三十分前に遡る。



 フィオナの店での出来事から三日後。

 裕太は井草いぐさが香る畳敷きの和室のなか、精巧な彫刻欄間らんまを見上げていた。

 フォレストンの職人からこの酒蔵の主に贈られたという欄間には、生き生きと枝葉を広げる世界樹と、二つの月。田舎果村とフォレストン村を繋ぐゲート・連ね木つらねぎが彫られている。異世界の杉を無垢材むくざいで彫った欄間は大きさが一間いっけんもあり、裕太は子供の頃からこれを見るのが好きだった。

 試飲会場となっているはやし酒蔵の広間には既に酒宴の準備がされており、座卓を並べた席には田舎果とフォレストンからの参加者が座っていた。田舎果で年に一回行われるこの試飲会には、両村の村長をはじめ、麦や米の生産に関わった者全員が出席していた。

 今年の麦焼酎『ともづき』の味を楽しみに、参加者たちは今か今かと待ちわびている。

 そこへ、作業服を着た壮年の男性が立ち上がる。

「え~それでは。まず、今年もこうやってみんなに集まってもらえたこと。酒蔵の杜氏とうじとして感謝を申し上げます」

 皆から拍手が起こる。

「今年の『ともづき』も、出来栄えはまずまずです。収穫されたフォレストンの麦、田舎果の米を使った米麹こめこうじ、どちらが欠けてもこの酒は完成しません。生産者のみなさんには感謝を――」

林蔵雄はやしくらお、早く乾杯をさせたまえ」上座に座るセラフィムが抗議する。

「そうだとも。さっさと飲ませろ」隣に座るアロハシャツの老人が口を揃える。彼が田舎果の村長・村岡徳次郎むらおかとくじろうだ。

「うるせいやい!タダ酒飲ませるんだから、少しは我慢しやがれ」

 どっと笑い声があがる。

「――最後に。今年のともづき作りには、フォレストンから新たに杜氏を迎えました」

 林よりも頭一つ背が低い、作業服の女性が一礼する。

「去年からこちらで働かせてもらっています。ドワーフ族ギブリムの娘キムリです。ここで修業させてもらっています。えっと……いいお酒が造れるように頑張ります!」

 キムリは顔を真っ赤にしてまた一礼した。

「頼むぞ、お嬢ちゃん!」「蔵雄さんに負けるなよ~」

 全員が温かい拍手を送る。

「村長たち。乾杯の音頭を頼むよ」

「わかった。徳次郎、君からどうぞ」

「じゃあ、みんな。盃は行き渡ってるな。隣の者に酒をいでくれぃ」

 徳次郎はそう言って、隣に座るセラフィムの盃に酒を注ぐ。

 セラフィムは酒瓶を彼から受け取ると、今度は相手の盃に酒を注ぐ。

 他の者たちも同じように酒を注ぎ、酒を注がれる。

 全員の盃が満たされたのを見て、徳次郎は頷く。

「二つの月を持つ村の者たちよ、麦をありがとう」

「多くの友が暮らす村の民よ、酒をありがとう」

『共に月を飲み干そう!乾杯!』

 二人の音頭に合わせて宴席の者たちも乾杯を告げ、ぐいっと酒を飲み干す。

 そこからは、酒宴の始まりだった。

 皆が笑い、褒め称え、酒を注いで注がれる。

 笑い声が、その場に広まった。




 そして現在に至る。

 裕太は最初の乾杯の後、なめるように酒に口を付けただけで、未だ飲むことが出来ずにいるのだ。

「よう、裕太。飲んでるかぁ」

「兄貴」

 源太は一升瓶と盃を持ってやって来た。

「フィオナ、ここ座っていいかな」

「源太さん!もちろん、いいですよぉ~。じゃあ私、イルマさんのところに行って来ようっと!」フィオナは畳の上を千鳥足で歩いていった。

「なんだ、裕太。全然飲んでねえじゃん。酒、そんなに弱かったか?」

「弱いってほどじゃ……。飲み過ぎて醜態さらすのが怖いんだよ。前に泥酔して失敗したことがあったから」

「失敗?飲み過ぎて吐いたとか?いや、わかった!好きな女に迫ったりしたんだろ!」

「違うよ!―――たぶん。覚えてないんだ。前に居た会社の飲み会で、正体不明になるまで飲んじゃって。次の日から避けられるようになったんだ……」

「はあ?器量の小さい職場だな。酒の席は無礼講、仕事は別の話だべ」

「――そうだけど、現実は違うんだよ。サラリーマンやったことない兄貴にはわからないよ」

「ああ、わかってたまるか」

 源太は乱暴に、自分で酒を注いだ。

「フィオナが俺んとこへ頼みに来たんだ。『ユウくんがイルマさんとお酒を飲みたいって言うの。すっごく大事なことなの。だからお願い。試飲会にイルマさんを連れてきて下さい!』って」

「それフィオナの口真似?気色悪いよ」

「あの子がそこまで言うから、イルマを説得して連れてきたのによぅ」源太は口を尖らせる。

「どんな経緯いきさつがあったか検討はつく。俺達の結婚式に出れなかったことを気にしてるんだろ。だからってフィオナにまで気を遣わせるなよ」

「うっ。面目ない……」

「まあ、初めての親戚付き合いだからな。イルマは気が強いし」

 源太は酒に口を付ける。

「――おまえにそこまで気を遣わせたのは、俺の方だなぁ」

「やめてくれよ。式のことは、仕事休めなかった僕の落ち度なんだから」

 源太は盃を置いた。

「おまえは偉いよ。裕太」

「え?」

「俺は高卒だし、もともと興味あることしかやりたくない性格だ。今こうして稼いでいられるのは、運がいいだけだ」

 源太は真剣な眼差しで裕太に向き合う。

「でも裕太、おまえは違う。おまえは頑張って大学出て、東京で就職もした。我慢してサラリーマンも続けた。きっと俺の知らない苦労もしたんだろ」

 にんまりと、裕太に笑ってみせる。

「おまえは俺よりも根性が座ってる。おまえは偉いよ」

「兄貴……」

 思いがけない源太の言葉に、裕太は目を丸くした。

 それから、少しだけ、泣きそうになってしまった。

「――――というわけで、そんな弟に俺は力を貸すことにする。これを授けよう」

 源太はどこから出したのか、小さな茶色の小瓶を差し出した。

「……なにこれ。『ウコンの底力』?」

「ラベルはそうだが中身は違う。薬師くすしのステリッドに言って特別に作ってもらった魔法薬だ。飲めばたちまちアルコールに耐性がつき、いくら飲んでもほろ酔い以上にならない。その名も―――」

「そ、その名も?」

「その名も――――あれだ。そうだ!『スパシーバ』!」

「……なぜロシア語?なぜ感謝の言葉?」

「細かいことは気にするな!大事なのはそこじゃない。さあ!これを飲んでイルマのとこに行って来い」

「わ、わかった。行って来るよ」

 裕太は源太に背中を叩かれ、小瓶と盃を持って立ち上がる。

「兄貴」

「なんだ」

「――ありがとう」

 源太は照れ臭そうにウハハッと笑った。


 裕太が去ったあと、セラフィムがそこに座る。

「今年のも美味しいな、種一源太。クセが全く無くて水のように飲めるのに、不思議と開放感と満足感が得られる。なにより料理によく合う。まるで、あちらの世界のコパクのようだ」

 セラフィムと源太は酒を酌み交わす。

「ところでセラさん。ウソの薬の効果を信じて、あたかも薬が効いてしまうみたいなことって、なんて言うんだっけか」

偽薬ぎやく効果だね。こちらではラテン語の『プラシーボ』効果と呼ばれるのが一般的だ」

「それだ。プラシーボ!思い出せなくって気持ち悪かったんだよ」

「なんだい。君まで徳次郎のように物忘れが始まったのかい?」

「ウハハッ。違うよぅ!スパシーバ、スパシーバ!」



 裕太は言われた通り『スパシーバ』を飲んだ。味はすっきりカシス味だった。

 試しに、手にしていた盃の酒を飲み干してみる。

『おおっ!なんだか本当に酔わない感じがする。これならいける!』

 裕太は座卓に上がっている手の付いていない酒瓶を持ち、勇んでイルマのところへ向かった。



 先に席を立ったフィオナが、何故かイルマの膝枕に寝そべっていた。

 尻尾をくるりと丸め、子供のように無邪気に甘えているのだ。

「イルマさんのお膝、柔らかくって気持ちいいなぁ。それにすごくいい香りがするの。くんくん」

 Tシャツを着た彼女のお腹の辺りにフィオナは鼻をうずめる。

「こ、こら。フィオナ、くすぐったいではないか」

「この香り……エルフの育てるオキサニアの花の香水ね!首のほうから香ってくるのかしら。くんくん」

 フィオナは構わず、イルマの首筋にピンクの鼻先を当てて匂いをかぐ。

「ひゃっ!冷たい」

「えーい、隙あり!ぺろぺろぺろ」

「た、たわけ!くすぐったい――ううう。あうう……」

 フィオナに首筋をなめられ、イルマは頬を赤くしてこらえている。

 棒立ちしていた裕太は、その光景を目の当たりにし、自分まで顔を真っ赤にしていた。

「あ、ユウくんだ!いらっしゃーい!ぺろぺろぺろ」

 フィオナは裕太に飛びつき、今度は裕太の顔をなめ始める。

「フィオナ!やめ、やめてよ」

「ささ、ユウくんもここに座って~」

 裕太から離れると、フィオナは座布団を勧める。

 イルマはさっきの首筋攻撃からやっと立ち直り、息を切らしていた。

 この場所は、完全にフィオナのペースと化していた。

「えーっと、フィオナ。料理が足りないみたいだから、他の席から取ってきてもらっていいかな」

「あら、本当だわ」

「向こうの席にオナガ牛のローストがあったようだ。それも頼まれてくれるか」

 イルマが座卓の一番向こう側を指さす。

「オナガ牛のロースト!私、あれが大好物なの!行ってきまーす」

 言うが早いか、フィオナは尻尾を千切れんばかりに振って去った。

 途中、彼女の尻尾に頭をはたかれる被害者が出ているようだ。

 裕太とイルマはそれを見て笑ってしまう。

「イルマさん」

 改まって裕太は手にしていた酒瓶をイルマに向ける。

「――一緒に、飲みましょう」

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