酒場にて

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酒場にて

「おれと夫婦めおとになってくれよ、千代」

薄暗い店内に大きなカウンターが一つ。カウンターには大柄な男と細身の男が座っている。カウンター越しの女が、またはじまった、という顔をして、大柄な男のグラスに酒を注いだ。宵町は常夜の町だ。毎夜毎夜、つまり何時何時も、神やあやかしが、酒を飲み女を買う為に集まってくる。

「真神、こないだもそう言って、断られたでしょう。いい加減、諦めなさいな」

細身の男が嗜めたが、大柄な男はそれを無視した。

「だって、お前、千代はすぐに死んでしまうんだぞ。おれは、千代が死んでしまうのは嫌だ」

大柄な男が拗ねたようにごちた。男の名は大口真神おおくちのまがみという。大きな耳と牙を持ち、鈍色の毛は固くゴワゴワとしている。

「数え切れないほどの人を喰らい、恐れられた獰猛な聖獣が、人の娘っ子相手に子犬のようなことを言う」

細身の男はそう言って呆れた。男の名は白蔵主はくぞうすという。ひょろりと長い体躯、白い肌に狐のような鋭い目をしている。

「わたしのばあさんはまだ健在だし、そのまたばあさんも百まで生きた。うちは長寿の家系だから、少なくともあと五十年は大丈夫のはずですよ」

たぶん、と女が笑って答えた。女の名は千代という。黒髪に一重の小さな目、体躯は小柄で、目尻にはうっすら皺が見える。齢は三十ほどだろうか。町のはずれにあるくすんだ小さな飲み屋を、一人で切り盛りしていた。

「たった、五十年!」

真神が悲鳴を挙げた。

「おれは、あとたったの五十年しか、千代に会えないのか!」

そう言い放ちカウンターに伏した真神を、千代は表情ひとつ変えずに、あやして宥めすかす。それが、いつもの光景だった。

「おれと夫婦になって、千代も神になれば、ずっと一緒にいられるのに。何百年も、何千年も。千代。おれは君がいない千年なんて、耐えられそうもない」

「わたしは、千年も生かされる方が、よほど耐えられそうにないですけれどもね。ただでさえ、体力は落ちて、化粧ノリが悪くなったというのに」

千代がこの宵町に突然現れたのは、三年ほど前だ。神とあやかしの集う夜の町に、人が迷い込むことは、稀ではあるがよくあることだった。大抵は、生と死の狭間に落ち生きる気力を失った者か、世に定まりきらぬ幼子ばかりで、数日もしないうちに、自身が人であることを忘れ、闇に溶けてなくなる。気にとめる者は誰もいない。この世界では、揺らぎのある者はそこに在ることもできない。そういう世界に、千代は在った。美しくも醜くもない平凡な容姿をしていて、清廉でなければ邪悪でもなく、人より秀でたものもなければ劣ったものもなく、意味のないことをよく喋り、凡庸で、人の世を恋しがるでもなく、宵町に腰をすえようとするでもなく、ただそこに存在していた。平凡であるがゆえに、人らしからぬ、可笑しな女であった。

「死んだあとは隠世かくりよへ行って、修行をして、いずれは神になるんでしょう?なら、今すぐ神にならなくたって良いじゃない」

もしくは、まっさらに戻って、次の輪廻をやりなおす。いずれにせよ、人の生は短いものの、肉体は滅びても、魂は無限の時を在るらしい。死してなお何の支障があるのでしょうと、千代が言った。

「いやだ。おれは、何の変哲もなく、ありふれた、穢れた今の千代が好きなんだ。捻くれ者で、小賢しくて、ちっぽけで、馬鹿で、間抜けで、すっとこどっこいで、優しい千代だから愛しているんだ。隠世で穢れを落としてしまったら、その魂はもう、千代ではなくなるではないか。穢れを落とした魂なんて、ただの器だ。おれは、そぎ落とされてしまう、価値のない、矮小な、その中身が好きなんだよ」

「失礼な。でも、ありがとう」

千代はそう言ってころころと笑った。

「千代は一体、“何”であろうかね。隠世で穢れを落としたお前の魂が、真神の言うとおり、お前でないことは確かであろうが」

魂そのものが人ではない、と白蔵主は言った。同じ魂であっても、この女の思考は今ここにいる女だけのもので、それは唯一無二としてまたとないものだ。何を知り、何を想い、何を感じるかは、その魂が何を経験するかによって、違う。同じ魂の器であっても、異なる記憶と思考を持ち、異なる人と成る。

「この宵町で、人が人でいられる時点で、人ではないのに、お前はあやかしでもなければ、神でもない。肉体は人で、魂も人であるように見える、だが、人ではない。人であるがゆえに」

「パラドクスとしては、面白い話だけども」

白蔵主の言葉に、千代は微かに眉を上げた。玉ねぎと胡瓜を薄くスライスし、素揚げした小魚に酢を加えて和える。始めは物珍しさを覚えた料理も、二人にはすっかり慣れた味になっていた。

「何でもいいさ。千代は千代だ」

出された小魚をつまみながら、真神は言った。

千代が宵町に現れたとき、誰も彼女を認知しようとしなかった。すぐに消える魂のそれだと思った。それが、三日経ち、七日経ち、やがて、変り者のおばばのくすんだ飲み屋で、人の娘が働いているという噂が立ち、そうしてようやく周囲が千代に気付いた。皆一様に驚き、千代の存在が知れ渡ることとなった。

「気付かないだけで、ここにも私以外の人がいるかもしれない。わたしはたまたま、誰かに認知されているというだけの、どこにでも居る普通の人間ですよ。白いからすを見たことがないというだけで、目の前の白い烏を烏でないと言うのは、些か暴論ではありませんかね」

千代がそう言って、真神の空になったグラスに酒を注いだ。

在る、と無い、の境界線は、実に曖昧なもので、誰かが認知しているかそうでないか、ということに過ぎない。実際に在る、か無い、かはさしたる問題ではない。大事なことは、在る、と思う誰かが在る、ということだ。それ以上でも、それ以下でもなかった。

「わたしが何であるかは、わたし以外の他の誰かが決めることで、関知できぬ範囲の話ですけどねぇ。白蔵主さんが人でないと言うなら、そうでないかもしれないなぁ、というだけです」

千代は興味なさ気に呟く。

人が人たるのは、“己は人である”と思い、主張したからそう呼ばれているだけのことであって、または、誰かが“お前は人だ”と言ったからであって、自分が真に何であるか、証明できる者は誰もいない。それは、神もあやかしも何も一緒で、最初から、この世に生まれたその日から、己が人であると定められていたわけではない。全てが、誰かが勝手に決めた枠の中での話であって、自分や他人をその枠に勝手にはめて納得しているだけの話であって、実際の自分が何であるかなど、無関係なのである。「己は何か」を証明することなど、明日の血圧ぐらい信憑性のない話だった。千代は小鉢に煮物をよそう。蓮根と鶏肉を醤油で煮炊きした、簡素なものだったが、二人の男はこれが好きだった。

「千代は、人の世で、何をしていたの」

「大学を出て、就職して、幾許いくばくか働いて、転職をして。本を読んだり、散歩したり、時々、旅をしたり。結婚もせず、独りでふらふらと」

そうこうしているうちに、人の世と宵町がいつしか混濁してしまった、と千代は言う。今もなぜ、自分がここにいるのか、そして自分が本当はどこにいるのか、千代はわからない。千代はよく人の世に在る夢を見る。意識の半分は、いまだ人の世に在ると言う。こちらとあちら、どちらが本当の自分かなど、確かめようもない。確かめる意味もないし、確かめようとも思わない。

「複数のわたしが見る共通の連続した夢なのか。それとも、一人のわたしが見る複数の無秩序な夢なのか。起きているのか、いないのか。ここにいるのか、いないのか。何が存在し、しないのか。誰もわからないし、誰も証明できない。そんなものですよ、すべては、なにもかも、よくわからない。在るかどうかもわからないものを、何だろうかと問われたところで、答えられないし、答えを出す意味もない」

「お前がこの宵町に人として在るのは、自身を曖昧さを曖昧なままにしていられるから、かもしれないな。自身の存在を証明する必要がないから、その曖昧さゆえに、存在がぶれることもないのであろう」

白蔵主の言葉に、千代は否定も肯定もせず、かといって深い意味もなく、どうだかなぁと笑い、真神はさっぱりよくわからないと言って、鼻を鳴らした。

「お前たちの話は難しくて、困る。おれは千代に触れることができるし、千代と夫婦になりたいと思っている。千代がいないわけ、あるか」

白蔵主は少し呆れたように、なるほど違いない、と言った。結局のところ、他者を介してしか、人も神も、存在できないのだ。人の信仰を失ったとき、神は死ぬ。神は概念だから、信ずるものが居なくなった時点で、存在自体が消えて無くなる。

「そういえば、この数百年で何柱も見送ったな。もはや、姿どころか名も思い出せぬが」

真神は消えた神柱を思い出そうとしたが、できなかった。かつては、親しくしていた者も大勢いたはずなのだが、姿も名も思い出せない以上、本当に存在していたのかどうかすら、わからなくなってしまった。

「それが、神の死、だからな」

白蔵主が言った。神も昔に比べ、ずいぶんと減ってしまった。かつて神は、人の世の中心にいた。ときに助け、ときに罰し、ときに喜び、ときに怒り、ときに恋をして、ときに殺した。人は神の加護を得たがったし、人は神の怒りに触れることを恐れた。神も人と関わりたがった。だが、時代とともに、神と人が交わることもなくなった。神は世界を創造し、大きな影響を及ぼしたが、その神を作ったのは、人だった。人が神を忘れれば、神は死ぬ。

「一族も、ずいぶん前に死に絶えちまったしな。おれも随分様変わりしたと思うよ」

いくつか伝承の残る真神は、おそらく当分消えることはない。しかし、この百年足らずの間にも、確実に、彼の姿は変わった。これから先も絶えず変化し続け、ほんの数百年のうちに、今の彼の姿も変わってしまうだろう。一体何が、真の己と言えるのだろうかねと、真神は力なくごちた。

「真の己は、魂でもない。肉体でもない。名でもない。思想でもない。伝承でもない。力でもない。己が、他者の認知の中だけでしか存在できないのであれば、真の己、なんてものは、そもそも存在しないのでしょう。無限の他者が在るのだから。皆が在る、と信ずるから、真の己などという幻想が在る、だけで」

「パラドクスですね」

千代の指摘に、もはや、この世に確かなものなど何もないではないか、と白蔵主がぼやいた。千代の正体を暴くどころか、己の正体すらも靄がかったものになってしまった。誰も気付かぬ不確かを見て動じず、正気を保ち続ける千代が、白蔵主はますます人と思えなくなった。まこと面妖な女。

「千代が人であるというのは、我々の思い込みで、我々が神であることもまた、誰かの思い込みに過ぎない。そして、そう思い込んでいるからこそ、千代は人として生きられるし、我々も神として生きられる、と。皮肉なものだな」

「おう、おれには、何がなにやらさっぱりわからないぞ」

真神が拗ねたように、千代に煮物のおかわりを要求した。もはやこの会話を正しく理解している者は誰も居なかったが、酒の席ではよくあることだった。

「わからなくても、わたしがわたしでなくても、死ぬわけでもないし」

千代は心底どうでもよさそうにそう言うと、新しい小鉢に、先ほどより多めに煮物を盛る。白蔵主は、その適当さが千代の千代たる所以ゆえんかなと呟く。

「少し、神様相手に失礼だったかな」

バチ当てられるのは勘弁と、千代がおどけて肩をすかした。真神も白蔵主も、それを見て少し笑った。時代は変わり、神と人と関わる機会は、とんとなくなってしまった。およそ何百年ぶりに、こうして、人と問答できるというだけで、神としては稀有なことだった。人の世で、千代はどういう認知をされているのだろう。おそらく、我々のそれとさほど相違ないだろうと、二人は思った。人と神、同じ認知を共有しているのだと思うと、なにやら嬉しくなった。

「私も、今ここに在る千代が好きだよ。こうした問答が、お前と、あと五十年しかできないのは、やはり寂しいな」

白蔵主は改めて千代の顔を見る。整った顔立ちをしている訳ではない。少女のような純真さも、瑞々しさも失われていた。生娘でもない。清廉でもない。正直でも、信心深くも、勤勉でもない。酒癖もあまりよくない。小賢しく、おっちょこちょいで、がさつで、間抜けな女だ。だが、よく笑う、優しい女だった。

「そう言ってもらえるうちは、わたしもここに存在しているんだなぁと思いますよ」

千代は笑った。千代はいつも笑っていた。

「な。だからおれと夫婦になれよ。ずっとここにいて、好きなだけ、よくわからん問答でもなんでもして、お前が存在することを証明していいから」

「真神がイヤなら、私の嫁でもよいのですよ」

すっかり酔いが回りはじめると、いつしか三人の話が噛み合うことはなくなった。全ては酒の席の話、本気にするのも野暮だった。酒が飲みたくて酔っているのか、はたまた酔いたいから酒を飲んでいるのか、誰にもわからないし、千代という女は存在するのか、神は存在するのか、宵町とやらは存在するのか、人の世は存在するのか、もはや誰も気にも留めてはいなかった。ただ、そこにいる自分ではない誰かと楽しく酒を飲んだ日があった、というだけの話だった。

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