暇潰し
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暇潰し
この世に生を受けると同時に母が死に、七つの時に治安警察に父を殺された葉少年は、独りごみ溜めの中で、財布と露店の食べ物を盗んで生きていた。十一の誕生日を迎えたある日、とある身なりのいい若い男の財布を頂戴しようとしてヘマをした。
「金が欲しいのか」
そうだと葉少年が答えると、男は少し考えた様子で、わかったと言った。男の名は斎藤といった。それ以上のことは何も教えられなかった。
白い扉には小窓がついていた。小窓を覗くと、小さな白い部屋がある。小さな白いベッドと、小さな白い机が一つ。そこに、小さな白い人影が一人座っていた。
「こんにちは」
優しい声だった。
「リュウの言っていた子だね。名は何というの」
葉少年がそれに答えると、その人は、素敵な名だねと言った。そして、
「はじめまして、葉。わたしの名前は特にないから、君の好きに呼んで頂戴」
と言った。
朝、屋敷の掃除を済ませた後、白い扉の前に立つ。その人に、今日のお加減は如何ですかと尋ね、悪くないよと返事をもらう。その後、その人から話しかけられるのを待つ。昼食をとったら、雑用を済ませて再び扉の前に立ち、何か必要のものはございますかと尋ね、ありがとう、何もないよと返事をもらう。その後、その人から話しかけられるのを待つ。その後、斎藤が扉の前にやってきたら、もしくは夕食の時刻をまわったら、葉少年の一日の仕事が終わる。
なんてふざけた仕事だろうと、葉少年は思った。その人は、天気と、それから今庭に咲いている花の名を尋ねた。雨であること、自分は花に興味がないから何が咲いているかはわからないと葉少年が告げると、
「そっか」
とだけ言い、それから何も喋らなかった。何時間も、何時間も、なんの変化もない白い扉の前で待ち続ける内に、葉少年は苦痛で逃げ出したくなる。それでも、美味しい食事と温かい風呂、綺麗な寝具と安全な時間は、葉少年にとって宝石のようなもので、無意味な苦痛とそれを天秤にかけ、ウンウン唸っている内に、いつの間にか日は暮れて、そうこうしているうちに斎藤が現れ、
「ご苦労」
と言われる。最初の一週間はその繰り返しだった。久しぶりに晴れたある日の朝、葉少年は庭の掃除をしていた。昨晩の内に降った雨が、生垣の紫の花弁に無数に水滴を乗せていて、朝日に晒されてきらきらと輝いていた。葉少年がおそるおそる若葉を指で弾くと、さあっと音をたてて雫が舞い散った。その様子を見ていた庭師のおじさんが、笑いながら、どうだ、綺麗な紫陽花だろう、と言った。
「そうなの。それはさぞかし素敵な光景だろうね」
その人は少し声を弾ませてそう言った。青と、紫、それと白の紫陽花が咲いていたことを葉少年が付け加えると、
「雨の色に染まったからかな」
と言ってくすくす笑った。それだけだったが、葉少年は少し嬉しくなった。次の日は、紫陽花の葉の上にカタツムリがいたこと、その次の日は今日は大雨で庭に出られなかったことを報告した。しばらくすると、月下美人という花の蕾が付き始めたので、それも報告した。そうして、ぽつりぽつりと毎日些細な報告を続けるうちに、梅雨が明けて夏になって、また別の花が咲いた。毎日、熱心に庭に通うものだから、葉少年は庭師のおじさんにすっかり気に入られ、やれこれは何の花だ、どういう特徴で、手入れの仕方はどうだと、聞いてもいないのに教えられた。その人に報告すべきことは日増しに多くなり、花以外の話をすることも増えた。使用人頭が陰険な奴で仲間から嫌われていること、食堂のおばちゃんは怖いけど優しくておやつを分けてくれること、庭師のおじさんが自分を弟子扱いして少し困ること、高そうな花瓶を割ってしまって内緒にしていること、最近始めた勉強が楽しいこと、その中でも特に数学が好きなこと、気になる可愛いメイドがいること、仲間が街で詐欺に引っかかり身ぐるみをはがされて可笑しかったこと、今使用人の間で流行っている遊びで自分が一番強いこと、どんな些細で下らない話をしても、その人は、それで、それでと、楽しそうに聞いていた。苦痛だったはずの無意味な時間は、いつしかあっという間に過ぎ去るようになっていた。その人が自分に興味を持ってくれることがとにかく嬉しく、聞いてほしいことは次から次へと思い浮かび、当初は救世主のようにまだかまだかと待ち焦がれた斎藤の顔も、いつのまにか忌々しいものと変わり、葉少年は、嗚呼、ずっとこの人の側にいたい、ずっとこの人とお喋りに興じていたい、と思うようになった。葉少年はその人が大好きだった。顔も姿も見えないし、手を握ることもできないけれど、優しくて、暖かくて、穏やかで、ちょっと抜けていて、どこか甘い、もし自分の母親が生きていたら、きっとその人みたいだったに違いないと思った。どうしてその人は、この部屋に閉じ込められているのだろう。葉少年は不思議だった。葉少年はその人に、今見頃を迎えている、自分の好きな花を見せてあげたかった。
「病気だからね」
その人は言った。
「人にうつるそれだから、葉にうつしてしまっては大変だから、外には出られないんだよ」
でも、斎藤は部屋に入っているじゃないかと、葉少年が拗ねた口調で言うと、その人は困ったように笑った。
「葉がたくさんお話してくれるから、外に出られなくても、わたしにはその花が目に浮かんでいるよ」
葉少年は納得できなかった。自分の育てた花を見せて、その人に、すごいね、素敵だねと、褒めてもらいたかった。その想いは、日を増すごとに強くなっていった。
「ご苦労」
はっと気が付くと、斎藤の冷たい目が葉少年を見下ろしていた。斎藤は、葉少年の存在を気に留める様子もなく、慣れた手つきで鍵を開け、大きい身体を小さく屈めて扉の中に入っていった。廊下に一人取り残された葉少年は、しばらく迷っていたが、何かを抑えきれなくなって、そーっと、静かに、小窓を覗いた。ベッドに腰掛けるその人の隣に、大きな斎藤の背中が見える。二人のかわす微かな声が聞こえたが、内容までは聞き取れなかった。そうこうしているうちに、小柄なその人を抱き込むような形で、斎藤がベッドに倒れ込んだ。その人は、少しくぐもった声を挙げたあとは、一切抵抗することもなく、斎藤に貪り食われる儘に、力なく横たわっていた。白く細い腕がだらんと投げ出され、床に向かって垂れていた。見てはいけないものを見てしまったような感覚に襲われた葉少年は、咄嗟に小窓から手を放した。カタン、と小さな音が鳴って、斎藤がそれに反応したかそうでないのか、確認する余裕もなく、葉少年は弾かれたように駆け出した。そのまま、自分のベッドに滑り込み、服も脱がず、シーツを頭まですっぽりかぶって、ダラダラと涙を静かに流しながら、体を震わせていた。
それから数日、葉少年は熱を出して寝込んだ。使用人頭のお小言も、仲間やメイドの子が心配して様子を見に来てくれたのも、どこか上の空で、葉少年の頭にあるのは、その人と斎藤のことばかりだった。この家の息子である斎藤は、いつも無表情で感情がなく、使用人たちに恐れられていた。朝早く仕事に出て、帰ってくるのは早い日は夕方、遅いときは次の日の朝だった。何の仕事をしているのか、詳しく知っている者は少なかった。綺麗な若奥様とは、折り合いがあまり良くないようで、会話をしているところを葉少年は一度も見たことがない。いつも一人でいて、近寄り難い、不気味な男だった。葉少年は斎藤が嫌いだった。斎藤が、その人をあんな狭くて小さい部屋に閉じ込めて、独り占めにして、苛めているんだ、と思った。助けなきゃ、と思った。その人を連れて逃げよう、いい病院に連れて行ってあげて、病気を治して、そして、元気になったその人と、本当の親子みたいに、二人で幸せに暮らそう。その人さえいれば、どこででも生きていける。その人のためなら、命だって惜しくない。葉少年はそう思った。
その夜、葉少年はベッドから抜け出した。誰にも気付かれないように、音を立てずに慎重に歩く。メイドの子の話では、斎藤はこの日仕事があって、帰ってこないと連絡があったと言っていた。斎藤の部屋にそっと忍び込み、鍵の在り処を探した。机の引き出し、クロゼットの中、ベッドの下、引っ掻き回して出てきたものは、ある人の膨大な写真の束だった。学生の頃の写真から、キャンプに行ったのであろう写真、誰かと二人で旅行に行った時の写真、そのほかにも、隠し撮りのような日常の写真から、何を撮ったのかすらよくわからないようなぼやけた写真まで、ありとあらゆるある人に関する写真が、山ほど、出てきた。その人だ。葉少年は思った。写真の中のその人は、明るく軽やで瑞々しい、梅雨の紫陽花のような人だった。鍵は、最初に調べた引き出しのその奥の、ベニヤ板で仕切られた秘密の引き出しから出てきた。葉少年は鍵を握りしめ、静かに、そーっと駆け出した。
葉少年が扉を開けると、眠りについていたその人が、驚いた顔で目をしばたたかせた。写真で見たその人に比べ、顔色が一層白く、少し痩せているように見えた。その人は、葉少年が頭の中でずっと思い描いた、その通りの人だった。恋い焦がれ熱に
「どうしたの、葉。眠れないの」
暖かい腕の中で、ずっとこうしていたいと葉少年は思ったが、そうしている時間も無く、逃げよう、僕が一生あなたを守るから、本当の親子になって、一緒に暮らそう、と声にならない声で言った。その人は、戸惑い、沈んだ声で、
「ダメだよ、葉。それはできない」
と答えた。どうして、と声を荒げる葉少年に、わたしは歩けないから、とその人が答えた。その人の足の腱は、斎藤によって潰されていた。葉少年は怒りのあまり、わなわなと体を震わせた。斎藤を殺してやりたい、と思った。葉少年は、ぎゅっと固く唇を噛みしめ、くるりと後ろに向き直り、弱弱しく抵抗するその人を無理やりおぶさり、目は見開き前だけを睨み付け、一つ深く息を吸うと、疾風のごとく部屋を飛び出した。
「葉、戻って。殺されてしまうよ」
葉少年は怒りに燃えていた。信念に殺された父。自分と引き換えに死んだ母。哀れな自分に見向きもしない大人。力任せに殴打してくる露天の店主。蔑んだ目の警察官。斎藤という男。弱く無力なその人。ありとあらゆるすべての人に、葉少年は怒りを覚えた。もはや、怖いものは何もなかった。ただ、その人を救いたいという一心で、葉少年はひた走った。まあるい月が空に浮かんでいた。夏の夜風がさやさやとそよぐ、少し肌寒い、静かな夜だった。葉少年は、その人を負ぶさったまま庭を駆け抜け、紫陽花の生垣を横目に、月下美人の薫りを引き裂き、眠る朝顔から遠ざかり、来月には咲くだろうコスモス畑を無視して、使用人小屋を通過し、密かに裏通りへ出ようとした、その時だった。
葉少年の脇腹が突如、激しい熱をもった。もんどりを打ってその場に倒れこみ、激痛の走る脇腹を抑える。どろりとした嫌な感覚があって、ああ、血が出ているんだと葉少年は思った。葉少年の背から投げ出されたその人は音もなく
「だから言ったのに」
と悲しそうに呟いた。
門の前にある大きな木の下で、銃口を構えた男が立っていた。斎藤だった。
「あなたは、僕に何人の使用人を殺させれば気が済むのですか」
叢に伏す二人に歩み寄った斎藤は、かすかに震えるその人に自分の着ていた上着を着せた。その人は、息の浅い葉少年の体を優しく抱きしめ、頬を撫でながら、今回も、わたしは何もしていないよ、と言った。
「ただ、退屈を紛らわせたかっただけ」
もはや、目も開けられぬ葉少年の額に、その人は優しく口づけをした。葉少年の体の震えが止まり、やがて息が止まった後も、その人は優しくその体を抱き続けた。
「あなたの暇潰しが、何人の有能な部下と、何人のいたいけな少年を殺したか、あなたは知っているくせに」
その人は斎藤の言葉を無視した。次第に白くなっていく葉少年の顔をやさしく撫でながら、
「可哀想な葉、可哀想なリュウ…」
と、愛おしそうに呟いた。
「僕はもうあの頃の僕を殺したくない。お願いだから、暇潰しに、もう他の僕に優しくしないで。僕だけを見て。僕だけを愛してくださいよ」
嫉妬に歪む斎藤の言葉に見向きもしないで、その人は葉少年の衣服を綺麗に整え、傷口を自分の服で優しく拭った。
「わたしはね、君が知っている通り、臆病者だから。毎日同じ部屋で、同じ本を読んで、同じように君に抱かれるのが、ひどく怖いんだよ。ここへ来る前、毎日同じように仕事場へゆき、同じような作業をして、同じような毎日を過ごしている時も、怖かった。学生の頃もそう。毎日同じように学校に通って、毎日君と同じような時を過ごす、それが怖いと思っていた。何度環境が変わっても、古い繰り返しが終わって、また別の繰り返しが始まるだけだと、気付いたのは一体いつ頃だったかな…。ねえリュウ。わたしはそれが、とにかく恐ろしい。だから、わたしは君の元へ攫われることを、
「あなたは疲れているのですよ」
斎藤はそう言って、その人の細い肩を抱いた。屍を前にしたその人が、普段からは想像もつかないほど饒舌になること、斎藤はよく知っていた。
「僕はこんなにもあなたを愛していて、そしてあなたが変わらず側にいること。あなたの恐れる繰り返しが、僕にとっては全てなのです。だからあなたは、何も小難しいことは考えなくてよいのですよ。あなたはただ、明日も同じように、僕の腕の中にいるだけでよいのです。そうすれば、恐怖は悦びに変わるのですから」
「でもねリュウ、わたしにはもう、繰り返しに自分を殺されるか、自分を殺して繰り返しを止めるしか、残されていないんだよ。そして、死したところで、また繰り返しだ。どうして君は、繰り返しを怖くないと言うの?」
「そうしてあなたは、自分の為に、暇潰しの為に、繰り返し繰り返し、僕に僕を殺させるのですね」
怖い人。斎藤は愛おしげに罵った。
「人生は死ぬまでの暇潰しなのだと、確かに誰かは言いました。しかし、それが何だというのです?あなたを愛し、あなたをこの腕に抱いていることが、僕にとって最高の暇潰しなのです。あなたが僕の腕の中から消えたとき、僕の人生は幕を閉じる。僕はあなたの暇潰しのために生きて、あなたの暇潰しのために僕は死にます。それ以上でも、それ以下でもない。なにも不思議なことはありません。それだけなのです。それ以上、何を望むというのですか」
斎藤は、控えていた庭師を呼んで、葉少年の亡骸を運ばせた。そして、その人を抱きしめて、優しく触れるようにキスをした。
「人は何の為に生きるのだろうね?わたしにはわからない。葉がこの世に生まれた意味は、何某かあったのだろうか。わたしが生まれた意味は、リュウが生まれた意味は、何某かあったんだろうか。葉は、わたしの暇潰しに付き合って、死んだ。君は、わたしの暇潰しの為に、生きてる。わたしは、死と繰り返しの恐怖の為に、暇潰しをして、生きてる。わたしたちは、世界に何も影響を与えないし、何かを残すわけでもない。ただ、退屈な繰り返しのために、だらだらと生きながらえているだけだ。意味のない時間を浪費して、自分以外の命を無駄にして、淡々と毎日を過ごしているわたしたちは、一体何の意味があるというの?この無作為な時間の浪費を、暇潰しと呼ばずに何と呼ぶ?そもそも、意味のあることとは、なんだろうね?愛も、友情も、お金も、地位も、名誉も、名声も、人が欲しがる何もかもは、地球にとって、神にとって、本当に意味のあることなのかと考えると、ひどく鬱々とした気持ちになるよ。だってそうだろう、欲しい物を手に入れたところで、繰り返しから抜け出せる訳でもなく、また別の何かを欲しいと思う繰り返しが始まるか、満たされて穏やかでつまらない繰り返しが始まるかだ。科学技術の進歩も、不老不死の研究も、経済活動も、戦争も平和も、誰かを愛することも、ひいて言えばみんな人の暇潰しじゃないか」
憎い人。斎藤は吐き捨てた。
「僕はあなたにとって、暇潰しにすらならないのですね。なんて憎らしいこと」
「リュウの事は愛しているよ」
「暇潰しとして?」
「そうだね、もしかしたら、そうではないかもしれないけど」
「本当に、悪い人ですね、あなたは」
その人は、もう口を開こうとしなかった。斎藤はその人を壊れ物を扱うように優しく、包み込むように抱き上げて、そうして二人は屋敷の中へと音もなく消えていった。
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