第7話 捨てるということ

「お母様が亡くなられました」

受話器から聞こえるそんな言葉に、思わず固まってしまう。

それは別に、母の死を受け入れられない、とかいう感情ではなく、ただ単に「お母様」という単語に対しての免疫のなさのなせる技だった。

「あの、お母様って…」

私には母はいない。

そりゃ私がここに存在する以上は、遺伝子学上の両親というものは存在するのだろうが。

「あなたを出産された、光田由貴子様です」

その名前を聞いたのは、30年ぶりのことだった。


その電話は、これまで全く縁のなかった法律事務所からの電話で、なんでも30年前に私を捨てて家を出て行った母親とされる人間の死に関するあれこれを事務的に伝えるものだった。

私はひどく冷静に、

「その人が亡くなったことと、私がどういう関係があるのでしょう」

と尋ねてみた。

だって何も分からない。30年会わなかった母とされる人間は、私にとっては毎日の通勤で同じ車両に乗り合わせる人よりも遠い。


「遺産相続という言葉をご存じですか?」

私のリアクションを気にするでもなく、電話の相手はごく淡々と話を進める。

妙に感情移入されても困るので、ありがたいと言えばありがたいのだが。

ただ事実だけを語るその声を聞きながら、私はこのどこか現実離れした状況にふわふわした浮遊感を感じるだけだった。


その電話があってから1週間。

結果からいうと、私は何もしなかった。

しなければならない手続きは電話で教えてもらったし、必要書類などは取り寄せた。

ただ、そこから先が進めないのだ。

別になんの感傷があるわけでもない。

私にとってこの件は、見ず知らずの人の死を聞かされた程度の話だ。

それなのになぜ自分がこんなに動けないのか分からない。

普通に仕事して帰ってきて、ご飯を食べて、片付けて寝る。

あの電話のあとも先も、私の日常は変わらない。


なんとなく、彼氏にもその話をすることができなかった。

もう7年も付き合っている相手だ。

隠し事なんて今さらないし、それこそどんなことがあったって、動揺するような関係でもない。

それなのに。

「30年音沙汰のなかった母親っていう名の人が死んだんだって」

そう軽く言ってしまえればよかった。

それでも、なんとなく口に出す前に飲み込んでしまう。

違う、そう思ってしまうのだ。

たったそれだけのことなのに、何かが違う違和感。

それでも事実を伝えるにはその言葉しかないのだ。

だって、それ以外、なんて言えばいい?

「母が死んで哀しいの」

そんなことは思ってもいないし、思ってもないことは言えない。

「お母さん、いつの間に死んでたんだろうね」

そんなことも別に興味はない。

こんなふうにいろいろごちゃごちゃ考えるうちに、私は今の自分の感情に適切な言葉を見つけ出せなくなってしまっていた。


何で今さら。

物心ついた時にはもういなかった母親という存在を、なぜ今になって考えなければならないのか。


このなんとも形容しがたいむなしさに似た気持ちは、この出来事が金銭面の問題を孕んでいるということも大きく影響していた。

プラスの財産もマイナスの財産も受け継いでしまうのが遺産相続で、私にはその権利があるらしい。

別に、財産も借金も受け継ぐつもりはない。

たとえどんなに大金持ちになれるとしても、あの人から受ける恩恵ほど私にとっていらないものはなくて、借金ならそれはもうもってのほかで。


ただ、ひたすらむなしい。


これまで遺伝子のみの繋がりだった母親とされる人間が、金銭という生々しいものをともなって私の目の前に現れた。


結局最後は、金銭面でしか繋がることがなかったんだなあ。


私がひっかかっているのは、ただそんなこと。

愛を期待していたわけでは決してない。

何十年もたってから現れて、「あのときはごめんなさい」なんて言葉でほだされるほど単純でもない。

ただひっそり死んでほしかった。

私の知らない場所で、私とまったく関係のないところで。

なんで無言で関係を迫ってくるんだろう。

一度捨てたくせに、なんで今さら関係を提示してくるんだろう。


答えのない答えを探し、ぐるぐるしている。

もう何もかも捨ててしまいたい。


「最近なんか沈んでんね」

ついに彼氏にも気づかれた。

「んー、うん…」

なんとなくごまかしてしまう。

「別に、言いたくなかったらいいよ。でも、しんどくなる前に言いなよ」

わしゃわしゃと頭を撫でられ、ほんの少し気持ちが軽くなる。

ほんのちょっとなら、このもやもやした思いを吐き出してもいいのかもしれない。

「たとえば、たとえばなんだけどね」

「うん」

「自分を捨てていって、そこからまったく交流のなかった親がいたとして」

自分で言って驚いた。そうか、あの人は私を捨てていったんだ。

「その親が突然、昨日死にました、なんて言われたら、どうする?」

あまりにもつたない質問に、自分でも笑えてくる。

どうする?なんて、馬鹿げた質問だ。

「んー、そうだな…」

やけに真面目に考えてくれるから、どうにも調子が狂う。

冗談だよ、て早く言ってあげないと。

でも、私が口を開くまえに彼が言葉を発した。

「それで?て思うかもね」

あ、私と同じだ。

「今さらなんのためにそんな話されないといけないんだろう、て思うかな」

まさしく今の私だ。

「香穂はどう思ったの?」

まあ、当然私自身に起こったことだってバレバレなわけで。

「同じだったよ。だから何?て思ったし、今も思ってる」

「そうだよね」

「なんかね、相続があるんだって。遺産の」

「うん」

「なんで今さら、お金のことで関係を持ち出されるんだろう。もう私はあの人と一切関わりなんてないのに」

「うん」

「そんなこと思ってたら、なんか動けなくなった」

「そか」

「うん…」

彼はまたぽんぽんと頭を撫でた。

「別にいいじゃん、ぐるぐるして動けなくてもさ」

あくまで軽い感じで話してくれるのがありがたい。

「急にそんないろんなこと聞かされて、混乱しない方がおかしいって」

「…そうなのかな」

「そうだよ。んで、落ち着いたら動いたらいいよ。だって、決めてるんでしょ、放棄するって」

「うん。放棄以外考えられない」

「じゃあいいじゃん。」

そか、いいんんだ。

動けなくて、いいんだ。

「ありがと。なんかまとまった」

「よかった」

彼は心底嬉しそうな表情で私を見ていた。

その顔を見ていたら、悩んでぐるぐるしていたことなんて吹っ飛んでしまう。

うん、なんか明日には動ける気がする。


その次の日。

動けなかった日々が嘘のように、私は相続放棄の手配をてきぱき進めた。

もう、迷わない。

私が大事にしたいのは、今ここで暮らしている私で、彼氏と共に生きている私で、過去の「捨てられた子ども」ではない。

そして、すべての書類を提出したあとで思った。


私は今、初めて母をこの手で捨てたのだ、と。

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