カラスの鳴き声が遠くで聞こえ、さくらちゃんは、はっと目覚めました。

「起きたみたいね。」

 またどこからか女の人の声がします。

 何時ごろなのだろうかと、さくらちゃんは、慌てて庭を見ました。外はまだ明るく、相変わらず暖かい光が部屋を満たしています。今帰れば大丈夫だろう、とさくらちゃんは思いました。

「もう帰ります」

 さくらちゃんは部屋の奥の誰かに声をかけました。

「それは残念だわ。新しいそうめんを茹でておいたのに」

 ちゃぶ台を見ると、麦茶とおそうめんが。麦茶は氷がたっぷり、そうめんはつやつやとしていて、とても美味しそうです。さくらちゃんは、溢れそうになる唾をごくっと飲みました。

「昼寝をしてまたお腹がへったんじゃない?」

 言われてみれば、お腹はぺっこぺこ。喉もすごく乾いています。

「帰る前に、食べていっていいのよ」

 優しい言葉に、さくらちゃんの心は揺れます。というより、一度見てしまったからか、そうめんと麦茶から目が離せないのです。

「でも、もう帰らなきゃ」

 言うはずだった言葉のかわりに、さくらちゃんの口は、「じゃあ、いただきます」と喋っていました。

 一旦口に出してしまうと、もう我慢ができません。さくらちゃんはまたもや麦茶を一思いに飲み干し、そうめんもつるつるっと食べきってしまいました。

「ごちそう……さまで……し…」

 そして食べ終わるやいなや、強烈な眠気に襲われて、さくらちゃんはまたも眠りに落ちたのです。


 チチチチチ……という鳥の鳴き声を聞いて、再びさくらちゃんは目を覚ましました。まだ外は明るいですが、さすがにそろそろおいとましなくてはいけません。

「もう帰ります」

 さくらちゃんはそう言って立ち上がり、廊下へ出ようとしました。

「あら、残念。せっかくそうめんを茹でたのに」

 声につられてちゃぶ台の麦茶とおそうめんを見た瞬間、さくらちゃんの足が止まりました。帰らなきゃ、と頭では分かっているのですが、その一方で、おそうめんを食べなくてはいけない、という気持ちが強く湧いてきます。

「美味しいわよ、そうめん」

 声に誘われるように、さくらちゃんは部屋の中に戻るとちゃぶ台につきました。

「どうぞ、めしあがれ。麦茶も飲んでね」

 さくらちゃんは言われるままに麦茶を飲み干すと、そうめんを平らげ、再び眠ってしまいました。


 帰ろうとする、そうめんを食べる、眠る、という流れを何度繰り返したことでしょう。

 さくらちゃんには、今が何月何日の何時なのか、さっぱり分からなくなりました。おうちに帰りたい、という気持ちもいつの間にか薄れているような。

 またも目が覚めたさくらちゃんはちゃぶ台の麦茶とおそうめんを見ました。

 あれ?

 これまでのように食べたいと思いません。ようやくお家に帰れる、そう思ったさくらちゃんは廊下につながる襖へと小走りしました。

「あら、どうしたの?そうめんは食べないの?」

 声がします。

「もう、いらないの」

 さくらちゃんが襖の引き手に手をかけたその時、うっと喉の奥から何かがこみ上げました。さくらちゃんはあわてて口元を両手で覆います。

「大丈夫かい?」

 声が尋ねます。

 家に帰るためにも大丈夫だと答えたいのは山々ですが、こみ上げてくる何かを止めるのに必死で、さくらちゃんは口を開くことができません。うー、んー、と鼻から声にならない声を漏らすので精一杯です。

 喉の奥から何かが出て来ようとする何かを必死に両手で抑えていると、ふっと何かの力が抜けたような気がしました。それにつられて、さくらちゃんも少し手の力を抜いたその時、手と手の間から、指と指の隙間から、白く細い糸が何本も飛び出してきたのです。

 その勢いは凄まじく、あっというまにさくらちゃんの体を何重にも覆っていきます。さくらちゃんは、言葉を発する間も無く、呼吸もままならないまま、少しずつ、少しずつ、白く閉じられていく世界を眺めているしかできません。

 それからどのくらい経ったのでしょう。

 しゃらしゃらと、布が畳に擦れる音がします。

「いい繭になったじゃないか」

 誰かはそう言うと、さくらちゃんの繭をかるくゆすり、笑ったようでした。

 犬の遠吠えが聞こえます。

 ぐらぐらと揺れる繭の中で、さくらちゃんはお母さんの夢を見ました。それは、どんな熱さも耐えられるくらい、穏やかで、心地の良い夢でありました。

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たぐる まよりば @mayoliver

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