10.5-02 食べ物をあげてみよう
静まり返っていた部屋に、服の擦り合う音が鳴った。
伏せていた睫毛が震える。まぶたがゆっくりと開かれていく。
――しずく。
虚ろな意識のまま、声を出さずに唇だけが動いた。
濃い琥珀をはめ込んだようなオレンジ色の瞳が現れ、目の前のものを映し出す。
「目ぇ覚めたか?」
あったのは……、巨大な魚の顔。
「ピィイイイイイイイイッ!?」
猛禽の甲高い鳴き声が部屋に響いた。
虚ろだった瞳がカッと見開く。鋭利な爪を持った手が、目の前にある異物を払いのけようとする。
そこで気づいたらしい。手首が縄で縛られていて思うように動かせない。足も、翼も、同じように縛られ、起き上がることができない。
「ピィ! ピィイイッ!」
「お、落ち着けや。ワシはミサゴで、お前と同じ鳥や。これはブリで、腹減っとると思うて持ってきてやったんや」
ミサゴが自身の翼を見せて言った。小脇に抱えていた魚を、軍手のついた手で持って差し出す。
活きの良い魚は、ビチビチと尾を振り、パクパクと口を開閉する。
「ピィイイイイイイイイッ!!」
絶叫とともに、縛られた両手でその巨体が払い飛ばされた。
哀れな魚は襖に叩きつけられ、畳の上に落ちてはねる。
「なっ!?」
正月に食べようと、とっておいた大好物だというのに……。
ミサゴは一瞬顔をしかめたが、気を取り直すように姿勢を整えた。
「大きいのが嫌なんか? やったらアジはどうや?」
背後からアジを取り出し、差し出す。
「ピィッ!」
が、先ほどと同じように魚は払い飛ばされた。
「海の魚が嫌なんか? やったら川魚のアユや!」
「ピィッ!」
「ドジョウ!」
「ピィッ!」
次々払いのけられ、襖の下に魚が転がっていく。
「さ、魚は食べんみたいやな……」
ミサゴは片眉をピクピクと動かしながら呟いた。それでも口角はあげて笑みを作り、再び背後へ手をやる。
「それやったら、これはどうや!」
出したのは、パックに入ったサラダチキン。
「正月でスーパーは休みやったからな。コンビニ行って、カラスにガン付けられながら
苦労話を聞かせながら、パックを開ける。
サラダチキンは味付けなしの切れているタイプ。一切れをつまんで差し出した。
「ほら、鳥の肉やったら、食べられるやろ?」
なるだけ優しい声を出し、蒸した鶏肉を口もとへ持っていく。
青年は嫌がるように身を引いた。背中が壁に当たる。肉の端が唇に触れる寸前、その口を大きく開けた。
かぶりついたのは、ミサゴの手のひら。
「ピヨッ!?」
飛び上がり、普段は出さない甲高い地声をあげてしまう。
ミサゴはサラダチキンを放り出して、いったん部屋を撤退した。
「っ~~~」
襖を閉め、廊下に座り込む。右の軍手を外すと、親指の下に歯形があり、
「なんやあいつ、なんで食べんのや……」
理由がわからず、頭を掻きむしる。
顔はやつれ、運んでくる際に担いだが、身体もやせこけていた。腹は空いているはずだ。
ガタッ。
後ろで物音がして、ミサゴは襖を少し開けて部屋を覗き見た。
青年が起き上がろうとして、腕と足に力を入れていた。四つん這いになろうとするが、顔をしかめてバタリと倒れる。
右の足には、包帯が巻かれている。どこかでくじいたのだろう。気を失っている間に、赤く腫れ上がっていたところをミサゴが手当てしたものだ。
青年は何度か起き上がろうとするが、足の痛みと縛る縄のせいで思うように動けない。しまいに肩で息をしながら、倒れ込んでしまう。縄を引きちぎる力も、残っていないようだった。
「ワシが生きた鳥を狩ってくればええんか?」
早くなにか食べさせなければ。そう思い呟いた言葉だったが、ミサゴはひとり頭を振った。
魚を捕るのは得意だ。だが、生きた鳥を、まして同類の鳥を狩るという神経が考えられなかった。
「もう、山に戻して来よか……」
本音がポトリと暗い廊下に落ちた。
その時だった。
トントンッ。
戸の叩く音が聞こえてきたのは、玄関のほうから。
まさか、おばちゃんたちが戻ってきたのか。焦ったが、聞こえてきたのは朗らかな初老の男性の声。
「美砂君? いないのかな……?」
見知った声に、ミサゴはほっと息を吐く。
「なんや、たかさんか」
ミサゴは音のしなくなった背後の部屋を一瞥して立ち上がった。右手に軍手を付け直し、玄関へと向かう。
ミサゴがたかさんと呼ぶ男性は、近所に引っ越してくる予定の人だ。住む空き家を見に来ていた際に知り合い、互いに鳥好きだと知って親しくなった。もちろん、ミサゴが鳥であることは知らない。
「あけましておめでとうございます、たかさん」
玄関の鍵を開け、何事もないように新年の挨拶をする。
「美砂君、留守かと思ったよ。どうしたんだい? その手?」
たかさんは突然戸が開いたのに驚きつつも微笑んだ。しかし、ミサゴの手もとへ視線が移り、心配そうに尋ねる。
ミサゴはしまったと思った。軍手の親指下が、紅色に染まっている。
「なーん……、これは……。ちょっと魚をさばくのに失敗して……。唾つけといたんで、すぐ治りますよ」
しどろもどろに返事をして、右手を背中へ隠す。
「たかさんこそ、正月からこっち来て。また日曜大工ですか?」
たかさんは隠れた手を見つめ、なにか考えているようだったが、顔を上げて頷いた。
「うん。まとまった休みだから早く作業したいところがあってね」
たかさんはDIYも趣味のひとつに持っている。春から住む予定である空き家の内装も、現在作っている途中らしい。ミサゴも何度か手伝いに行っていた。
「精が出ますね。ところで、ワシになんか?」
用があって訪ねてきたはずでは? ミサゴが早々と本題を尋ねる。
たかさんは右手に持っていた紙袋にちらと目をやった。
「美砂君、カモは食べられるかい?」
「カモて、鳥のカモですか?」
「うん。猟師さんにもらったんだ」
ミサゴが不思議そうに首を傾げた。
「リョウシが、カモを?」
「あぁっ、ううん。海の漁師じゃなくて、陸の猟師のことだよ。知り合いに猟師さんがいてね。捕れたのをわけてもらったんだよ。鴨鍋にすれば美味しいんだけど、……?」
そこまで言って、たかさんは目を丸くした。
ミサゴがまるで地獄で仏に会ったように、必死な形相をして詰め寄ってきた。
「ください! 鳥の肉がちょうどほしかったんです!」
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