エピローグ

13-13 止まっていた時が動き出す

 春の日が差す海沿いを、一台の車が走っていく。

 わずかに開けた窓から、まだ寒さの残る風が入ってくる。ほおに新鮮な空気を当てながら、女性が右手側に広がる海をフロントガラス越しに見つめていた。


「いいところだろう?」


 ハンドルを握っている初老の男性が声をかけた。助手席に座る彼女は、男性へゆっくりと顔を向ける。そしてもう一度、フロントガラスの向こうへ視線を移した。


「そういえば、この前そこでトキを見たんだ」


 男性は助手席側にある窓をちらと見て言った。海の反対には、のどかな田園風景が広がっている。雪が溶けて茶色の土が見える田や、しろかきをするため水の張られた田があり、芽吹いたばかりの小さな草花が周りを囲っていた。


「そのトキはね、№465という去年の春から行方がわからなくなっていた個体だったんだ。足環あしわを見て驚いたよ。田んぼの横に車を停めて観察していたけど、怪我けがもなくて元気そうで、それに、興味深そうにこっちへ寄ってきてね。三メートルくらいまで近づいてきたかな。車の中にいたから気づかれていないと思うけど、一瞬目が合った気がしてね。こっちがドキドキしてしまったよ」


 当時の興奮を思い出しながら、男性は笑みを浮かべる。

 隣を窺うと、女性は静かに田園を見つめていた。窓に映る表情は、冷たいものでも悲しいものでもないが、笑顔もなく、ただ、静かだった。


「ゆっくり、休めばいい……」


 男性は前を向き、努めて優しく言葉をかける。

 バックミラーの下で、お守りの家族写真が揺れる。いつも笑顔で明るく、帰省するたびに一緒にバードウォッチングへ出掛けていた。まるでこの町で出会った「あの子」のような彼女の姿が、脳裏をよぎる。


「休学届けは出しておいたから。焦らずに、思い出していけばいいよ……」


 実の娘だというのにどこか他人行儀になってしまうのは、久し振りにそのひとみを見た時、知らない人と会ったように不安げな表情をしていたからだろう。


「見えてきたよ」


 男性は気持ちを切り替え、これからふたりで過ごす我が家へと視線を向けた。


「この町はしずくにとって大切な場所なんだ。そうしずくは言っていた。昔、君はこの辺りで怪我をした鳥を助けたそうでね。それから獣医になりたいと言い出したんだ。怪我をした野生動物を助けられる獣医に。昨年の夏には、救護施設へインターンシップにも行っていたんだよ」


 女性は話を聞きながら、海岸線に見えるこんもりと茂った森へと吸い寄せられるように目を移した。


「引っ越し先をここにしようと勧めてきたのもしずくなんだ。のどかで、人も優しくて、鳥もたくさんいるから、きっと気に入ると思うよ」


 車が左折し、見つめていた森が視界からなくなってしまう。代わりに、花々の植えられた庭と二階建ての家が目に飛び込んできた。

 そして、家の角で遠慮がちに立つ一人の青年を、彼女は見つける。


「彼はご近所さんで、とても頼りになるひとなんだ。年もしずくと同じくらいだから、僕に言いにくいことがあれば相談するといい。きっと力になってくれるよ」


 男性は車を停め、軽く手をあげて青年と挨拶を交わした。


「それと、しずくを知っている子も、彼の家でお世話になっているんだけど……」


 周囲を見回す表情はさきほどと違い、わずかに眉をゆがめている。言葉も曖昧あいまいなまま途切れ、車のドアを開けた。


「待っててくれたのかい? ありがとう、美砂みさ君」

「なーん、勝手に入ってすんませんね、たかさん」

「気にしなくていいよ。ところで、あの子は?」

「あいつは……、どこ行ったか……」


 青年は頭の後ろをいて、肩をすくめた。

 親しげなふたりの会話を聞きながら、彼女も車から降りる。足もとに咲いた花々の香りが潮の風とともに鼻をかすめた。真新しい花壇を見て、穏やかな海を見て、海岸線から突き出た森を見つめる。


「しずく?」


 呼ばれて、振り返る。車の向こう側に立つ彼らのもとへ歩いていき、男性の半歩斜め後ろで止まる。


「美砂君だ。坂をあがったあの家に住んでいるから、なにかあったら相談に行きなさい」


 男性は手のひらを指して紹介する。

 続いて青年に向かって、笑みを浮かべた。


「娘のしずくだ。よろしく頼むよ」


 その言葉を受け、青年は彼女に目を向けた。

 父親である男性よりも背が高く、スラリとしている。淡いグレーのワンピースに、薄紫色のカーディガンを羽織っている。怯えている様子はなく、こちらを見つめる瞳は、大切な友人の眼差しと似ている気がした。

 視線が交わり、そらすように下を向くと、お腹の前で重ねた両手が目に映る。カーディガンの袖口から伸びる右手の甲に、古い傷の跡があった。


「……あいつらから散々、棚にあげるな言われたからな」


 彼の顔に影が差し、だれにも聞こえない声が口の中でつぶやかれた。

 けれどもそれは束の間で、彼はすぐに顔を上げ、微笑を浮かべる。


「はじめまして……。お嬢、さん……」


 ぎこちない挨拶をして、気まずそうに頭を掻く。

 彼女はその様子を、不思議そうに見つめていた。


「しずく!!」


 その時、風を切るような声が聞こえた。


「どけ!」


 裏の林から飛んできたそれは、青年を押し退け、地に足をつける。

 羽ばたいて起きた風が、彼女の髪を揺らす。

 目の前にやってきた別の青年は、着地の勢いのまま、戸惑いなく、否応なく、彼女の胸に飛び込んだ。


「どれだけ……狂わせる気だ!」


 肩に顔を埋め、吐き出された声が震える。

 両腕を背中へ回し、強く、強く、もう離すまいというように抱きしめた。両方の手はこぶしを作り、鋭利な爪先は手の平に押し込まれて服にさえ触れていない。

 突然の出来事に、そばにいる男性陣は目を丸くして口を開けている。抱かれている彼女も固まっている。そんな周囲を無視して、青年は声をつまらせて叫んだ。


「許さんからな……! おれはお前を……絶対に許さんからな!!」


 我に返ったそばのふたりが、慌てて青年を引きがす直前。

 震えるあおい羽が頬をかすめ、彼女はかすかに唇を動かした。

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