6-07 海と、…………バカ

 太陽が燦々さんさんと降り注ぐ下、青い空にはウミネコが一羽、風に乗って飛んでいた。海は穏やかで、砂浜にいて暑くなった身体を冷やしてくれる。腰の下まで海水に浸かり、揺らめく波のリズムを肌で感じた。


「気持ちいいな、ななー?」

「そうだね、カーくん」


 もっと先まで行ってみようかな。そう思っていると、不意に背中から冷たさが伝わる。振り返ると、無数のしずくが舞い上がり、肌へと降り注いだ。


「きゃっ!? カーくん、やめてよっ、冷たいっ」

「ななー? ほらっ、ほぅらっ?」

「もう~っ、お返しするよ。えいっ、えいっ」


 水の中へ手を入れ、空へ持ち上げる。飛び上がった雫が、光に照らされて七色の輝きを放つ。


「ななー、おいー、やめろよー?」

「カーくんが先にやったんでしょ? あっ、待って、逃げないでよ?」

「ほら、ななー? ここまで来いよー?」

「待ってよー、カーくんー?」


 海から上がり、波打ち際を走り出したカーくんを追いかける。砂は柔らかく、時折寄せる波が、足首を濡らしていった。


「ななー? 来いよー?」

「待ってよー? カーくんー?」


 カーくんは時々こちらへ振り返って手を振る。その手に水滴がついているのか、辺りにキラキラとした光の粒が舞った。まるでスローモーションの映画のように、時間が、ゆっくりと、流れていく。


「ななー? 来いよー?」

「待ってよー? カーくんー?」

「ななー? 来いよー?」

「待ってよー? カーくんー?」

「ななー?」

「カーくんー?」

「ななー?」

「カーくんー?」

「ななー?」

「カーくんー?」

「ななー?」

「カーくんー?」

「な……ななぁあああああっ!!」


 バッシャーン!


 と、近くの岩に突飛な波が当たる音で、ハッと我に返る。


「あれ、なにやってるんだろう、わたし……」


 はたと立ち止まって、つぶやいた。

 水着で海水浴なんて生まれて初めてだったから、つい我を忘れて夢中になってしまった。カーくんと一緒に、童心に返って戯れていた気がするけど……。


「なな、最高! 海、最高! 今のオレ、最高だぜぇえええええっ!!」


 少し離れた場所で、カーくんが海に向かって叫び声を上げている。「ヒャッハー!」とか言って翼をバサバサ揺らし、踊り狂っている。

 わたしはその奇行からさっと目をそらして、海を見る。さっきしていたことを改めて思い返して、顔が熱くなっていった。水の掛け合いっこして、追いかけっこして……。これってまるで、海ではしゃぐカップル……。


「なーなっ?」

「きゃっ!?」


 不意に背中から、さえずるような甘い声が聞こえる。と同時に、またカーくんが抱きついてきた。お腹に手を回され、肩にあごを乗せられる。


「カーくん、だからそれ、やめてってば?」

「……」

「カーくん? 聞いてる?」

「…………」

「カー、くん?」


 いつもじゃれるように揺らしてくるのに、カーくんは急に黙りこくった。なにも言わずに、お腹をキュッとさらに抱きしめてくる。横を見ると、目を閉じて、熱を確かめるように肩に顔を埋めるカーくんがいた。


「なな……」


 波音に消えそうなくらいの声で、わたしの名前をささやく。

 なにこれ? なにこれ……? ドキドキと胸の鼓動が、早くなっていく。わたしは状況についていけず、固くなって、カーくんの顔を見ていた。

 カーくんが顔を上げ、ゆっくりと目を開ける。


「な、な……」


 十センチにも満たない距離で、その瞳にわたしを映し、また名前を呼ぶ。ドクンッと、胸が応える。

 海を目の前にして、砂浜の上。辺りは、穏やかに波が押し寄せては引く音が響く。

 そして、後ろでは……。


「ガァー?」

「がぁがぁー」

「ガー? ガーッ!」

「がーがー! がーがー!」


 いつの間にか、たくさんのハシボソガラスの鳴き声がしていた。


「お、お前ら、今いいところなんだから、静かにしやがれっ」


 カーくんがちらと後ろを振り返り、小声でカラスたちに言う。わたしも首を回して後ろへ向くと、砂浜の縁に四羽のハシボソガラスが降りてこっちを見ていた。カーくんの群れのカラスなのかな。


「な、なな!」

「えっ、なに!?」


 突然、こちらへ向き直ったカーくんは、肩をつかんで、わたしの身体を百八十度回した。されるがまま、海を背にカーくんと向き合う。カーくんは肩を掴んだまま、じっとわたしの目を見つめる。


「カー、くん?」

「もう、繁殖期は過ぎちまったけど、でも、そんなのもう、関係ねぇんだ……」


 カーくんのほおが、赤く染まっている。肩を掴む手に、力が入る。

 カーくんの背後では、カラスたちが首を上下左右に動かしながら、こっちを見ていた。


「オレ……、オレは、ななのことが……」

「わたしの、ことが?」

「ななのことが……す……」

「す?」

「す……」


 カーくんの唇が一度閉じる。そして、ゆっくりと開き、次の音が発せられようとした。

 その瞬間。


「なにをしている」


 突然、わたしたちの間に、白い影が現れた。


「うわっ!?」

「きゃっ!?」


 びっくりして、わたしとカーくんはまるで磁石が反発するように離れた。

 って、これ、前にも同じようなことをした記憶が……。


「ト、トキ?」

「な、なんだよテメェ! 邪魔すんじゃねぇ!」


 やってきたトキが、身体中についた砂を払いながら、半目になってカーくんをにらむ。心なしか顔が赤いのは、また照れているのか、それとも日に焼けてしまったのか。


「危うく蒸し焼きになるところだった」

「なればいいじゃねぇか? 美味しくいただいてやるよ。つーか、どうやって出てきたんだよ!」


 カーくんは口をとがらせながら、トキに言う。

 トキは砂を落とすと、なぜかわたしをちらと見て、すぐに目をそらし、また胸を隠すように自分の身体を抱いた。


「サギたちが来て、助けてくれた」


 そう言って顔を向けた先は、カラスたちがいる場所。そこにアオサギと、ダイサキ、チュウサギ、コサギが降り立った。田んぼでよく、トキと一緒に食べ物を探しているサギたちだ。

 たむろっていたカラスたちがわめきだし、小競り合いが始まる。


「ガー? ガーガーガッ!」

「ギャッ! ギャーギャー!」

「がーがー! がーがー!」

「グワァ! グワワァーッ!!」

「ガァ!? ガァ……ガァーガァー!」


 よくわからないけど、サギ勢とカラス勢で睨み合って騒いでいる。


「さぁ、カラス。今度こそ、オレの服を返せ!」

「邪魔しといて、よく言うぜ! もう一回砂に埋めてやろうか!」


 そしてこちらでも、トキとカーくんがいがみ合って、また言い合いを始めた。


「ストップ、ストップ、だからケンカしないで? トキも来たんだし、みんなで一緒に遊ぼうよ? ね?」


 わたしはそう言って、二羽をなだめようとした。さっきだって、カーくんと一緒に遊んで楽しかった。トキも加われば、きっと、もっと楽しくなるはず。

 けど、二羽はまゆをしかめて、フンッとそっぽを向く。

 

「なぜ俺がこんな姿で……」

「なんでオレがこんなヤツと……」

「そんなこと言わないで……。ねぇトキ? わたしだって、この水着、最初は恥ずかしかったですけど、遊んでいたら気にならなくなってきましたよ?」


 まずはトキを説得しようと、自分の気持ちを素直に言う。

 最初こそ、派手で自分が着るものじゃないと思っていた。けど、着ているうちに慣れてきて、今はあんまり気にならない。トキだって普通の海パンなんだから、すぐに慣れるはず。

 トキは横目でわたしの姿を見て、口を開く。


「……そもそも、なぜ、ななだけ上もけているんだ?」

「……へ?」


 突然の質問に、豆鉄砲を食ったように固まってしまう。トキはわたしの上の服を注視して、首を傾げる。


「そういえば普段も、服の下に同じような物を着けているな? 意味があるのか?」


 すると横から、トキを見下すように、カーくんが口を開いた。


「はぁ? なんだ、テメェ、そんなこともわかんねぇのか?」


 そう言って、わたしの顔よりも下へ視線をやる。

 そして、鼻高々に、のたまった。


「ヒトのメスは、胸筋が鍛えられてんだよ」

「胸筋? 鳩胸はとむねということか?」

「そういうことだ。だから、それを支えるために、専用の服を着けてんだ」

「ほう。だが、ななは支えるほどの大きさではないと思うが」

「これから鍛えて大きくなんだよ! そうだろ、なな? バイト先の店長みたいにでっかい、」


 パシィッ! バシィッ!!


 乾いた音が、青い空に響いた。

 近くにいたサギとカラスたちが、一斉に飛び立っていった。

 そして、トキが右側へ、カーくんが左側へ、それぞれ傾き、砂に埋もれる。


「…………バカ」


 当たり前のことだけど、鳥を始め、動物にも人にも、暴力を振るってはいけない。

 けど。それでも……。

 この時わたしは、初めて、鳥をぶってしまった。


「うぅっ……、な、なな……?」

「いって……、急に、な、なんで……?」


 トキは自身の右頬を、カーくんは左頬を赤くしながら、涙目でわたしを見上げる。


「なんでもかんでもないっ! トキのバカ! カーくんのバカ! バカバカバカッ! もう知らないっ!!」


 わたしはありたっけの感情をぶつけて、二羽に背を向けた。思いっきり平手打ちをした両手が、今になってヒリヒリと痛む。その手で、ちょっと上の水着を触って、離して、早足に歩き出す。


 ヒトと鳥はわかり合えない。ていうか、哺乳ほにゅう類と鳥類はわかり合えない。そう思った瞬間だった。

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