1-06 忘れ物は何処へ
お昼も大幅に過ぎた頃、わたしはふらふらな足取りで家に帰ってきた。
両手には大量のお菓子やら野菜やら手作り漬け物やらが入ったビニール袋。
「うぅ……疲れた……」
ちょっとだけ、ごみ拾いをして花壇に花を植えればいいと思っていたのに。まさかあんなことになるなんて……。おじいさんおばあさんたちの集団に、一人の女子高生は
「ただいまー」
そういえば、トキはおとなしくしているかな。玄関の
ピチャッ。
なぜか、足もとから水が跳ねる音がした。
「え……?」
下を見ると、そこにあったのは水たまり。
いや、玄関の中が水浸しになっている。
「な、なにこれ!?」
さらにその水は廊下から流れてきていた。
慌てて靴を脱ぎ、靴下も脱いで、家に上がる。
上がってすぐ廊下を右手に曲がる。すると、そこには。
「帰ってきたか」
「ト……トキ!?」
デッキブラシを片手に持ったトキが立っていた。
「な、なに、してるんですか……?」
声を震わせながら
トキの足下にホースの先が見え、そこから水がどばどばと流れ出ている。
「掃除だ。朝、できなかったからな。あの機械は使いたくないが、この方法なら俺にもできるか、ら?」
わたしはトキの話を途中で切り上げ、ホースの出所へダッシュする。台所を抜け、裏口へ。裏庭の蛇口にホースは
わたしは蛇口を
「違うのか? 俺が今まで見ていたヒトは、いつもこうやって掃除をして……」
裏口から顔を出したトキが、戸惑いながら訊いてくる。
「見ていた人って、どこの人ですか?」
「俺が前にいた、施設の中で……」
施設って、保護施設のことかな。って、それはきっと、トキの飼育ケージの掃除でしょ! 屋外の掃除でしょ!
わたしは頭を抱えた。言葉に
と、とにかく、今は……。
「トキ、ごめんなさい。部屋に入ってて」
この惨状をなんとかしないと。
*
田浜家浸水事件は、わたしの体力と大量のタオルを犠牲に収束をみせていった。被害が大きかったのはフローリングの台所や廊下で、畳部屋ではなかったのが不幸中の幸いか。けれども戸の
「ま、マジで……、つ……疲れた……」
気付けば外はすっかり暗くなっていた。
わたしは夕ご飯をカップ麺と漬け物で済ませ、自室の机の上に伏せっていた。
「この体力と気力で、勉強は、キツい……」
正直、もうお
双眼鏡、じゃなくて。保護者懇談会のお知らせ、でもなくて。健康診断の結果、でもでもなくて……。英語の教科書は……あれ?
「あれ? ない……、英語の教科書、それにノートも!?」
鞄を
「学校に、置いてきた? あっ、教室の机の中に入れっぱなしだったんだ……」
肩を落とし、大きなため息が漏れる。なんでもっと早く気付かなかったんだろう。
「どうしよう。英語一限目からなのに……。もう、最悪……」
今から取りに行くなんてできない。明日、朝早く起きて学校に行くしかないかな。
でも、そうだ……。家にいるトキは、どうしよう……。
「――い、……おい?」
「きゃあっ!?」
突然後ろから声が聞こえ、振り返る。
トキが背後に立っていた。
「な、なに!? 勝手に入ってこないでください!」
イライラしていたせいか、思ったよりもきつい声が出てしまう。
トキが一瞬
「何度か呼びかけはした。それより、風呂を入れたんだ」
「お風呂?」
そういえば、入りたいと思っていたけどまだ沸かしていなかった。
トキがこくりと
「あぁ。お前たちも、毎日水浴びをするんだろう?」
……水浴び?
悪い予感が頭をよぎる。
わたしは立ち上がり、急いで階段を降りる。お風呂場へ行く。
戸を開け、浴槽に溜まった液体に手を突っ込んだ。
「冷たっ……」
予感通り、水風呂だった。
「違う、のか……?」
トキが脱衣所に来て、わたしの顔を
もう、限界だった。今日一日、トキのせいで面倒なことばっかり。なんで……、なんでわたしが、こんな目に遭わないといけないの!
「こんな冷たい水、入れるわけないじゃない……」
自分の中の、なにかが切れた。
「もう、いい加減にしてっ! 恩を返すって家に上がり込んで、全然役に立ってないじゃない! あげくに迷惑なことばっかりして! 大体わたしは、あなたに恩返ししてほしくて助けたわけじゃないんだから!」
言葉が濁流のように口を
身体が熱くなる。胸がムカムカする。
目頭が熱くなって視界がぼやけた。それを見られたくなくて、
「俺は……」
トキが小さく
でも、どうしても、その顔を見上げることができなかった。
先の言葉が出る前に、わたしは口を開く。
「出てって……」
もうこれ以上、トキと話したくない。
「シャワー浴びるから、
わたしはトキを脱衣所から押しだし、戸を閉めて、鍵を掛けた。
*
シャワーを頭から被りながら、ため息が漏れる。
このまま全部、お湯に流されてしまえばいいのに。
身体にこもった熱も、ムカムカする胸の痛みも、まとまらない思考も。
それに、さっきの言葉も……。
「あーっ、もう、わたしは悪くないのに! 悪いのはっ……、悪いの、は……」
シャワーを止めて、目を移す。
浴槽に張られた水。その中に、手を入れた。
ひんやりとした温度が手に伝わり、火照った身体に心地よかった。
「ちょっと、言い過ぎた、よね……」
トキは悪気があってやったんじゃないんだよね。
それなのにわたしは、ひどい言葉をぶつけてしまった。
だから少なくともそのことは、ちゃんと謝ろう。
「もう、だからなんで、恩返しされるわたしのほうが、気を遣わなくちゃいけないの」
独り言をぼやきながら、わたしは浴室を出た。
身体を
戸は閉まっていて、中はしんと静まりかえっている。
「トキ、ちょっといいですか?」
トントンと戸を
落ち込んでいるのかな。それとも怒っているのかな。
「あの、さっきは、あんな言い方してごめんなさい。わたし、ちょっと気が立ってて……、トキ?」
戸の向こう側から、物音はなにも聞こえない。
不思議に思って、わたしは引き手に手を伸ばした。
「あの、
念を押し押し、そっと戸を引く。
その先には。
「……えっ」
だれもいなかった。
「ト、トキ!?」
わたしは慌てて家中を探した。居間も、仏間も、台所も、裏庭も、二階の部屋も……。家中の部屋を開けて、名前を呼ぶ。
けれども、どこにもトキの姿が、ない。
「まさか……」
嫌な予感が頭をかすめる。
双眼鏡を手に、わたしは玄関を開け、家を飛び出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます