第6話 恵美ちゃん
2年3組にはふたりの波多野がいた。波多野由美と波多野恵美。名前まで似通っているから、文字にすると紛らわしいが、実際にはふたりは対照的に違っていた。小柄で落ち着きがなく、何ごとにも口を挟まないと気が済まないタイプの由美に対して、恵美ちゃんは中肉中背。物静かで、名前の通り笑みを絶やさず、頬の小さなえくぼが印象的な子だった。そのためかどうか知らないが、由美のことはみんな由美と呼び捨てにしたのに、恵美ちゃんのことはみんなちゃん付けで呼んだ。クラスの誰もがそうするのが当たり前のように、ふたりをそう呼び分けた。
ところが不思議なことにふたりの波多野は仲良しだった。別に親戚でも何でもないと言っていたが、家は比較的近いところにあるようだったし、昔々を辿ればご先祖が兄弟姉妹なんてことがあるかもね~などと言っていた。
ある日、放課後の帰り支度をしているところに由美がなぞかけのような話をしてきた。
「神原クンさぁ、恵美ちゃんのことが好きでしょ?」
いきなり前触れもなく、そんなことを話しかけてきた。恵美ちゃんのことは嫌いじゃないけど、特に意識したこともなかったし、そんな話をしたことも記憶になかったから、ボクは否定した。
「別になんでもないけど?」
「じゃあ、まだクロちゃんのことが好きだとか?」
そう言えば、1年生になったばかりの頃、違う小学校からやってきた黒石という、色白で成績がバツグンに良かった子が好きだと言っていた時期があった。
「好きっていうか、まぁ、なんていうか……」
だいぶ前のこととはいえ、彼女のことが好きだと公言したこともあったし、その後、クラスは別々になって彼女のことなど思い出すことはほとんどなかったけど、でも嫌いになったわけでもないから、どう答えたらいいものかわからず、ボクは曖昧な答えをしてしまった。すると由美が断定的な口調で言った。
「クロちゃんは好きでも何でもないらしいよ」
大きなお世話だ。別に今頃になってそんな話を蒸し返されても、ボクはもうとっくに相手にされていないものと思っているのだからそっとしておいてくれればいいのにと、少し由美の無神経さが腹立たしかった。それで相手しないでいると、由美が重ねて言った。
「ねぇ、神原クンさ、恵美ちゃんのこと好きでしょ?」
だから何度同じことを言わせるんだと思って、ボクは由美を無視して教室を出た。
1年生の頃と違って、2年生になると男子も俄然色気づく。誰かと誰かが付き合ってるという話がヒソヒソ語られることもしょっちゅうだ。ただ、照れくささもあって、そのほとんどの組み合わせを笑いものにして楽しむのだが、心ひそかにガールフレンドができないものかと大半のガキどもが思っている。
そんな毬栗頭で、何を色気づいてるんだと笑いたくなるかもしれないが、結構本気で願っていて、万一ガールフレンドができたら、この毬栗頭は先生に叱られない程度には伸ばそうかとか考えたりしている。相変わらずエッチなことの対象はエロ本の中のお姉さんにお願いするとしても、できれば同級生あたりとキスくらいはしたい、可能であれば、服の上からでいいから、おっぱい触ってみたい、くらいな事は願っている。そういう年頃になってきているのだった。
そんな異性への思慕が頭を占める時期だったので、自宅までの3キロの道のりを歩くあいだ、ボクは由美の言葉を無視できず、何度も反芻していた。
「…… 恵美ちゃんのことが好きでしょ?」
「…… クロちゃんが好きなの?」
「…… クロちゃんは好きでも何でもないらしいよ」
「…… 恵美ちゃんのことが好きでしょ?」
由美はボクに恵美ちゃんとクロちゃんの呪文をかけてしまったようだった。その夜、ボクは恵美ちゃんとクロちゃんの顔を思い出しながら、なかなか寝付けなかった。
だが、断っておくが、ボクの得意科目は数学だ。連立方程式などおちゃのこさいさいだ。文字式の計算など間違えたことがない。この場合、ボクと恵美ちゃんとクロちゃんの関係式を整理すると、ある一定の答えが導き出されることを、ボクはちゃんと理解していた。
ボクはクロちゃんが好きだ。
クロちゃんはボクが好きではない。
だから、ボクがクロちゃんを好きなことは意味がない。
ボクが恵美ちゃんを好きだと仮定する。
恵美ちゃんがボクを好きかどうかは知らない。
でもボクが恵美ちゃんを好きなら意味がある。
なぜなら恵美ちゃんがボクを好きだから。
由美は結局こういうことが言いたいんだろうという結論に達した。それしかこの謎解きのような問答は意味をなさない。
それに気づいた瞬間から、ボクは恵美ちゃんのことがやけに気になり始めた。
恵美ちゃんは目立たないけど優しい子だった。
ボクは2学期の検診で原因不明の内臓疾患が疑われると医者に言われ、1週間の安静と精密検査を通告された。聞いたこともない内臓が肥大していると言われても、日常生活に支障もなければ、体調に変化もない。どうせ有名な藪医者の言っていることだから相手にするのもバカバカしいと思ったものの、ひとつだけ渡りに船的な好都合もあった。
(これで部活を辞められる)
実を言うと、ボクはバスケットボールがつまらなくて仕方なかった。消去法で選んだ部活だけにやる気も出ないし、毎日ダッシュとインターバルの繰り返しに辟易していた。だから、安静にしなきゃならないほどの病気だということにして、この際、部活なんて辞めてしまおう、そう考えたのだ。
「では、一応休部ということで、いつでも練習を見学してくれ」
顧問はそう言ったが、ボクはまったく興味を失くしており、その日以来、コートに近づくこともなくなった。清々してた。
そんな時、恵美ちゃんがボクの席へやってきた。
「神原クン…… からだ、大丈夫なの?」
それは見るからに心配そうな顔で、ひょっとすると泣き出してしまうんじゃないかというくらいの顔だった。ボクは部活もできない重病の恐れありと言ってしまった以上、全然平気なんて言えるわけもなく、ちょっと元気なさそうに
「…… うん。たぶん大丈夫。おとなしくしてれば治るよ」
そう言いながら、ここらで咳き込んだ方がいいのかななとど考えていた。
すると、恵美ちゃんはますます心配そうな顔になって、言葉を失くしたようだった。
「…… これね、このあいだ八幡様に行った時に買ったの。持っててくれる?」
彼女が差し出したのは、淡いブルーのお守りだった。
「いいの?」
無神論者のボクがお守りの効能など俄かに信じるわけはないが、他ならぬ恵美ちゃんからのプレゼントだし、結構綺麗な色使いだったから、ボクは素直に喜んだ。
「うん…… こっちは私の……」
そう言って、彼女は淡いピンク色のお守りを見せてくれた。
ボクは恵美ちゃんがガールフレンドになった気になった。別に、付き合おうよ、なんてこと言わなくても、由美の話からすると、恵美ちゃんがボクを好きなことはわかっているんだし、ボクも恵美ちゃんが決して嫌いじゃない。まして、病気のボクを心配して、お揃いのお守りももらってくれたほどだから、きっとボクが言わなくても、彼女はガールフレンドになってくれているつもりに違いないと思った。
だけど、ガールフレンドになったら、何をすればいいんだろう?
ボクにはその次のことがまだよくわかっていなかった。というより、ガールフレンドだと思えばそれで十分だったような気がする。万一、誰かにガールフレンドはいるの? と質問されたら、ああ、いるよ、と答える資格を得た、それで十分だった。
そう言えば、付き合っていると言われている連中は何をしているんだろうか?
ボクはそういうことが気になった。ガールフレンドとは何をすればいいんだろう? デート? デートはどこに行けばいいんだろう? 遊園地? 公園?
あれこれ考えてみるけど、イマイチぴんとこない。子供じゃあるまいし、遊園地で乗り物に乗ったところで楽しそうでもなんでもない。公園でベンチに座っているのはじいさんとばあさんだ。ボートは漕げない。
う~ん…… なにをすればいいんだ?
困った挙句、ボクは直接恵美ちゃんに訊いてみることにした。
「恵美ちゃん、今度の日曜日は何か予定ある?」
「部活だけど、他には特に予定ないよ」
「そう。じゃあどこかで一緒に遊ぶ?」
「ダメだよ。神原クンは安静にしてなきゃダメだよ」
「…… 少しくらいは平気なんだけどね」
なんてもんじゃない。ボクはピンピンしてる。むしろ、部活もやめて、エネルギーは溜まりすぎてるかも……
「ダメよ。うちのお母さんね、看護婦さんなんだよ。お母さんが言ってたよ、入院しなくていいのかしらって。大丈夫なの? 学校来てていいの?」
そろそろ体育の見学も飽きてきて、来週あたりからは体育の授業も普通通り参加しようと思っている矢先だったから、彼女の心配は意外だし大袈裟だった。
「平気だと思うけどな……」
「嫌だよ! 神原クンが死んじゃったら……」
どうも話が大袈裟だ。ボクは死んじゃうの? どうもデートどころではなくなった。
「大丈夫だよ、恵美ちゃんがお守りくれたし……」
「うん、待っててね。私、高校卒業したら看護学校に行って、神原クンの看病してあげるからっ!」
「…… それまで持つかな……」
もちろん、命がではない。ボクの嘘がそれまでバレずに持つかどうかだ……
「神原クン! 病は気からなのよ! お母さんがいつも言ってるのよ、看護婦さんは患者さんを励まさなきゃいけないって!」
「…… うん」
どうもおかしい。なんか変だ……
翌日、ボクは由美を問いただした。
「おい由美、この間の質問って何だったんだ?」
「ん? 何か言ったっけ?」
おいおいおいおい、そりゃないだろ? ボクは質問を続けるかどうか悩んだ。すると、由美がボクの代わりに質問してきた。
「ねぇ、神原クンさぁ、あっちゃんのことが好きでしょ?」
「…… お前ねぇ」
「ひょっとして、未だにクロちゃんのことが好きだとか?」
「クロちゃんはオレのことなんか好きでも何でもないんだろ!」
「アハハハ、わかってんだ」
「お前が教えてくれたんじゃんかよ!」
「あれ? そうだっけ?」
「ふざけんなよ! お前何がしたいんだよ!」
「だってさぁ、気になるじゃん。誰と誰が好き同士なのかなぁ~って」
「…… まさか、お前思い付きでそんなこと言ってんの?」
「アハハ、思い付きってわけでもないけど、なんか予感?」
あまりのことにボクは言葉も出なかった。完全に由美にからかわれてる……
「ついでだから聞くけどさ、恵美ちゃんってどんな子なの?」
「いい子だよ。ちょっとおばちゃんっぽいけど」
「オレのことなんか言ってた?」
「ん? 特には聞いたことないけど。病気で可哀そうって言ってたかな。お守りもらったんじゃないの?」
「…… もらったけど」
「可哀そうだね、って言って買ってたもん。一緒に八幡様のお祭りに行った時、お守り買ったんだけど、ついでに買ってあげようって言ってたよ。これの色違いでしょ?」
由美が差し出したのは淡いピンク色のお守りだった。明らかに恵美ちゃんとお揃いだった。
「そう言えば、神原クンが入院したらお見舞いに行こうねって約束したんだった。神原クン、いつ入院するの?」
「…… 」
「入院したら教えてね。恵美ちゃんと喜んでお見舞いに行くからね!」
「…… 」
その翌週から、ボクは体育の授業で3週間ぶりに大暴れしてやった。
それからというもの、恵美ちゃんが話しかけてくることは二度となかった。
空には青空が広がっている。今は一瞬、雲が太陽を遮っているけど、きっとすぐに晴れ上がるはず……
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