第5話 あさみ
バシッ!
「痛えな! 何すんだよ、ブス!」
「前向いてなよ! 授業中だよ」
「…… なんだよ、人叩いておいて…… わけわからんぜ」
「さっきのお返しだよ。あんたがムカつくこと言うから」
「なに言ってんの? お前バカだろ?」
「あ~~~、また言った! またバカって言った」
「バカにバカって言って何が悪いんだよ、このブスのバカ、アハハハ」
バシッ! バシッ!
「なっ、なにすんだよ!」
「ブスって言った分とバカって言った分!」
「お前、頭おかしいんじゃねーの?」
「おかしいのはあんたですぅ~、あんたは頭も顔もおかしいですぅ~」
「なんだと!!」
バシッ!
「前を向け! バカ」
教師の堀田に頭をはたかれて、ボクはしぶしぶ前を向く。後ろであさみがクスクス笑ってる。その横で阪田も一緒になって笑ってる。横の橋村は呆れた顔して教科書の問題を解き始める。
1年5組の窓際の最後列で毎朝のように繰り返されるボクとあさみの恒例行事だ。
山里あさみ。一緒の小学校だったはずだが、印象がほとんどない。同じクラスになることが一度もなかったし、中学校になって初めて同じクラスになったものの、一学期の間は席も離れていたから、ボクは彼女のことはほとんど何も知らない。
印象はただの「デカい女」。あと、光の具合で髪の毛が赤く見える瞬間があったことから、ひょっとして外国人? その程度の認識だった。
その彼女と二学期の席替えで席が前後に並んだ。ボクの後ろが彼女の席になったが、ボクは校庭側の窓際の席になったことに満足して、彼女が後ろだろうが、真面目人間の橋村が隣だろうが、一向構わなかった。校庭を眺めていればいいや、ただそれだけで快適な二学期になるはずだった。
最初に話しかけてきたのはあさみの方からだった。
「ねぇ、消しゴム、ふたつ持ってない?」
後ろからボクの脇腹をツンツン鉛筆で突いてくる。とても人に物を頼む感じじゃなかったし、それまであまり口をきいたことのない相手だったから、ボクも無愛想に答えた。
「ねえよ」
すると、あさみは隣の阪田とバカにしたような笑い声をあげる。
「ねえよ、だって、アハハハ、普通にないよでいいじゃんね」
ボクもバカだから相手にしてしまう。
「すいませんね。持ってません。これでよろしいですか?」
「ん? ダメだよ」
「ダメってなんだよ!」
「あんたの消しゴム半分ちょうだいよ」
「はぁ? なんですと? 良く聴こえなかったんですけど?」
「半分よこせ! って言ってるんですけど」
「…… なんでじゃ、ボケ!」
「うわっ…… ケチくせー男!」
二学期だから彼女を普通のクラスメイト程度には知っている。しかし、偶然席が前後になっただけの相手に、なぜこんなに絡まれるんだろう? その心当たりもないし、なんでだと思いつつ、ボクは短くなった消しゴム付き鉛筆を投げて渡した。
「ほら! これで我慢しろ!」
「うわっ~~~、ホントにケチ臭い、これだよ、これ! アハハハハ」
彼女はボクの投げ渡した鉛筆を指で挟むと、これ見よがしに阪田に渡した。
「いいよ、これで。一日分にはなるよ」
阪田が鉛筆を受け取りながらあさみに言っている。
「なんだ、阪田が忘れてきたのか。それならちゃんと貸してやればよかったな、アハハハハ」
あさみに対する皮肉のつもりで言ってやった。特に阪田にも興味はなかったが、あさみのいきなりの態度にムカついたのだ。
「なに、それ。差別?」
「ん? 区別。いい人とそうでもない人の区別、アハハハハ」
バシッ!
「痛えな! 何すんだよ、ブス!」
「前向いてなよ! 授業中だよ」
こんなふうにして毎朝の恒例行事が始まったのだった。何かと絡んでくるあさみは、よく見るとぱっちりした瞳がキラキラしていて、可愛い感じの子だった。その外見から受けるイメージもさることながら、どちらかといえば自分からは女子に話しかけられないボクには、ちょっかいを出してくる彼女のようなタイプの方が楽だった。
中学1年生の男子はたぶんまだ子供だ。身体の変化と、女性に対する憧憬が芽生える時期であったとしても、間違いなく子供だ。事実、エッチなことは目の前の同級生に向けられるわけではなく、それはエロ本として世に氾濫する様々な女体に向けられるもので、その艶めかしい姿が現実の同級生にも同じように生じると想像できている男子は少ない。
一方で、中学1年生の女子はたぶん相当に大人だ。身体の変化の時期を終え、男性への憧憬が現実具体的に芽生える時期かもしれない。女子の興味は恋愛であるから、空想の中に止まるより同級生を含めた現実の男性をその対象にし始めているような気がする。
つまり、中学1年生は男子と女子では、目の前に起こっている現象を捉える目線が全然異なるのだ。
ボクにとって、あさみは単にじゃれあう相手でしかない。気を使わなくてもいい、好き勝手に何を言い放ってもかまわない相手だった。だから、毎朝のじゃれあいが恒例化すると、ボクはどんどんエスカレートしたし、ふざけているのだから面白くもある。
「おい、白ブタ、シャーペンの芯、くれよ!」
「あんたなんかにやるわけないだろ!」
「いいじゃんか、減るもんじゃなし!」
「バカ、減るもんだよ!」
などと言いながら芯をくれたりするから、ボクとしては調子に乗りやすい。いつの間にか授業の合間の短い休憩時間はボクが後ろを向いて、あさみとくだらな~い言い争いをしているというのがお決まりになっていた。
とにかく、ふたりとも相手に遠慮がなかった。どっちが相手を口汚く罵れるか、それを競っているような気がした。だから、相手の外見だろうが、趣味嗜好だろうが、目につくことはすべて言葉にして投げかけた。
「あんた、気取った音楽聴いてるんだって? 似合わないからやめときな、アハハハハ」
「関係ねーだろ! お前には絶対わからんだろうなぁ。 お前演歌でも聴いてるんだろ? アハハハ、今どき演歌だってよ! いないってそんな中学生!」
「バッカじゃないの? 英語の意味もわかんないくせに、アハハハハ」
「いいじゃんか、別に意味わかんなくても」
「え~~~~っ、あんた意味も分かんないの聴いて面白いの? やっぱ変人だよ、変態! キャ~~~、変態! あっちいけ、シッシッ!」
「行けません、ここが席だから行けません! 行きたくても行けませ~ん、お前がどっか行け!」
「あんた…… 後ろにハゲがある……」
「うそ! どこ?」
「は~~~~~、騙された! バカ丸出し! アハハハハハ」
万事がこんな感じだ。
これを毎朝繰り広げる。今は休憩時間も繰り広げる。どんどんエスカレートして最近では声も大きくなった。周囲は知らん顔だ。こんなふたりに巻き込まれたら災難だと思うのか、真面目な橋村なんか、絶対に加わってこない。最初のうちこそあさみに加勢していた阪田も、最近では無視している。ボクは周囲の冷たい視線にも気づかず、このくだらない言い争いがどこか楽しくなっていて、休憩時間になると後ろを向いて喋るのが当たり前になっていた。
ボクはバスケットボール部に入っていた。本当は野球部に入りたかったのだが、不良の集まりだと脅されて、仕方なくバスケットボール部を選んだのだが、ちっとも面白くない。早く練習が終わらないかな~などと思ってる部員だから、練習が終わると一目散に教室に戻る。
あさみはテニス部だった。どうやら彼女もほぼ幽霊部員化しているらしく、ラケットはただのファッションアイテム化していた。
部活から戻ると、必ずと言っていいほどあさみが席に座っていた。同じ幽霊部員の阪田とくっちゃべってる。そこにボクが戻ると、休憩時間の続きのような言い争いが当然のように始まり、そうすると阪田は呆れた顔をして先に帰るというのがお決まりになっていった。
阪田が帰るとボクとあさみも帰り支度を始めるのだが、いつの頃からか、途中の歩道橋のあたりまで一緒に帰るようになった。クラスで席を並べている時とまったく変わり映えのしない、半ば罵りあいをずっと繰り返しているのだが、なぜかボクもあさみもそうやって話すのが当たり前になってしまっていて、普通の会話がどんなものか思い出せないくらいだった。
ある日、あさみが学校を休んだ。急に静かになった。後ろを振り向いても誰もいないから、ボクはなんだかつまんない感じになった。
だけど、ボクにとっては単にふざけあってじゃれあうだけの遊び相手がいないだけだから、少し物足りないけど、これまでと同じ一日のように思われた。窓の外を眺めると上級生のクラスがサッカーの試合を始めた。上空にはひこうき雲が西に向かって一直線に延びている。
「あさみがいないと元気ないな」
橋村が意味ありげに声をかけてくる。教師が教室に入ってくるまでの時間は、休憩でもなく授業でもなく、生徒は席について待っているのだが、あちらこちらで私語が止まない。
「別に。関係ねーよ」
「そうか? おとなしいよ、全然」
「ホント、神原ってわかりやす~い」
阪田までが意味ありげに話しかけてくる。
「関係ねーよ」
ボクは本当に関係ないと思っている。単にふざけあう相手がいないだけの話で、別にどうってことない。
「フフ、強がっちゃって。寂しいくせに」
阪田はしつこい。
「だから関係ないって言ってるだろ」
やや声が大きくなった。何人かが後ろを振り返る。その誰もがニヤついてるように見えた。
「関係なくないよね、あれだけ毎日仲良くしてるのに」
「仲いい? バカ言うな、あんなやつと仲いいわけないだろ」
「付き合ってんだろ? 白状しろよ」
前の方の席から誰かが大声を出す。
「ヒュ~ヒュ~ヒュ~、熱いねぇ~ 熱い熱い」
「お前とあさみは夫婦みたいだよ」
「お~~~~、神原あさみかぁ~」
「なんだなんだ、照れるなよ、みんな知ってんだから、今さらなあ」
「そうだよ、何をいまさら照れてるんだよ、あれだけ仲いいのに」
「…… 」
ボクは唖然とした。こいつらは何もわかっちゃいない。ボクはあさみとふざけてるだけだ。それはきっとあさみも同じことで、ふざけてるだけだ。みんな、聞いてみればいいんだ、あさみに。そう思った。
「あさみはきっとあんたのことが好きだと思うよ、マジで」
阪田が最後にそう言った。それを合図に、クラスは大騒ぎになったが、ボクはもう反論する気にもなれなかった。
翌々日の朝、教室に入ると、あさみが席に座っていた。一瞬目があった気がするが、ボクは知らん顔して、ニコリともせず、席に着いた。今日は絶対に後ろを振り返らない覚悟をしてきた。そして、その通りに実行した。
(冗談じゃない。ボクはあさみとなんか無関係だ)
別に平気だった。あさみが話しかけてこなくても、全く気にならなかった。
その日から、ボクはあさみとふざけるのを一切止めた。短い休憩時間も席を外して、バスケットボール部の連中と一緒にいるようにした。楽しくもなんともなかったけど、あさみと変な噂を立てられるよりよほどマシだった。
2学期が終わって、3学期になり、席替えになった。ボクとあさみは離れ離れの席になった。あれから、あさみのことをじっと見る機会もなかった。
3学期になって、そろそろ終業式が近づいたある日、ボクは部活の後片づけの当番で遅くなって教室に戻った。誰もいないはずの教室にあさみだけが残っていた。
ボクは躊躇った。彼女に声をかけるどころか、周囲を見渡して、誰もいないことを確認してようやく教室に入るほど用心した。
ボクが教室に入ると同時に、あさみは教室を出て行こうとした。
一瞬、彼女と目が合った。
見たことのない、哀しい目をしていた。少し前、何ごとも快活に笑い飛ばしていた同じ人物とはとても想像できないほど、彼女の顔は沈鬱で、哀しげだった。
……
それっきり、彼女と目が合うような瞬間もなくなった。
それでも、ボクは中学1年生の記憶として、いつまでもあさみのことを忘れられずにいる。今になって思い返すと、女性として意識した最初の女の子は、じゃれあうことのなくなった後の、哀しい目をした彼女のような気がする。
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