第7話 カルテにはドラマがある

花咲メイビは怒っていた。

近年まれに見るほど怒っていた。

それはもう、あの見るたび軽くメイビをおちょくってくる先輩ですら顔色をうかがってくるほどで、メイビ自身、自分がおもろいもん以外でメイビになれるんだ、という新たな発見と共に怒りにうち震えているのだった。

「原崎」

「…なんですか」

「終わったらチロルチョコ買ったるから」

「クソガキか」

「どうどう」

「それでなだめてるつもりですか」

「まあ、いちおう…」

「…せめてbitの方にしてください」

「え、値段三倍!?」

「たったの30円やろがい!」

怒れるメイビには先輩にたいしての敬意など装着されてはいないようである。

「あんたが怒るのも分かるけど」

「ちゅうか、先輩ももっと怒ってええんちゃいますか」

「まあ、そやねんけど。怒ったってなんも変わらんやん。ここ10年ほど…」

「…確かに…」

ここまできて、メイビの怒りは急速にしぼんでいった。

そうなのだ。毎年毎年、いくら怒ろうとも何一つ状況は変わっていない。

今日は、年一回の倉庫整理の日。

ただの倉庫というわけではなく、病院事務が携わるにふさわしく、主に片付け対象となるのは「カルテ」だった。

まあ、ふだんからカルテに慣れ親しんでいて、倉庫と事務所、診察室の行き来をしている明美たちにとってカルテの整理なんてものは別に苦でもなんでもない。

一年分のカルテをホッチキスで止めて、来年のカルテの表紙を準備して、そんなことは当然の業務だと認識している。

まあ、多少めんどくさいけど。

ただ明美が怒りを覚え、メイビに変身してしまうのには訳がある。

それは、カルテ整理にどうしても付きまとってくる力仕事だ。


明美の働く森永病院は、無駄に歴史が長い。

昭和30年代から入院しているような強者も未だかつており、これまでの外来患者、退院患者を合わせると、とんでもない数のカルテが存在することになる。

それらのカルテを全部きれいに残しておくのは至難の技で、正直保存状態の悪いものも多数存在するが、「カルテは病院の宝」なんて院長が宣うものだから、捨てるに捨てられない。それにどれだけ人の足形なんかがついていたとしても、だ。

しかし、毎年毎年カルテは増えていく。

捨てられないのに増えていく。

置場所がなくなる。

いろんなものを整理して、各物品の保管をしている総務課とやりあって、上司と掛け合って、どうにかこうにかカルテ置き場を捻出している今日この頃。

空きスペースができたとなれば、もう必要のなさそうな古いカルテから順に、どんどん移動させていく。

カルテは言うまでもなく紙の束だ。

何十冊、何百冊とかたまって押し寄せりゃ、ものすごく重いのだ。

運びやすくするため段ボールに詰めて、台車で倉庫から倉庫へと移動させる。

何十回と、その作業を繰り返す。

頭がおかしくなっていく。

もちろん手も。筋肉痛も。

「うぜぇ…」

思わず零れ落ちた明美の一言に、

「右に同じ」

先輩も同意して、ため息をつく。

そして思うのだ。

「おい、男どもは一体どうした」

と。


「いや、まじほんまそれ。男の人おるんちゃうん?」

当然のようにやってきたファミレスで、当然のように横にいるスゴロクに問いかけられる。

「男その1、ヘルニア持ち。男その2、痛風持ち。男その3、ヘルニア持ち&偉いさんが見てないとこでは力出さないタイプ」

苛立ち紛れにずずっとアイスココアをすする。

疲れた心身ともに染み渡る。

ドリンクバーじゃなく、生クリームをみっしりかけられた喫茶店タイプならなお沁みるんやけど、と思いつつ、濃い甘味にほっと気持ちも緩む。

「それはそれは…ご愁傷さまやなぁ」

こちらもずずっとアイスコーヒー。

シロップもミルクもたんまり入った、だだ甘いやつ。

「ええねん。仕方ないから、別にええねん」

そう、ヘルニアは仕方ない。痛風も仕方ない。

体の問題やし、痛みは本人にしか分からん。痛いのは辛いやろし。

「けど、じゃあなんで私ら二人だけで運びまくらなあかん?」

敷地の端から端まで、と言っても過言じゃないくらいの距離を、たくさんの段ボールを載せた台車を押して運びまくった今日。

10往復じゃくだらないその作業は、明美と先輩の体力気力とも抉り続けた。

「せめて一箱運ぶ、箱づめを手伝う、なんかあるやろ」

そうなのだ。

できないものは仕方ないし、させようとも思わない。

何がムカつくかって、私たちが当然運ぶものだと思い込んでいる男ども。

手を真っ赤にして段ボールを台車に積んでいるときに通りかかって、横目でしれっと見送った主任。

溝に脱輪した台車をなんとか持ち上げているときに、わざとらしく目をそらした同期のS。

「最近腰の調子がよくて、ジョギングを始めたんですよー」と話していたのにもかかわらず、「腰さえ調子よければ手伝うのに…」なんて部長の前だけで宣う先輩Y。

これは私と先輩の仕事なのか、とお前らに問いたい。

事務員全員が携わっていくべき仕事なんじゃないのか?

なぜできそうなことすら一切しない?

そして、なぜ権力の在りかでしか働こうとしない?


「確かにムカつくなぁ」

「やろ」

「なんちゅうか、計算付くで生きてる感じがなんともなぁ」

「そやねん。でもスゴロクかて計算はするほうやろ」

「そら、人並みには」

「でもスゴロクのはなんもムカつかんのに、なんであいつらだけ腹立ってしゃあないんやろ」

「人にバレるような計算はしませんがな」

「たしかにそうやった。必殺暗算人スゴロクやった」

「仕事人みたいに言わんでも」

「そんなええもんちゃうけどな」

「たまにはほめてよーん」

「なにがよーんじゃ、きもっ。延髄突かせろ」

「出たっ!あけちゃんの毒舌」

「これくらい毒でもなんでもないわ」

「フグは自分の毒では死なんからね」

「どういう例えやねん」

「まあ実際、計算なんか誰でもしてるわ。しーひん奴の方が珍しいやろ」

「やろうな」

「でもそれがあからさますぎると情緒がないっていうか」

「情緒!」

「人に気づかれるか気づかれへんか、スレスレのところで弾き出されるのが計算の醍醐味やん」

「さすがスゴロク。伊達にチャイナ服マニアやってへんなぁ」

「誰が見えるか見えへんかスレスレのスリットやねん」

「女子テニス部とか」

「サーブ打ち込んだときのスカートの捲れ方ね」

「磯野ワカメ」

「見えてるやん!スレスレ通り越して丸見え!」

「いや、パンツ的な問題ではなく犯罪的に」

「よけいにアウトやろっ!小学生に手出させるな」

これやからスゴロクは心地いい。

どーでもいい職場の軟弱腰野郎とでは成り立たない会話のテンポに、苛立っていた気持ちが少し収まっていく気がする。


「しかしあけちゃんはカルテのこと大事にしてんのやなあ」

「まあな」

「やっぱり、病院の宝やから?」

「んなわけあるかいな」

「ほななんでなん?」

「絶対言うたらあかんで」

「誰に言うことがあんねん」

「それもそやな」

「もったいぶらんと教えてぇや」

「カルテってすごいねん」

「なにが」

「実は…」

明美はここでココアをすする。あ、もうなくなった。

「…あんなにおもろい読み物ないで」

「まさかの私利私欲!?」

「私利私欲言うな」

「でも完全にそうやろ」

「…否定はできん。しかしスゴロクには分かるはずや。一人の人間がなぜ狂ってしまうのか、そしてその狂気はどのように破壊へと進むのか、はたまた救いを得られるのか。それは神にすらわからん。知っているのはカルテだけなんや」

「メイビたーん、帰ってこーい!」

「こんなわくわくドキュメンタリー、見逃す私やないやろ?な、スゴロクちゃん」

「いやいや、あけちゃん仕事熱心ですてきー、思ってたオレの気持ちは?」

「熱心やで」

「ちょっと違う方向性やけどな」

スゴロクはふーっとため息をついて席を立った。

もちろん自分のと私の両方のグラスを持って。

さすがダンナサマ。(棒読み)


入社してから10年以上、ずっとカルテの整理をしてきた中で分かったこと。

それは、カルテはドラマだということ。

メイビの生み出す変態ワールドなんかより、もっともっと変態な出来事がカルテには綴られていて、正直すぐに夢中になった。

それは、字の汚いドクターを罵りたくなるくらいどんどん読みたくなるもので、事実は小説より奇なり、って言葉を本当に理解した。

それは明美だけではなくもちろんメイビファンの先輩もそうであったらしく、カルテ業務のほとんどを二人でこなすようになったのもそんなこんなが原因だったりもするのだ。

しかしそれはそれ、これはこれ。

業務において逃げ腰で、かつしょうもない見え見えの打算を働かせる奴はどうしてもムカついてしまう。

いっちょ、お仕置きでもしてやるか。


あいつらには今後一切、一生カルテには手を出させない。


明美は一人、ニヤリと笑う。

こんなおもしろいもん、ぜーったいに触らせへん。

そう決意した明美は、脳内でカルテ包囲網をめぐらすのであった。


「なあなあ、あけちゃん」

いつのまにか帰ってきたスゴロクが、明美の前に暖かいカフェラテを置きながら話しかけてきた。

さすがスゴロク。私が今日の締めにのみたいものをよく分かっていらっしゃる。

「段ボールに台車て、今日のあけちゃんの仕事、まじ仕事人できそうやな」

その一言で、明美の中のメイビに火がついた。

「もちろん、抜かりはないで」


数ヵ月後に話題をさらった小説は、花咲メイビにしては珍しく猟奇ミステリーの短編集で、テーマが倉庫だったりガムテープだったり軍手だったり段ボールだったり、某人にとってはある意味既視感覚えるものだったらしい。

「原崎…よくやった」

「それほどでも」

某病院の事務所で、謎めいた会話が繰り広げられたとか、られなかったとか。

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