第6話 決して欲しいわけではない。

花咲メイビは待っていた。

たくさんの期待と不安を込めて。

もう何週間も待っているその瞬間を、いよいよ今日迎えられるという予感は、メイビのぷるぷるを一層高めてくる。

(ついに私も…)

ニヤニヤが止まらない。


「おはようさん」

そんなメイビに、待ち望んでいた声が掛かる。

「おはようございます、池上さん」

池上さん。60才手前あたりのおじちゃん。ベテラン外来患者さんである。

いかつい体にだみ声、くたびれたハンチング。舎弟的な患者も多く、弱い患者からはカツアゲもどきのことを繰り返す、すこぶる素行の悪いおじちゃんである。

しかし、職員に対してはやさしく、ユーモアもあり、なかなか人気の患者さんなのだった。


「お姉ちゃん」

池上さんはメイビに呼びかける。

「はい、どうされました?」

落ち着いた対応。薄く笑みを浮かべ、ぷるぷる相手の池上さんに向き合う。

心はいくらぷるぷるでも、表面には決して出さない。メイビは基本に忠実な女なのだ。

「やっぱりなかなか難しいわ」

「…そうなんですね」

「次の診察までに考えてくるわな」

「はい。期待してますね」

内心のがっかりを悟らせない、完璧な対応。

笑顔で池上さんを見送りながら、メイビは心で叫んでいた。

(なぜじゃーっ!!)

胸に渦巻く置いてけぼり感。

なんで私だけ、なんで私だけ…

(あだ名がないんやーっ!!)

そう、メイビはあだ名がほしかった。


事の発端は、2カ月ほど前にさかのぼる。

「米倉涼子さん」

受付に入っていた明美は、聞き慣れた池上さんのだみ声から似つかわしくない単語が紡がれるのを聞いた。

(今、米倉涼子て言いました?)

心の中で問いかける。

するとすぐ横から聞き慣れた声が…

「池上さん、今日は早いですね」

米倉涼子、と呼びかけられて返事をしていたのが、いつも明美をいじってくるあの先輩。

(はっ?米倉涼子て!)

どの面下げて、とか身の程を知れ、とか、面と向かって言える明美ではない。

が、心の中では轟々と罵声が渦巻いている。

「診察券新しいの作って」

明美の胸中など知りもしない池上さんは、ただの先輩事務員を米倉涼子なんて呼び名で呼んだまま自分の用件を話し出す。

「分かりました。機械が温まるまで5分くらいかかりますがよろしいですか?」

米倉涼子なんて呼ばれてしれーっとしてる先輩がうざい。

ほんのちょっとだけドヤ顔なのが、なおうざい。

先輩が隅に引っ込んだスキに早速問い詰める。

「ちょっと、アレどーいうことですか?」

「何が?」

「米倉涼子さん、て」

「ああ、あれな。池上さん、事務員にあだ名つけはるねん」

「あだ名?」

「そ。そんで私は米倉涼子さん」 

「なぜそうなった…」

先輩はニヤリと笑う。

「私だけちゃうで。課長は藤あや子さん、主任は水野美紀さん、ほんで…」

どうやらことごとく芸能人の名前がついているらしい。

しかも本人より遙か高いレベルの。

だってそんなの、イヤな気なんてしないではないか。

「原崎も付けてもらいたいん?」

「いや、まあ、それは…」 

こんなぷるぷる出来そうなこと、なかなかないと思う。私は一体誰になるのか。

知りたい。

知りたい。

知らず知らずのうちに明美はメイビへと変身し始める。

「たぶんらそのうち池上さんつけてくれはるわ~。あの人もソレ、楽しんではるから」

「そ、そうですかねぇ」

そこまで食いついてはないよ、でも少しだけ気になるかな…

なんて風を装うメイビだが、先輩にはバレバレだったようだ。

「ま、楽しみにしときや」

そう言って、先輩は新しい池上さんの診察券を持って窓口に行ってしまった。

「池上さん、お待たせしました~」

米倉涼子に似ても似つかない先輩は、池上さんを呼ぶ。

「はいどうぞ」

「おお、ありがとう」

「でね、池上さん」

「どーしたんや」

傍目には分からない程度にニヤついている先輩に、いやな予感しかしない。

「ほら、あそこにおる事務の子。分かります?」

「ああ、あのお姉ちゃん。知ってるで」

(なぜ二人してこっちを見るんだ。怖い、なんか怖い)

「あの子も、池上さんにあだ名、つけてもらいたいみたいで」

(…恥っずー!何恥ずいこと言うてくれてんねんあの腐れ米倉涼子め!めちゃ期待してるみたいやん!いや、してるけど。ものすご期待してますけど)

「なんや、そんなことかいな」

やさしく言う池上さんには、病棟の看護師たちが陰でジャイアンと呼ぶような凶悪な面影はない。どちらかというと映画のジャイアンだ。

「お姉ちゃん」

呼びかけられてメイビはとっさによそ行きの声を出す。

「はい、池上さん」

「次の診察の時までに考えてきたげるわな」

「あ、ありがとうございます」

マニュアル的に、というより完全に本心から喜んでしまったことは内緒だ。

(私は一体誰と呼ばれるんやろ)

期待からややにやけているメイビのふくらはぎに、米倉涼子先輩は容赦なくケリを叩き込んだのだった。


しかし、問題はここから。


2週に一回の診察である池上さんには、あれから4回会った。しかし、一向にあだ名が決まらない。

「安達祐実ちゃん」

あの日から次の診察の時にはそう呼ばれたものの、

「んー、ちょっとなんか違うかなぁ」

と勝手に却下された。

(確かに安達祐実要素はない…気がする…)

しかし先輩に米倉涼子要素があるかと言われればそれは否だ。あり得るかボケ。

「長澤まさみちゃん」

「菅野美穂ちゃん」

恐れ多い名前だけが繰り返され、勝手に却下されていく。

なぜなのか。

ほかの人はすっと決まったのに、なぜ私だけ決まらない。

だんだんおもろく思えなくなってくる。

そして迎えた今日。やっぱり難しいわ宣言。

(あだ名くれーっ!!)

どうしようもない思いをぶつけるには、これしかなかった。


「で?オレ呼び出したんってそんなことのため?」

ニヤケ顔でスゴロクが見てくる。

「そんなこと、ちゃうわ。死活問題や」 

「そこまで?」

「あんな、私はもう途中までぷるぷるさせられてんの。で、そっから先お預けくらってんの。こんなままぢゃ、ペンも進みません!」

一息に言ってココアを一口。安定のドリンクバーである。

「なるほどねー。みんながあだ名ついてんのに自分だけついてへんからいじけてる、と」

「いじけてへんわ」

さらににやけるスゴロクにイラッとする。

「あけちゃんはさぁ、」

「ん?」

「なんでスゴロクってつけたん?」

「…すぐる、やから」

「そんなもんやん、あだ名なんて」

「そらそやけど…」

「しかもスゴロクて、まーったく定着せぇへんかったし」

「じゃあ自分、なんて呼んでほしかったん?」

「…えぐすぐ、とか?」

「言いにくっ!しかも今更まさかのキムタクリスペクト!!」

「あかんのかい!男のあこがれやろ」

「いやいや、もう一時代過ぎてるやろ」

「SMAPさんの影響力はいまだすごいねん」

「あんたなんかスグぽんでも恐れ多いわ」

「ちゅうかそれ、草なぎくんにも失礼やろ」

「もう、わかった。あんたは今日からゴローや」

「原型留めてねぇー!」

「いやならシンゴ」

「ソレも完全に他人やん!」

「最悪、リーダー」

「グループ変わってる!しかも最悪ってどーいう意味?」

「まあ、流れで…」

「でも、ええんちゃうの?まあ、キレイな芸能人のあだ名がなかなか決まらんくても、その池上さん?あけちゃんのために考えてくれてるんやろ?2カ月も」

「うん、確かに」

「その気持ちがありがたいっちゅう話やん」

「お、おぅ…」

「オレも、スゴロクってあだ名、あけちゃんが付けてくれたから気に入ってるで」

そんなこと、さわやかそうに笑いながら言いうもんだから。

「…死ねっ」

「なんでーっ!?」

やっぱりスゴロクは侮れない。


その翌日。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん」

診察日でもないのに池上さんがやってきて、明美はその勢いに押されるように受付へ向かう。

「池上さんどうされました?」

「決まったで!」

嬉しそうな池上さんの様子に心が踊る。

「ほんとですか?」

「うん。よろしくな、百恵ちゃん!」

かなりしっくりきた様子で満足げに帰っていく池上さんの後ろ姿に、明美は小さくガッツポーズをする。

(あだ名、来たーっ!!) 

休憩時間に入ってすぐ、そそくさと人の少ないところで電話をかける。

「どしたー?」

いつも通りのスゴロクの間抜けな声に、うっかり頬が緩む。

「あだ名、決まった」

「なんて?」

「百恵ちゃん」

しばらくの間のあと、爆発的な笑い声が聞こえる。

「何笑ってんの?」

「…じ、時代ー!!」

「…死ねっ」


原崎明美が百恵ちゃんであると事務員皆が認識し出した頃、ひっそりと発売されたミステリー小説は、自分が有名芸能人と信じ込んだ男が、さらに有名芸能人だと信じ込んだ周囲の人間を殺しまくるという凄惨な連続殺人事件だった。

その執筆の合間、気合いを入れるメイビの「百恵ちゃん、行きまーす」

というやや低めの声が部屋に響いていたとか響いていなかったとか。

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