第5話 天使降臨

花咲メイビは震えていた。

いや、そんな甘いものではない。

もはや悶絶と言っても過言ではないほど打ち震えていた。

(か、かわいすぎる…)

メイビの目の前には、小柄なおっちゃん。おっちゃんではあるが、そのルックスは毒のないクレヨンしんちゃんである。

そして、メイビを震えさせている張本人なのである。

(…エノちゃん、天使すぎっ)

メイビがエノちゃんと呼ぶそのおっちゃん、本名・榎本さん。もう20年もこの森永病院に入院している大ベテラン。

それでも病院の雰囲気に汚されることなく純粋な天使性を保っているのだ(あくまでメイビ基準)。これはまさに奇跡、平成の世に生まれ落ちた真の天使なのである。(エノちゃん自身は当然昭和生まれである。しかも高度経済成長期あたりか)

そして今、エノちゃんはメイビに純粋なまなざしを寄せている。

「お姉ちゃん、手」

そう言って差し出されたエノちゃんの手を、メイビはそっと握り返す。

「握手ね」

嬉しそうに笑うエノちゃんに、メイビは完全に陥落した。

(…まじ天使!!)


その日の夕方、スゴロクのメールには深刻さのかけらもない様子のメッセージが1件届いていた。

「エノちゃんが天使すぎて書かれへん」

どーゆーこと??

意味など何も分からないスゴロクは、さっそく明美に電話することにした。

「ハローあけちゃん」

「スゴロク…」

「あの…全く意味分からへんねんけど?」

「…ですよねぇ」

「いつものファミレスに19時。オッケイ?」

「オッケイです」

スゴロクはすぐさま残っていた雑用を片付け、ファミレスへと向かうのであった。


「こっちこっち」

早く着いていたらしい明美が、目ざとく入り口のドアをくぐったスゴロクを見つける。

いつもと変わらない様子。

幼なじみとしての付き合いは長いものの、スゴロクは「作家・花咲メイビ」の担当になってはまだ日が浅い。前任者の長井さん情報によると、これまでの花咲メイビはスランプというスランプは経験していないという。

そんなメイビがもし初めてのスランプに陥っているのなら、自分は担当として何が出来る?

そんなことを夕方から考えるともなく考えていた。

そんな不安で落ち着かなかったスゴロクだが、いつもと変わらぬ様子の明美にほっと息をつく。

「あけちゃん早いねぇ」

「ま、仕事定時やったし」

「もう頼んだ?」

「まだ迷ってて」

「そーなんや。あ、すいません。ハンバーグとエビフライのセットとマグロ叩きご飯膳、それとドリンクバー二つで」

「…キモっ」

「だからそれもうええって」


おなじみのやり取りを終えると、二人はそれぞれドリンクを取りに立つ。明美はアイスティ、スゴロクはホットコーヒー。それぞれ無言で一口ずつ飲むと、本題に入ることとする。

「「あのっ…」」

(カブった!)

「まああけちゃんから言いーな」

「いや、スゴロクから」

「話進まんやん!ほなオレが聞きたいことを聞いていくから」

こっそり見上げたスゴロクの表情が、少し引き締まって見える。

(こうやって見てたら、いっぱしの働く男な感じやのになぁ。残念やなあ)

実は失礼なことを考えている明美である。

だってスゴロクだ。あの変なテンションで、コミュ力高くて、明美と同等もしくはそれ以上の変態脳を持ち合わせる男。

昔からテンションとトークだけで生きていたんだから。

「まず、エノちゃんて誰?」

「患者さん」

「どんな人?」

「もう長いこと入院してはるおっちゃん」

「おっちゃんかー…え?おっちゃん??」

「せやで」

「いやいや、自分天使や言うたやん!」

「せやで」

「ああ、埒明かん!」

「なんで?」

「おっちゃんが天使なわけあるかい!そーだ、眼科へ行こう」

「いや、まず話を…」

「ここから近くて夜までやってる眼科は…」

話がややこしくなってきた。

「だから、聞け!」

テンションがおかしくなってきたスゴロクにデコピンを一発。

「イテッ」

「話を聞いてください、お願いします」

冷静かつ他人行儀な対応で、なんとかスゴロクのテンションをかわす。

「分かった。話したまえ」

「どこから目線やねん」

そんなこんなで明美は、エノちゃんの説明を嬉々として行ったのだ。

そしてスゴロクは思う。

(心配して損したー!!)

書けようが書けまいが、明美は変態脳なのである。


あらかたエノちゃんの説明を終えたところで、スゴロクはまた一口コーヒーを飲む。

「で、そのエノちゃんが天使である、と。そして書けない、と。これ、どう『書けない』につながるん?」

そんなスゴロクの質問も最もなことで。

「だから、今の私の変態脳が一番うずくのがエノちゃんやねん。エノちゃんが窓口に会いに来てくれるだけで、私のプルプルはもう最高潮よ!」

「ほなええやん、書いたら」

「あかんねん!あの天使なエノちゃんに、どうやって殺人に手を染めさせられるだろうか、いやできまい」

「まさかの反語!?」

「変態脳は書きたがる、でもそれを病院の受付嬢原崎明美は拒絶する、てわけやねん」

「ほなエノちゃんが殺されたらええやん」

「おまえはなんて血も涙もないことを…」

「いやいやいや、あけちゃんこれまでどんなけ人殺してる思てんねんな」

こりゃ無理だ。

変態脳との付き合いは長い。

本人の次には長いはずだ。

それでもこんな状況、今までになかった。

(あのあけちゃんが、人を殺させることをためらってる!)

珍しい事態である。

「そこんとこは、とりあえず置いておこう」

スゴロクは、とりあえず仕切り直すことにした。

「エノちゃんさんがかわいらしいおっちゃんであることは、まあオレも理解したわ」

「でしょ」

「ただなあ…」

「何?」

「天使なぁ…」

そこのところは理解しがたかったりするスゴロクである。

「どう考えても天使以外ありえへんやん」

「…言うても、そもそもあけちゃんの天使基準が分からんねん」

「なんで?分かりやすいやろ。純粋でかわいくて、無邪気?」

「けど自分昔、近鉄ファンやったやん」

「そやで。何か問題でも?」

確かに、見渡す限り阪神ファンの中では異質だったかもしれないけど。

「いやいや、いてまえ~!とか言う天使おらんし」

「私利私欲にまみれた阪神ファンに言われたないわ」

「それを言うならあけちゃん、その頃中村ノリ見て天使や~言うとったやん」

「あんな天使な人なかなかおらんで」

「いやいや、それこそ私利私欲まみれやん。黒ノリ白ノリ色々あれど、結局黒いやん!」

「あんなに純粋に自分の欲望に忠実な人なかなかおらんで」

「そういう純粋?」

「純粋やんか」

「ほなあけちゃん的野球選手3大天使は?」

「江川、桑田、中村ノリ」

「即答!?」

「完璧な回答と自負しております」

「黒っ!影濃い!ダークネス!!みんながみんな黒すぎるやろ!」

「ものすご天使やん」

「どっちかってーと堕天使やからね、その3人」

「そんなん熱烈な阪神ファンの両親を持つ息子、江口すぐるに言われたないわ」

「なんやねん」

「息子に永遠のライバルの名前つけるとかなんなん?自虐?自虐ギャグ?」

「すぐるってエラそうに呼びたかったらしいからしゃーないやん」

「あかん、その発想がオモロすぎる」

「ウチのオトンとオカンはええねん。現実逃避は終了。問題の、書けないってところや」

「そーやった」

「けどなあ」

「何?」

「無理に書く必要ないんちゃうかな」

「え?」

それが作家に対して編集が言うことか?

「だって変態脳炸裂したときのあけちゃん凄まじいやん?」

「あ、ありがとう?」

「そやのに、書けへんからって無理矢理絞り出したところで、わざとらしくなってもイヤやし」

「そらそうやけど…」

「締め切りまでまだ時間あることやし、ギリギリまで変態脳待ちしようや」

カラッと言うスゴロクに、明美はちょっと拍子抜けしたものの、ひどく安心してしまった。

「分かった。担当さんがそう言うてくれるなら、ギリギリまで待ってみるわ」

「おう。変態神様が降臨するの、楽しみにしてるで!」

ニヤニヤしながらスゴロクは言う。

(やっぱりスゴロクに相談してよかった。担当さんとしてはあかん結論やろけど)

これまた失礼なことを思っている明美である。

そして二人は、相談事などなかったかのように普通にごはんを食べ、デザートまで堪能して帰ったのだった。


そして翌日。

再び天使は舞い降りる。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん」

エノちゃんが純粋なまなざしを向けている。

(やっぱ天使は天使やったー!!)

明美はまたまた悶絶、そしてプルプルが止まらない。

「どうされましたか?」

心の中は天使のまなざしにやられっぱなしだが、表面上はクールに窓口のお姉さんを演じる。明美は基本に忠実な女なのである。

そんな明美の葛藤を知ってか知らずか、エノちゃんは手を差し出し、そして、

「マイガール!」

にっこりと明美を見て手を握ってくるのだった。

(ぶほっっっ)

心の中で盛大に鼻血を出しながら、明美はメイビへと変身したのであった。



明美のエノちゃん熱のほとぼりが冷めたころに発売された、かわいい装丁のサスペンス小説は、そのタイトルを「天使が悪魔を殺すとき」という。

口が立ち仕事ができると評判の、それでも実はサイコパスの営業マンが、ターゲットにしたはずの純粋無垢な青年に様々なトラップを仕掛けるものの、純粋さ故になぜか天然に跳ね返され、結局はサイコパスの方が死んでしまうという、なかなかに斬新なストーリーとして話題を呼んだ。

「オレ、エノちゃんに殺されてるやーん!!」

スゴロクの叫びが、某ファミレスに響いていたのは、言うまでもない。

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