第4話 非常に社員食堂的問題
花咲メイビは憂いていた。
昨今の国際情勢と日本の外交について、などの高尚なテーマではなく、森永病院の行く末、などという極めて限局的かつ切実なテーマでもなく、ごく身近な問題で。
(…カレーまずっ!)
単なる社員食堂的問題である。
とはいえ、森永病院職員にとっては非常に大きな問題なのだ。
(ごく普通のカレーがまずいなんて、あり得るか??)
今職員が受けているのは、まずいカレー責めだ。
味としては、薄いカレー。でも飲み込むたびにノドだけがピリッとして、少し不快だ。コクなんてものもないし、だからってするりと飲み込むには刺激が強い。一時流行ったスープカリーの旨味がないもの、とすれば伝わるだろうか?とにかくどうにもまずいのだ。
(キャンセルしときゃよかった…)
後悔してももう遅い。
300円はすでに計上されたあとなのだ。
ちなみに、ただ食堂でご飯を食べているだけの明美がなぜ今メイビになっているのかと言えば、原因はこのまずさにある。
味の衝撃でプルプル震え始めた明美の脳裏に浮かぶのは、社員食堂で巻き起こる凄惨な連続殺人事件。凶器は今日のカレー、昨日のラーメン、一昨日の煮魚、その前の焼きそば…などなど、本気でまずかったあのメニューたち。
そんなことをツラツラと思っていれば、メイビモードに突入するのも仕方のない話である。
(ああ、オレの変態脳がうなるぜ…)
今日もメイビは絶好調に変態なのだった。
なんとかまずいカレーを食べ終わったメイビは、食堂を出て休憩室に向かう。
6畳ほどの広さの和室は、食後の事務員たちの絶好の休憩所だ。テレビを見るもよし、寝るもよし、30分ほどの自由時間を毎日そこで過ごしている。
(今日は寝ようかな…)
締め切りが近づき、最近少し睡眠不足のメイビはそう思って休憩所へ向かった。
その時。
音を切ってポケットに入れてあったメイビの携帯がぶるぶる震えている。
なかなか止まらない震動は、それがメールでなく着信であることを示している。
(誰やねん。寝たいのに…)
少し不機嫌になりながら、メイビは通話ボタンを押した。
「もしもし」
「ハロー、あけちゃん!」
能天気なスゴロクの声が響いてきて、無性にイラっとした。
ポチっ。
切ってみた。
すぐにかかってくる電話。
「切らないでーーーーーー!!」
「うるさいねん」
「あけちゃんが切るからやん!」
せっかく休憩所でごろごろしようと思っていたのに、スゴロク相手ではどうにも分が悪い。
睡眠の補充は後回しにすることにして、とりあえず病院の玄関先まで移動する。
ここならスゴロクとの話を聞く人もいないだろうし、あまり人から怪しまれずにすむ。
「もしもし」
「もー、あけちゃんつれないわあ」
「何の用?今仕事中やねん」
「仕事中言うても、今昼休みやろ?」
なぜ知っている。
「しかもまずいご飯食べ終わったころ。カレーあたりかな」
図星である。
「そろそろ昼寝でもしよーとか思ってんねやろ。ほな別に電話ぐらいええやん」
「…キモっ」
「ひどっ!」
おまえはストーカーか、の一言を飲み込んで出たのが、キモいの一言である。
でも、それくらいの状況把握、スゴロクなら朝飯前なんだろう。
だってスゴロクだから。
「ほんで?本題は?」
「そう、それ。実は、顔出しインタビューの仕事が来てて」
ポチっ。
切ってみた。電源ごと。
その日の午後の仕事は散々だった。
まずいカレーのせいで妙におなかは空くし、イライラする電話ばっかり掛かってくるし。
スゴロクとの電話のあとで寝られなかったせいもあって、どうにも落ち着かない。
昼食時のメイビモードなんてなかったかのように、原崎明美は原崎明美として空回りしていた。
(疲れた…)
仕事が終わる18:00には、もうその言葉しか出てこなかった。
(もうごはん作る気力ない…)
明美の足は、自然とファミレスへと向かっていた。いつもの、打ち合わせで使う例の場所だ。
(今日はドリアの気分かな)
そんなことを考えていたら、若干テンションも上がるというものだ。
(お給料日も近いし、ドリンクバーもつけちゃおっかな~)
売れっ子作家とは思えないほどささやかな贅沢に胸を躍らせてファミレスのドアをくぐった明美は、次の瞬間愕然とするのだった。
「ハロー、あけちゃん!」
そこには、2人分のドリアとドリンクバーを机に並べているスゴロクがいた。
「キモっ…」
「一言で終わらせちゃイヤーん!!」
そんなこんなで、なんとなく気まずい夕食が始まった。
なぜ今日の明美がドリアの気分なのが分かったのか、なぜ明美が着いたときに料理がちょうど運ばれたタイミングだったのか、それは神のみぞ知る、というかスゴロクのみのキモさということにしておく。
「何の用やねん」
いつもより幾分低い声で明美は話しかける。存分に機嫌の悪さをアピールしたつもりだったが、さすがのスゴロク、そんなこと気にもとめない。
「ドリア食べたかってん」
「2人分?」
「2人分」
「ほな私食べたらあかんやん」
「いざ来てみたら案外大きかったから、あけちゃん来てくれてちょうど良かったわ」
しれーっとそんなことを言うスゴロクに、肩をすくめてため息を一つ。
(コイツのこーいうとこ、ほんまかなわへん)
「はよ食べな冷めてまうで」
あまりにもスゴロクが何も気にしない様子だったから、明美も何も考えず食べることにした。
(…ドリア、うまっ!)
熱さにはふはふしながら、チーズを思いっきり引っ張って伸ばしてみる。
このクリーミーな感じが今日の疲れを癒してくれる気がする。
(ああ、しゃべりたくない…)
そう、ドリアで現実逃避している間も、目の前にはスゴロク。
きっと昼間の話をされるんだろうなぁ、遠い目で思う。
「なあ、あけちゃん」
(来たっ!真面目トーンのスゴロク)
1年に1度か2度、それくらいの頻度でスゴロクの真面目モードに出会うが、どうにも馴れない。コイツはケタケタ笑ってるか、何かよからぬことを思いついてニヤニヤしていればそれでいいのだ。
(聞かれるんやろなぁ…)
なぜ顔出しがイヤなのか。
これまで一切のそういう仕事を断ってきた。
長井さんのときものらりくらりとかわしてきた。
しかし今の担当はスゴロク。かわし切れる自信がない。
「何?」
さりげない風を装って聞き返してみる。
「ハリーポッターの作者の人って、変態やと思わへん?」
(…ぱーどぅん??)
「よぉあんな設定思いつくよなぁ。だって、親の仇がまじキチのおっさんやで。容赦ねぇー!」
そんなこと言ってケタケタ笑う。
(なんのこっちゃ…)
「額の傷がうずくぜ、とか名前を言ってはいけないあのお方、とか。まじ厨二!」
「失礼やろ」
「あれ絶対、作者の人が眼鏡の場所探してるときにどっかぶつかって、おでこケガしたときに思いついたんやで」
「どんなけ身近な話盛り込んでんねん」
「電車で痴漢してきたオッサンの顔あんまり見えへんくて、鼻の穴だけ見えたからヴォルデモートあんな顔になってんで」
「サブちゃんか。どんなインパクトのある鼻やねん」
「中学時代のクラス一の美女と冴えん奴の結婚式の招待状見てロンとハーマイオニー」
「確かにそっちとくっつくんかい!思たけど」
「居酒屋のお通しで出たもずくでディメンダー」
「もずく空飛ばすな!」
「水戸黄門見てダンブルドア」
「ヒゲだけや!」
「そやから、ええやん」
「何が?」
「変態脳作家でも、顔出ししたらええやん」
「!!!」
完敗。
自分自身が作家と名乗ることを避けている気持ちが、スゴロクにはすべてお見通しだったようだ。
「…なんで分かったん?」
「だってあけちゃんやもん。どうせ自分は変態脳で妄想がおかしなっただけのけったいなヤツやから、作家なんて名乗るのはおこがましい、そんなこと考えてんねやろなぁって」
「…キモっ」
「だからその返し!」
バレてるなら仕方ないか。
「もちろんそれだけちゃうで。普通に恥ずかしい」
「大丈夫やて。会社の人には分からんようにメイクとかでしっかり仕上げますがな」
「ほんまに?」
「ほんまに大丈夫。たまにはこういう仕事も受けて、一皮剥けようぜっ!」
(軽く言いやがって…)
でも、そうかもしれない。
一応、作家として生きている以上、これからこういう事態は避けて通れないものであることも理解はしているから。
「じゃあ、いろいろ、よろしく頼みます」
「任せとけ!!」
このとき明美は忘れていた。
任せる相手が、あのスゴロクであることを。
花咲メイビは憂いていた。
ネタ切れというわけでもなく、締め切りに追われているわけでもなく、ごくごく身近な問題で。
(…うどんまずっ!)
相変わらず、社員食堂的問題である。
たまたま休憩がかぶった先輩とともに、まずいうどんをすする。
(…先輩犯人にして、うどんのダシにと思わせといて麺の方に毒を仕掛けて…)
そして、相変わらずのメイビモードである。
「なあ、原崎」
「はい」
「ちょっと言いたかってんけど」
「なんですか?」
「あの雑誌、化粧濃すぎ」
「はい?」
「ほんで、ライト当てすぎ。顔白浮きしてたで」
まさか…まさか!?
「な、なんで?」
「あんな変態小説書けるの、原崎くらいやろー。なあ、花咲メイビさん」
バレてた。
全部バレてた。
……マジかーっ!!!
「先輩、いつから知ってたんですか?」
「え、初めっから」
「は?」
「だから、デビュー作の『ナースステーションの罠』から」
「なぜバレた…」
「本好きやし、あんたのこともオモロイなあ思ってたし、それでちゃう?たぶん私以外誰も知らんから安心しぃ」
「はい…」
ズルズル。
何を言っていいのか分からないときは、とりあえずうどんだ。
まずいだの何だの言ってる場合ではない。
今の状況が一番まずい。
「ところで、あの雑誌ちゃんと読んだん?」
先輩は小声で聞いてくる。一応周りにバレないようにとの配慮のようだ。
「いや、化粧品塗りたくられて、バシバシ写真撮られて、インタビューされたんはされたんですけど、まだ担当から雑誌渡してもらってないんです」
「結構なエエ女風になってたで」
「はいっ?」
「好きなのはカフェのフルーツ盛りだくさんのパンケーキ、朝ごはんはスムージー、エステは最低週1回、ピラティスで体を絞るのは女としてのマナー、ハマっているのはネイル、あと…」
「…もういいっす…」
「なあ」
「はい…」
「…原崎って、そんなヤツやったっけ?」
「…見ての通りです」
「…せやな」
ズルズル。
なんとなく気まずくて、ひたすらうどんをすする。
あいつ、何やりやがった。
「原崎、凶悪な顔なってんで」
「いや、うどんがまずいだけです」
「確かにな」
決して、いかにしてスゴロク殺人事件を練り上げるか、なんて考えちゃいない。決して。
ジリリリ。
ちょうど食べ終わったころに鳴る電話。
ヤバい、マナーにするの忘れてた。
「すみません、お先です」
食器を慌てて片付けて、電話に出る。
「もしもしあけぴー、チワっす」
「おまえ、コロス」
小説的な意味で。
「あけぴー怖っ!」
1か月後、本屋に並んだ途端に世間を賑わしたミステリー小説は、地味な社員食堂に登場する様々な毒入りメニューが、ひたすら明るい能天気な男を狙うという不思議な設定の話だった。
そんな不思議な世界を生み出したのが、今どきの女性の代表のようないで立ちかつ生活を送る、新進気鋭の女流作家であるというのがまたまた話題になっているのだが、地味を絵に描いたような事務員生活を送る原崎明美には、全く関係のない話である。
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