第3話 編集者とボサボサ親父

花咲メイビは悩んでいた。

絶好調に悩んでいた。

例えてみるなら、大人になったしずかちゃんが出木杉とのび太の両方から「お願いします!」と手を差し出されたぐらいに。(なぜかそこでのび太を選んでしまうあたり、しずかちゃんの正気の度合いが心配になってくるのだが)


普段の職場での無表情が信じられないくらい、眉間にしわを寄せている。

おまけに誰も聞こえていないが、軽くうなり声すらあげている。

「んーっ…」


メイビを悩ませているもの、それは。

(オムライスか…明太子パスタか…)

ファミレスのメニューだった。


時は3日前にさかのぼる。

休日を惰眠をむさぼることに費やしていた原崎明美のもとに、一本の電話がかかってきたのだった。

「はい、原崎です」

寝ぼけながらカスカスの声で答える明美の耳に飛び込んできたのは、

「先生、寝てらしたんですか」

世にも恐ろしい担当編集者の声で。

「と、とんでもない!」

姿の見えない電話口なのにもかかわらず、とっさに正座してしまった明美はきっと悪くない。

「実は、先生の担当が急遽変わることになりまして」

もたらされたのはそんな意外な情報で。

「え?またなんで?」

怖いけれど絶大の信頼を置いている編集者だ。変わってしまうなんて聞いてない。(というか今初めて言われてるんだけど)

「実は…私、妊娠しました」

まじでー!!

「そして、予想外につわりがひどく…オエッ」

「だ、大丈夫ですか?」

「すみません。それで、ちょっと体力的にも自信がなく、早めに産休をいただくことになったんです。先生にはご迷惑をかけますが」

「いえ、そんなこと。何より体とおなかの赤ちゃんが大事ですから!」

「そう言っていただけて良かったです。で、新しい担当との顔合わせをお願いしたいんですが」

「あ、はい。そうですね。今週は全部仕事なんですが、夜なら大丈夫ですよ」

「そうですか。では3日後の19時でいかがでしょう。いつものファミレスで」

「わかりました」

「ではそのように担当には申し伝えておきます。先生、長い間お世話になりました」

「こちらこそ。長井さんがいらっしゃらなかったら、花咲メイビはここにはいなかったはずです。今まで本当にありがとうございました」

担当が変わってしまう寂しさに、最後の方は少し声が湿ってしまったかもしれない。

それでも、世話になった担当編集者のおめでたい報告は素直にうれしい。幸せになってほしいなぁ、と本気で思う明美はやや浮足立っていたのかもしれない。

そして明美は、新しい担当者の名前すら聞かずに電話を切ってしまったことに気づかないまま3日後を迎えたのだった。


そして今日。

花咲メイビはめちゃめちゃに悩んでいたのだ。

今日の夜ご飯のメニューに。

(ここのトロトロオムライス、捨てがたいねんなぁ…でも明太子も食べたいし…)

待ち合わせの19時より30分も早く到着したメイビは(お仕事の話になるのでファミレスに入った瞬間から原崎明美は花咲メイビとなっている)先に夕飯を済ませておこうとメニューとにらめっこしているわけである。

「んー…」

悩むメイビのもとに、近づく影が一つ。

「あけピー発見!!」

「んがっ!?」

突然肩の辺りからガバッと抱き寄せられ、咄嗟に変な声が出てしまう。

「えー、もう忘れちゃったのぉ?」

甘ったるさを装った野太い男の声。

この声は、そして自分のことを「あけピー」だなんて呼ぶヤツは、あいつしかいない。

「なんでスゴロクがっ!?」

スゴロク、本名江口すぐる。

明美とは保育園時代からの幼なじみだ。

いつも軽いノリでふざけた野郎で、調子よく「あけピー」なんて呼んでくるから、こちらもテキトーにつけた「スゴロク」なんてあだ名で呼んでいる。

「ああ、それね」

スゴロクはものすごく軽い調子でメイビの前に座り、ベルを鳴らす。

「オムライスと明太子スパゲッティ、あとドリンクバー二つで」

メイビが悩んでいた二品をしっかり頼んでいる辺り恐ろしい。

「それどっちも…」

「半分こしよーぜ!」

メイビが言いかけるのを遮って、にかっと笑う。

「ほんでなんでスゴロクがこんなとこ来てんの」

「来たらあかんのか」

「そーやなくて」

「仕事終わってごはんどーしよ思ったとき、オムライスと明太子スパゲッティがどーしても食べたなってんやん」

「ほんまかいな」

昔からそうだった。

ちゃんと話を聞きたいときも、スゴロクはノリとしゃべりの勢いで押し切ってしまう。

「ていうのは半分ほんま」

「あとの半分は?」

怪しんだ声にも臆することなく、スゴロクは胸ポケットをあさりだす。

「はい、これ」

手渡されたのは1枚の名刺。

「私今日から花咲メイビ先生の担当に就かせていただきます、編集の江口すぐると申します」

「…は?」

「だから、今日から俺があけピーの担当になるってこと!」

「ごえーっっ!!」

本日2度目の変な声が出た。


頼んでいた二品がやってきて、2人は無言でそれらを取り分ける。

(このとろっとろ、んま~い!あと明太子もいい感じ~)

メイビは心の中でニヤケっぱなしだ。

(さっすがスゴロクやな…あっ)

現実逃避気味だった思考が現実に引き戻される。

(よりによってスゴロクが…)

なんでもスゴロクは、大学を卒業したあとこの出版社に入社したらしい。

高校を出てすぐ今の病院に就職した明美はそのことを全くといって知らなかった。

「もう冷たいわぁ、あけちゃん」

スゴロクがスパゲッティを頬張りながらやらしい声を上げる。

「俺なんかあけちゃんのこと、なんでも知ってるのに」

「なんでもて何よ」

「あけちゃんがあそこの森永病院で受付してること、おもろいもん見つけたら変態になって花咲メイビになってまうこと、結構稼いでるのにいまだに安い家住んでること、あと、いろんな患者が犯人か被害者になってるのもよぉ知ってる」

畳みかけるように話された言葉に、思わず俯いてしまう。

「ストーカーか、っちゅうねん」

「長井さんに全部聞いたし。それに」

言葉を切ったスゴロクは、ぐっとメイビを見つめる。

「なによ」

「あけちゃんの変態脳、見いだしたんは俺やろ」

「…」

沈黙が降りる。

そうだった。スゴロクは明美の変態脳を随分昔から知っていたのだ。

「ありんこが巣潰されておろおろ回ってんの見て、笑顔でプルプルしながら一匹ずつ踏みつぶしてたし」

「保育園の時やん…」

「話の長いじいちゃん先生の口癖にプルプルしながら、とっさに『だからして先生!』とか呼んでまうし」

「小学校のときやん…」

「持ち物検査の日にプルプルしながらカバンに奈良漬けのタッパーつっこんでるし」

「中学のときやん…」

「就職のとき敢えてあの病院選んだのも一種の…」

「もういいですおなかいっぱいです勘弁してください」

もうメイビは涙目だ。

「あけちゃんの変態エピソードなんか、5時間でも語ってられるわ」

「聞かされるこっちが死んでまう」

「な、だから今さら、全然知らん人に担当されるよりええやろ?」

確かにそうかもしれない。

偏った作風の、しかもなかなか大っぴらにはしにくい創作方法。それを一から説明するなんて、なんて面倒くさい…

「てことで、頼んだでー、あけちゃん先生!」

ドリンクバーのお替わりに立ちながら、軽く肩を抱き寄せてきやがった。

スゴロクめ、あとでしばく。


なんというか、怒濤の一日だったなぁ…

スゴロクが席を立ったあと、メイビはぼーっとしながら窓の外を見ていた。

しばらくぶりに幼なじみと再会。

その幼なじみが自分の担当編集者となること。

さらに過去の自分の暴走したあれこれを突きつけられ…

(これは痛いなぁ)

胸が、というより自分自身の脳みそがやばいくらいイタイ。

はぁっ、と大きなため息を一つついたところで呼びかけられる。

「これはこれは、許嫁やないか」

デカい声である。

そして事実無根である。

完全にファミレスの客からは婚約者のご登場?とばかりに見られている。

「…下田さん?」

デカい声の主は明美の病院の患者で、全ての女子事務員に対して「許嫁」と呼ぶおっさんである。年齢問わずである。

髪はボサボサ、羽織ってるシャツは薄汚れ、履いているズボンのチャックは空いている。

(キツい…いろんな意味で許嫁はキツい~)

今日はもともとメイビだったのに、さらにメイビ化が進む。

「ごはん食べに来たんや~。許嫁はなにしてるんや」

「私もごはんに」

(だから許嫁てやめて…)

端的に言う。キモい。

「ちょうどよかったなぁ。一緒に食べようか」

(良くねーよ!!)

完全に周囲から勘違いされる。

このボサボサの許嫁であるという設定は笑えない。おもろいけど。プルプルするけど。

「あれー、あけピーその人だぁれ??」

のんびりした、それでも警戒心が垣間見える声で問いかけてきたのはスゴロクだった。

(あっ、スゴロク忘れてた!)

つい自分の世界に入り、連れの存在を忘れていたメイビは、ボサボサとスゴロクのガチンコ勝負を妄想しプルプルする。

「何やお前、許嫁のなんやねん」

ボサボサは第三者の介入に不満たっぷりの様子。

「俺?俺はねぇ」

ニヤリと笑うスゴロク。

(…悪い予感しかしねー!!)

「あけちゃんの、ダ・ン・ナ・さ・ん!」

(やりやがったー!)

忘れていたのだ。

このスゴロク、実はかなりの愉快犯であることを。

(人のこと変態変態言いやがって…)

「だ、ダンナさん??」

ボサボサは見るからに混乱し始める。

「ダンナさんなんて、ダンナさんなんて…ウワーッ!!」

叫びながらボサボサはファミレスを飛び出して行った。

(自分も大概やろー!)

メイビの心の叫びに気づかないスゴロクは、ニヤニヤとこちらを見ている。

「あけちゃん、何ナンパされてんの?」

「スゴロク、シバく!」

「なんでーっ!?」

夜のファミレスに、もう一つの叫びが上がった。


翌日明美が仕事場につくと、そこには夜中に緊急入院となったボサボサのカルテが載っていた。

ボサボサは、予想外の出来事に激しく混乱してしまうタイプだったらしい。

「ボサボサごめーん!キモいと思ってるけど、許嫁だけは勘弁願いたいけどごめーん!!」

明美の叫びは届かない。


1か月後に発売され、読みたいミステリーナンバーワンにランクインした作品は、敏腕編集者が世の中の冴えない親父を猟奇的に殺害していく恐ろしい内容だった。

「犯人なんてイヤー!!」

敏腕編集者は、今日も作家に振り回されている。


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