第2話 電話の攻防

花咲メイビは焦っていた。

その顔は無表情で、とても焦っているようには見えないが。

しかし、現在進行形でメイビは焦りまくっているのである。

(ヤバい…もう…持たへんかも…)

額に軽く汗をにじせませながらメイビは耐えていた。

しかしそれは、痛みでも苦しみでもない。

耐えるべきは、

(私の腹筋)

そう、メイビは今震えているのである。


主にその腹筋が。


ところで、メイビは今仕事中である。

それは、花咲メイビ的仕事ではなく、ごく一般的であろう原崎明美的事務仕事、すなわに病院の受付に座っている。

それなのになぜ花咲メイビモード、言うなれば腹筋プルプル書きたいモードになっているのか。


ジリリリ…


その原因は、すべてこの電話にあった。

(来いっ!普通の電話!)

そんな願いを込めつつ受話器をとる。

「はい、森永病院です」

いつものトーン、いつもの表情で電話に出る。

しかしここにいるのはメイビだ。明美ではない。

やがて聞こえる受話器の向こうの声。

「あの…シバいてください」

「無理です」

ガチャ。


(しばくいうても…電話やし!)

もうやだ。

プルプルが止まらない。

(か、書きてー!!)

今日もまた、メイビの「変態脳」は重症のようだ。


原崎明美には、妙なクセがあるを

「変体脳」と明美が呼ぶそのクセは、ワケの分からない事態に陥るとそれを「おもろいもん」と分別、それをモチーフに小説を書いてしまうというものだ。

しかも、ただの小説ではない。

おもろい!書きたい!と思って書き始めた小説は軒並み猟奇殺人事件。なぜだ!?

それが世間的にバカ売れしてしまったから、世の中ってのは分からないもんである。

そして今、明美をメイビへと変態させてしまったのは、ほかならぬこの電話なのであった。


事の発端は、30分ほど前にさかのぼる。

ジリリリ…

何の変哲もなく鳴り出した電話に手を伸ばしたのが始まりだった。

「はい、森永病院です」

「あの…」

「はい?」

明美は受付事務員の基本、傾聴の姿勢を崩さない。

「あの」

「はい」

「ぼく、かわいいですか?」

何ですと?!

咄嗟に出たクールな返しを、自分でも褒めてやりたい。

「お電話では分かりかねますね」

「そうですか」

ガチャ。

(見えるかーっ!!)

心の中だけで盛大につっこんで、明美は平静を装った。

(朝からエライもん引いてしもたわ)

咳払いをひとつ。これでいつもの日常に戻れる。


はずだった。


このときの明美は知らない。こんな調子の電話が以後5分おきに掛かってくることを。それをなぜか、悉く明美がとってしまうことを。


(くーっ…もう無理…)

シバいてください以降、もう明美、いやこのときすでにメイビのプルプルは止まらない。おもろい。おもろすぎる。おもろすぎて腹立つ。

(まじシバきてぇ…)

シバいてほしいんなら、シバいてあげればいいじゃない。

そんなことを延々と頭の中で考えていたとき。

「原崎~、何プルプルしてんのー」

隣の席の先輩が声をかけてきた。

「せ、センパイ…もう、限界です…」

先輩は、先程から腹筋に始まり全身まで回ってしまったメイビのプルプルに気づいている。電話の受け答えから、なんとなく起こっている事態にも気づいているのだろう。

「ええのん引いたなぁ」

「ええわけないですよっ!こんなん5分おきに聞かされてたら仕事にも何にもならへんってもんですよ!!」

実際、今日しなければならない伝票の入力が一向に進まない。だってプルプルしてるんだから。

「そーいう日もあるんちゃう?」

「まじすか」

「私はないけど」

「テキトー!!」

完全にこの先輩、おもしろがってやがる。そのことがメイビのプルプルに拍車をかける。

(くそー、書きてーよ。プルプル止まらんならせめて書きたい…)

メイビが変態脳全開でプルプルに耐えているとき、


ジリリリ…


また電話がなった。

先輩はニヤニヤとメイビを見て、受話器に手をかける様子もない。

(くっそー、来い!普通の電話!!)

メイビは必死の思いで受話器を上げた。

「はい、森永病院です」

「あの…みかん好きですか?」

「…好きです」

「そうですか」

ガチャ。

(…死んだ。オレ死んだ…)

ついにメイビのプルプルは限界を迎えた。

机に突っ伏してしまったメイビに先輩が声をかける。

「今度はなんて?」

「みかん…」

「は?」

「…みかん好きですか、て」

「はー!?何それ~」

「知りませんやん…」

「どえらいパターンやなぁ。ある意味パンツの色聞かれるよりおもろいやんっ!」

だめだこの人。完全に私の腹筋を抉ってきよる。

メイビはさらに深く突っ伏した。

と同時に、新たなる好奇心が沸き出してしまった。

(パンツの色て…)

先輩のせいで気になり始めてしまった。

(この電話の人に反撃したい…)

正直、声とかトーンとかで、この電話の主が誰かは分かってしまっている。

もちろん特定はしませんがね、電話やし。

(このパターンに、例のあれをぶつけてみたい…)

メイビは基本に忠実な女だ。

受付事務員たるもの、こうすべきであるという信念ももっている。

ただ、如何せん好奇心が旺盛なのである。

だって作家だし。

というか変態だし。

受付事務員としての矜持なんかより何より、気になることは実行してみたいのである。

(ヤバい…まじでやってまいそう)

メイビは新たなるプルプルに打ち震えていた。

その時。


ジリリリ…


(来たーっ!!)

好奇心に後押しされた作家は強い。

超高速でメイビは受話器に手をかける。

「はい、森永病院です。」

「あの…」

(来たっ!この声!)

咄嗟にあたりを見回す。事務所にいるのは先輩ただ独り。カウンター周辺に患者もいない。これはチャンス!

「あの」

例の電話の人が切り出す前に話し出す。

「パンツの色は何色ですか!」

(やっちまったー!!)

自らの好奇心に押され、とんでもないことを口走ってしまったような気がする。でも今まで散々やられてきた。先手必勝だ。

「…ピンク…」

ガチャ。


沈黙が重い。

(やってしもた…でも、ピンクて…ピンクてー!!)

おっさんのピンクパンツの衝撃が一周遅れて駆け巡ってきたころ、メイビの背中を叩く影。

「…先輩…」

先輩は、無言で親指を突き立てた。

「原崎、グッジョブ」

ああ、私はええ職場環境に恵まれました…

メイビはこの僥倖にまたプルプルするのだった。


それっきり、その電話は止まった。

(私は勝ったのだろうか、あのおっちゃんに)

やっと通常業務に戻れたメイビ、いやもう明美に戻った彼女(もちろん汚い字で書き殴ったメモはひっそりカバンに忍ばせてある)は、ふとそんなことを思う。

そんなとき。

「原崎さーん、入院入りまーす」

外来の看護師の声に顔を上げた明美が見たのは。

(なんと!!)

ストレッチャーに載せられた、さっきまで電話で攻防を繰り返していた相手だった。

「なんか、譫言みたいにピンクのパンツ、ピンクのパンツ言うてるねん。この人そんなタイプの人やったっけ」

外来の看護師の言葉に明美はそっと下を向く。

(…やってもた)

彼は、どうやら外部からの刺激には弱いタイプだったらしい。

(おっちゃんごめーん!!)


明らかにやりすぎた。


それから1ヶ月後、おっちゃんも無事退院を迎えた頃。

世間で話題になっている新作ミステリー小説は、なぜかピンクのパンツを履いたおっさんが電話線にぐるぐる巻きにされて病院の廊下に吊される、という何とも刺激的な猟奇殺人事件だったという。

(おっちゃん、ごめーん!!)

明美の叫びが再び響き渡ったとか、響き渡らなかったとか。

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