第3話

「ただーいまー」

 いつものように帰宅したアラタだったが、いつもと違い、明かりが消えて暗いままの室内からは応えがない。

「ユキさーん? いないのー?」

 玄関から入ってすぐのスイッチを押して、明かりを灯す。

 手洗いとうがいを済ませ、室内へと入ったアラタが見たものは、部屋の隅に置いてあるベッドの側でうずくまるユキの姿だった。

「ゆ、ユキさん?!」

 ただならぬユキの様子に、あわてて駆け寄るアラタだったが、体育座りでひざの間に顔を埋めているユキは、強い口調で言う。

「来るな! 見るでない!」

 そうきつく言われてしまうと、次の一歩を踏み出すのには勇気がいる。

 アラタがユキの元に近づくのをためらう間にも、ユキは消え入るような声でつぶやいている。

「見ないで、くれ……」

 うかつにユキに近寄れないだけに、アラタとしては、彼女の様子を観察する以外に、彼女に何が起きたのかを察する余地はない。そういう意味では、彼女の「見るな」という言葉はむしろ逆効果だった。

 ユキは、アラタが昨日着ていたシャツを着ていた。

 いや、むしろ、アラタのシャツ以外は何も身に着けていない。

 ユキの身体のサイズではゆったりすぎるアラタのシャツだが、ぶかぶかのシャツに身を包んだがゆえに、ユキのしなやかな脚や、その足を抱えている細い腕が、かえって強調されている。

 そして。

 わずかに見える太腿からヒップにかけての曲線が、実に悩ましい。

 思わず生唾を飲み込んだアラタだったが、気を取り直して再びユキの側へと近寄る。

「どうしたの? 何があったの?」

 彼女の肩にそっと触れたアラタだったが、ユキがびくんと身体を振るわせたため、思わず手を離してしまう。

「ワシは……。ワシは……」

 よく聞けば、ユキの声は今にも泣きだしそうな弱々しいものになっていた。

 ユキの隣にそっと座ってみたが、拒絶されている感じはなかったので、アラタはそのまま室内を見渡してみた。

 ユキと同じ視線を取れば、彼女が何に苦しんでいるかがわかるかもしれないと思ったからだ。

 室内を見渡すと、先ほどは気付かなかったものが落ちている。

 ユキの下着。

 あまりじろじろ見るのもどうかと思うが、それも情報のひとつとしてとらえようと思ったアラタは、彼女の下着の一部に、何らかの液体が付着してできたシミを見つけた。

 不意に、察してしまった。

 あくまでも状況証拠しか残されていないし、かなり自意識過剰な結論にも思える。しかし、可能性は高いのではないだろうか。

 ユキは、僕のことを思いながら、自らを慰めていた。

 そして、おそらく、生まれて初めての自慰行為によって、不安ないし後悔のような感情を抱いているのでは?

 そう悟った瞬間、アラタは、心臓の鼓動がひときわ強く鳴ったのを感じ取った。

 彼女は、僕のことをそれだけ想ってくれているのだ。

 もし、仮に、そうであるならば。

 僕は、何をすれば……。


 考えに考え抜いた末、アラタはまず、ユキの誤解を解こうと考えた。

 まず、自分の仮説が正しいかの確認を取る。

「ねえ、ユキさん。その、間違ってたら本当にごめんなさい。なんだけどさ……」

 アラタが話しかけたことで、ユキの耳がこちらを向いたことを確認して。

「その……。さみしくて、自分で自分を慰めちゃった感じ?」

 ユキの身体がびくんと跳ね、なぜそれを! と言わんばかりの驚きの表情を見せる彼女を見て、アラタは違う意味で安心した。

 前提条件が正しかったという結論のもと、アラタは話を進める。

「僕が言うのもおかしい話だけど。その、健全な大人の女性であれば、誰しも一度は必ず経験する行為らしいから、気にすることはないと思うよ」

 本当かどうかは知らないが、おそらく、それほどひどい嘘でもあるまい。それに、普通の事だと理解すれば、ユキの落ち込みも和らぐに違いない。そう考えてそう述べたアラタであったが、ようやくちらりとアラタの顔を見られるようになってきたユキは、アラタが予想していなかった方向に話を持っていった。

「……そなたも、自分で自分を慰めたことが?」

 ここは、正直に答えねばなるまい。

「うん。まあ、ね……」

 恥ずかしそうに頬を赤く染めながら、そう答えたアラタを見たユキは、俄然、興味が出てきたらしい。

「ワ、ワシのことを、想って……。したり、するのか?」

 自分も頬を染めながら、ちょっと上目使いで聞いてくる。

 だが、その質問に対する答えは、ユキが期待していたものとは少し違っていた。

「僕が、ネコのユキさんに欲情してたら、いろいろとマズいよね?」

 言われてみたら、その通りである。ユキがヒトの姿になれるようになってから、まだ二か月も経ってない。アラタがネコのユキを想って自慰行為に励んでいたら、かなりアレな事態となってしまう。

「そ、そうじゃな……」

 がっかりしたのか、アラタから視線をそらし、床をじっと見つめるユキに対して、アラタは、彼女がようやく聞き取れるかどうかの声でつぶやく。

「でも、その……。ヒトの姿のユキさんは、女性として、すごく、キレイだと思うよ……」

 その一言が、アラタがユキを性的な対象として見ることができるという意味だと察したユキは、ひざの間に頭を埋めながらも、口の端をわずかに引き上げて笑みを浮かべた。

「そう、か……」

 自分が、アラタから女として認められていることが、とても嬉しかったからだ。


 ユキがアラタの言葉を噛みしめている間、アラタはずっとユキの隣に座っていた。

 正直な話、先ほどから胸の鼓動が恐ろしいほどに早まっている。

 そういう目で見てはいけないと思っていたのに。

 ユキが自分に寄せてくれている思いを知ってしまってからというもの、アラタは、ユキのことを一人の女性として意識してしまっていた。

 昔からユキは大切な存在だった。

 だが、今は、さらに違う意味でも大切な存在となっている。

 そんなユキのことを、自分のものにしたいと思うのは、あまりにも欲が張りすぎているのではないか……。

 ひとり葛藤し続けていたアラタだったが、ユキの思いと自分の思いとを考えれば、導き出される結論はひとつのようにも思えてきた。

 意を決したアラタは、まっすぐユキを見つめながら言う。

「ユキさん。僕、ユキさんのことが好きだよ。とても。すごく」

 いきなりの告白に、頬を赤らめて視線を伏せるユキだったが、アラタはさらに続ける。

「今すぐ、ユキさんが欲しい。ユキさんのすべてを、僕のものにしたい」

 あまりにも唐突な宣言だった。

 そして。

 ちょっと強引すぎるが、ユキの身体を自分の方に引き寄せて、問答無用で抱きしめてしまう。左腕はユキの背中に回され、右腕はユキの頭を抱えるようにして、右手で彼女の頭をそっと撫でる。

「アラタぁ……」

 ユキは、愛しいヒトの名前を呼ぶと、自分の頬が彼の胸元に密着するような形になるようにして、その身体を預けた。

 アラタは、自分の胸に頬を寄せる愛するヒトの顔に手を添え、ちょっとだけこちらを向かせると、その唇に唇で触れる。

 甘いキス。

 唇を離したアラタの視界には、恥ずかしそうに笑うユキの顔があった。




 お互いの気持ちを確認したアラタとユキは、ヒトとして愛を交わし合う。




 帰宅した後、ろくに食事も取らずに愛を交わした二人だったが、流石に限界だった。お互いに心は満たされているが、腹の方が先ほどから不満げな音を立てている。

「夜も遅いし、適当に何か作るよ」

 そう言って立ち上がるアラタに、ユキはぴったりと寄り添って離れない。

 なんだろうといぶかしむアラタに向かって、ユキは決意表明のように言う。

「ワシも、手伝うとするかの」

 今まで料理だけは避けようとしていたユキの変化に驚きつつも、アラタは心から嬉しそうな声で答える。

「ありがとう。助かるよ」

 裸のままでは風邪をひくので、手早く部屋着に着替えたアラタとユキは、冷蔵庫の中にあるものをピックアップして、簡単な夜食を作った。

 おにぎりだ。

 夜も遅いし、本格的な料理をするわけにもいかない。だからこそ、こんな手軽なメニューとなってしまったが。一応、これでも初めて二人で作った料理だ。そんな気持ちを反映したのか、これが妙に旨い。

 上機嫌のままシャワーを浴びて、身も心もさっぱりした二人は、あとは寝るばかりとなった。

「さて、そろそろ寝るとするかの」

 そうつぶやいてから、両腕を天井に突き上げるようにして伸びをするユキに対し、アラタはごくごく控えめな声で、つぶやくように言った。

「ユキさんが迷惑じゃなければなんだけど、その……」

 両手を突き上げたまま、アラタに視線を動かしたユキに対し、アラタは照れくさいのか、自分の頬を指でカリカリとひっかきながら、ようやく聞き取れるくらいの小さな声で言う。

「今日は、そのままでもいいかなー。……って」

 最初はきょとんとしていたユキであったが、アラタの言葉の意味を悟ると、にやにや笑いを浮かべながら答える。

「ほう。この姿がいいと?」

 音もなくアラタに身を寄せたユキに、頬を赤く染めたアラタは首を縦に振りながら。

「うん……」

 と小さな声でつぶやいた。


 ヒトとネコの姿で一緒に寝ていたベッドに、今ではヒトとヒトの姿で寝ている二人は、あらためて互いの顔をじっと見ていた。

 ユキは、アラタの肩のあたりを枕にして、そっと身を寄せている。

 そんなユキを前に、アラタは感慨深げな声でささやく。

「好きな人を腕に抱いて眠る。っていうのを、前から一度やってみたかったんだよね……」

 視線を交わしていたアラタとユキだったが、ユキはアラタの言う好きな人というのが、自分のことだということに、今さらながら気が付いた。

「そ、そうなのか!?」

 ユキの胸の鼓動が早くなる。

 それに気付いたのか、今度はアラタの方がニヤニヤした笑いを浮かべながら、ユキに問いかける。

「ユキさん、どうしたの? いつもより頬が赤いけど」

「何でもないわっ!」

 本当に軽くではあるが、ぺちんとアラタの頬を叩いたユキは、彼の顔を見るのが恥ずかしいのか、小さく丸まってしまった。

 アラタは、そんなユキをそっと抱きしめると、二人の身体の上に布団を被せた。


 アラタは思う。

 ユキは、自分がこの世にいろいろな未練を残していたから、猫又という妖怪になったのだという。

 だが、はたして、それだけだろうか。

 少し、違う気がする。

 だって、ユキと同じか、それ以上に、アラタにも未練があったのだ。

 もっともっと、ユキと一緒にいたい。

 ユキと同じ時を、これからも過ごしたい。と。

 そんな自分の思いこそが、ユキを猫又という存在にしてしまったのではないか。

 そう思えて仕方がないのだ。

 だからこそ。

 愛するユキを、自分の腕の中で眠らせることができるという幸せを、じっくりと胸の中で味わいながら。アラタは、両方のまぶたを閉じさせようとする睡魔の力に、逆らわずに身をゆだねていくのであった。

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愛猫との甘い生活 RomeoAlpha @ryuichi_aisawa

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