第2話

 あの夜以来、アラタとの共同生活を始めたユキは、アラタが大学やバイトに行っている間、一人で外出したりしているらしい。

 近所の商店街で買い物をしたり、公園で子供たちと遊んだり、道端で老人たちと世間話をしたりしているそうだ。

 大学の講義がすべて終わり、放課後のバイトもシフトが入っていないため、最寄りのスーパーで買い物だけして帰宅しようとしていたアラタは、公園で子供たちと遊んでいるユキの姿を見つけた。

 まるで違和感を感じない、自然な光景だった。

 子供たちの面倒を見ているお姉さん。といったところだろうか。

 ユキがあまりにも楽しそうなので、声をかけずに帰宅しようかとも考えたアラタだったが、そんなアラタの姿を目ざとく見つけたユキは、子供たちに別れの挨拶をして、アラタのもとへと駆け出す。

 そんなユキに対し、子供たちから「おねーちゃん、さよーならー!」の合唱が送られると、くるっと振り向いたユキは、全身をつかって「さようなら」の挨拶を送りかえした。

 全力でアラタの元に走ってきたユキに対し、アラタはしみじみと思ったことを述べる。

「ユキさん、人気者だね。驚いたよ」

「そうか?」

 アラタの指摘に対し、ユキはきょとんとした顔で応じた。

「いや、だって。僕なんか、あれくらいの年齢の子供たちと、会話する糸口すら思いつかないよ」

 そう言いながら、アラタは公園で遊ぶ子供たちの姿を見た。

 急に遊びの輪から抜け出したユキの様子が気になったのか、残った子供たちだけで遊びながらも、こちらにちらちらと視線を送ってくる。

 そんな子供たちにユキが手を振るので、アラタも真似して手を振ってみたのだが。子供たちは嬉しそうな笑い声を残しながら、蜘蛛の子を散らすかのように逃げ去ってしまった。

 アラタは、ちょっとだけショックを受けた。まさか、手を振っただけで逃げられるとは……。

「別に、そんなに気を使わずとも、あの時分の子供らなら、意外と気軽に受け入れてくれるものじゃよ」

 簡単に言ってのけるユキに対し、アラタは素直に同意できなかった。何しろ、たった今、そんな子供たちに逃げられたばかりなのだから。

 がっくりと肩を落として落ち込むアラタをよそに、ユキは続ける。

「ワシの正体について、あの子らは薄々感づいておるようじゃが、誰も何も言わんしのう」

 まあ、たしかに、わからないでもない。

 自分は妖怪だと述べたり、もしかして、あなたは妖怪ですか? なんて会話が交わされるはずがない。そもそも、妖怪が本当に存在すると認識している人間なんて、世間ではちょっとアレな人として扱われるのがオチだ。

 だが、ユキの場合、明らかにヒトじゃない姿をしているのに、それがもとで騒ぎになったりはしないのだろうか。そんなアラタの疑問に、ユキは平然と答える。

「まあ、尻尾は服の下に隠せばよいし、この耳も帽子で隠せるからのう」

 その言葉どおり、ユキは全身を迷彩服で包んでいた。頭からつま先まで、すべてミリタリールックという念の入れようだ。

 なんでも、純白の自分の身体に対し、他のネコが毛並みに柄や模様があることがうらやましくて仕方がなかったそうで。迷彩服を着れば、自分も柄や模様のある毛並みであるかのように思えると考えたらしい。

 アラタからすれば、別に迷彩服でなくとも、ドットやボーダー。それこそ、ヒョウ柄みたいな、模様が入った服なら何でもいいんじゃないかと思うのだが、ユキは、迷彩服をことのほか気に入っている。

 結果、アラタがたまたま持っていた迷彩模様のコートを引っ張り出し、季節外れだというのにそれを着て喜んでいたくらいだ。

 しかしながら、季節に合った服装というものがあるのも事実で。アラタの知らないうちに、ユキがネットで購入した迷彩服がクローゼットに増えていく。という、不思議な事態に陥っている。

 ちなみに、今、彼女が着ているのは、陸上自衛隊が採用している迷彩服だ。緑をベースに、淡い緑と黒や茶色の斑点がちりばめられている。ユキ曰く、「色合いが絶妙でとてもカワイイ」とのことだが、アラタには他の迷彩服との違いがさっぱりわからない。

 それに、帽子からジャケット、スラックスにいたるすべてを同じ迷彩で統一しているのは、もう、やりすぎ以上の何ものでもないように思えるのだが。ユキ本人がいたく気に入っているので、アラタとしては、あまり深くツッコミを入れるつもりはない。

 帰宅して、一緒にご飯を食べ、ネコとヒトの姿で共に眠る。

 そんな平和な日々が、これからも続く。


 ――はずだった。


 お昼過ぎという、洗濯にはかなり遅い時間にもかかわらず、ユキは、洗濯かごに入った洗い物を、次々に洗濯機へと放り込んでいく。

 もともとネコであっただけに、まったりのんびりしているのが好きなユキではあったが、日常生活に必要な家事全般をアラタひとりが担っているという状況について、心苦しく思う点がないわけではなかった。

 アラタは家事全般が得意と見えるし、苦痛にも思っていないようだ。実に女子力が高い。それでも、自分の方が家にいる時間がアラタよりも長い以上、彼の代わりにやれることはやっておこうとも考えた。

 だが、一番の理由は、アラタに褒められたい。アラタの喜ぶ顔が見たい。という、実に純粋かつ単純なものだった。

 残念なことに、ガスコンロを使って料理をするというのは、ネコから猫又へと進化(?)したユキであっても、ちょっとハードルが高い。動物なら等しく抱く、炎に対する恐怖心が完全には抜け切ってはいないからだ。

 コンロがニクロム線で加熱する電気式か、IHクッキングヒーターのような電磁調理器であれば、改善の余地はありそうだが、そもそも、料理全般が未経験なユキからすれば、アラタのように、冷蔵庫の中のものからさっと料理が作れるようになるには、ものすごい経験と修行が必要だ。今はまだ、アラタの手伝いから始める方が望ましい。

 その点、掃除と洗濯は、ヒトとしての経験が浅いユキであっても、何とかなるレベルの家事だった。

 掃除は、ワンルームには不釣り合いなくらい立派な掃除機があるので、アラタが普段やっているように、部屋の隅から隅までかければいい。実家と違い、屋内が狭いのも好都合だ。

 以前、拭き掃除を手伝おうとして、棚の上にあるものを根こそぎ落としそうになったことがあるので、今は床の掃除だけで満足しておこう。

 そして、洗濯である。

 こちらは、ワンルームを借りたときに備え付けてあった電化製品のひとつで、洗濯物を放り込んで電源を入れ、水量とそれに見合った洗剤とを投入すれば、あとは勝手に動いてくれる。実際には水量と洗剤の投入も自動で動いてくれるので、本当にスイッチを押してスタートさせるだけで終わってしまう。

 もっとも、洗濯から脱水までは行ってくれるが、衣類の乾燥まではやってくれないので、洗濯が終わったら、ハンガーなどにひっかけて、ベランダの物干し竿にぶら下げる必要があるのだが。ユキは、自分でも意外なことに、洗濯物を干すことと畳むことが好きなようだった。面倒だと思うこともなく、素直に楽しめているのだから、間違いないだろう。

 もっとも、ユキのために、女性用の下着の洗い方をわざわざネット調べて、その手順にきっちり従うアラタと違い、ユキ本人はといえば、自分の下着を無頓着にもそのまま洗濯機に放り込んでしまったり、色柄物と色の薄い物を分けずに洗うといった、細かな気遣いができていない点については、これから改善すべきところではあるのだが。

 自分が着ていた服を真っ先に洗濯機に投げ入れ、続いて洗濯かごから衣類を取り出しては、洗濯機に放り込んでいくユキであったが、ひょいとつかんだ一枚のシャツから漂う香りに鼻腔をくすぐられ、一瞬、手が止まる。

 アラタのシャツだ。

 一日着用した後で洗濯かごに入れられているだけに、シャツにはほんのりとアラタの匂いが染みついている。

 ユキは、まるで魅入られたかのように、アラタのシャツを見つめている。

 次の瞬間。

 ユキは、アラタのシャツの中に顔を埋めた。

 大好きな、アラタの香り。

 いつになく、胸が高ぶる。心臓の鼓動は速さを増し、頬が熱を持つのがわかる。


 それは、ほんの偶然にすぎなかった。

 シャツを抱えた腕が、ユキの胸に当たっただけだ。

 その瞬間、ユキの身体を電流でも流れたかのような刺激が走る。

 快楽。

 ヒトの姿を取るユキとしては、初めて経験する感覚だ。

 自分の身に何が起きたのかが理解できず、ユキは、アラタのシャツを手にしたまま、自分の胸へと近づける。

 そして。

 恐る恐る、自分の胸に触れてみた。

 再び襲いかかる、甘美な感覚。

「う、にゃっ!?」

 ユキはネコとして長い時を過ごしてきたが、ヒトの姿になったのは、ここ最近のことだ。それゆえに、ヒトのメスの身体の仕組みというものを、完全には把握しきれていない。

 一般的な生活を送る分には問題がない。食事や入浴、トイレだって、初めてのときはネコとの違いに戸惑ったものの、一度理解してしまえば、なんということはなかった。

 だが、今回は違う。

 ネコとしての経験がなかったからだ。

 ユキは避妊手術を受けていたため、発情期というものをほとんど経験せずにいた。それでも、なんとなく誰かに触れてみたくなったり、アラタに身体を撫でられたときに、無意識に腰が持ち上がったりしたこともある。

 だが、強い性的な欲求や快楽といった経験は、当然ながら無きに等しい。

 だからこそ。

 男性と経験をしてみたり、子を生してみたいという思いが未練となって、猫又という妖怪に転生したと考えられるのだ。

 少なくとも、ユキはそう思っている。

 ところが。

 ヒトの姿をしているときに、その発情期めいた性的な欲求に襲われてしまうと、自分が何をすればいいのかがわからない。

 まあ、仮にネコの姿であったとしても、戸惑っていたことは間違いないとは思うが。

 ユキの手は、再び自分の胸へと伸びる。

 胸全体をマッサージするかのようにゆっくりと揉みながら、胸の先端に触れたりすると、思わず息が漏れるほどの快感がユキの身体を貫く。

 不思議な感覚……。

 気が付けば、ユキは、アラタのシャツに顔を埋め、彼の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、自分の胸を慰めることに没頭してしまっていた。

 呼吸は乱れ、頬が熱くなっているのがわかる。


「ふ、にゃあ!!」

 いつの間にか、アラタのシャツをくわえていたユキは、彼のシャツの香りに誘われるように、自分を慰めていく。


 気持ちいい。

 気持ちいいのだが。

 切ない。

 この手が、アラタの手であってくれればと思う。

 こんな風にアラタに愛してもらえるなら。

 こんなに嬉しいことはないのに……。

 愛しい者の名前を幾度も呼びながら、ユキは自慰行為を続ける。


 ユキが軽い絶頂に達するのに、それほど時間はかからなかった。かなりハイペースで自分を慰めてしまっていたこともあるし、何より、これまでに経験したことのない快楽が、彼女にそれを続けさせる理由にもなっていた。

 びくん、びくんと身体が軽く痙攣する中、ユキはアラタのシャツをきゅっと抱きしめながら、ほのかに香る彼の匂いで鼻孔を埋めた。

 初めての性的な悦びの余韻にひたっていたユキだったが、なぜか急に恐ろしくなってきた。

 自分が、してはいけないことをしてしまったのではないか。という罪悪感だ。

 それまでに経験があったり、何か知識を得る機会があれば、そんな気持ちにはならなかったかもしれない。しかし、ユキにとって初めての体験であったことが、彼女の心に不安となってのしかかる。

 ユキは、それまでもてあそんでいたアラタのシャツを自ら着ると、ひざを抱えてうずくまってしまった。

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