第5話
森の奥を駆ける人狼がいる。その毛並みは白く、木漏れ日となった春の日差しが当たると、きらりと光る。
左足に怪我をしたせいで、全力で疾走することはかなわなくなったが、それでもヒトのそれよりは早く走れる。
何よりも、動けなくなるという恐怖から解放されたのがうれしくてたまらない。
そんな人狼の娘の後には、弓を背負った少年の姿があった。駆け足の連続で少々息があがってはいるものの、人狼の娘からさほど遅れずについてこれているのはなかなかのものだ。
そんな少年のことを思ってか、人狼の娘は駆ける足をしばし止めて振り返る。
少年と、群れの狼たちの姿がそこにはあった。
彼女にとって、かけがえのない大切なもの。
仲間と、愛しい人だ。
人狼の娘にようやく追いついた少年は、軽く息を整えながら、彼女に語り掛けた。
「あんまり無理すんなよ。ねーちゃんの足、まだ、治りきってないんだからさ!」
少年としては当然の心配である。
ところが、心配された方はそれが不満な様子だ。
少年の方に顔を少し近づけた人狼の娘は、人差し指で少年の額に触れながら、少し強めの口調で言う。
「ところで、その『ねーちゃん』という呼び方、何とかならんのか?」
どうやら、彼女の不満は、少年に心配されていることではないらしい。
少年が人狼の娘の言いたいことをくみ取ろうと考え込む間、人狼の娘はあきらかに挙動不審な様子で落ち着きがなく、視線はあちこちに泳いでいるし、手や指先を無駄に動かしたり、つま先で地面をつついたりしている。
そのうち、何か決心したのか、急に少年の方に向き直った人狼の娘は、途切れ途切れにつぶやいた。
「あー。その……。私と、お前は。……め、夫婦となったのだから、な……」
それだけ言うと、照れ隠しなのか、木々の隙間からさす光を見上げてしまう。
人狼の娘のいきなりの申し出に、最初はきょとんとした表情だった少年も、彼女の言葉の意味を理解した瞬間、ぱっと笑顔になる。
しかし、それもつかの間、今度は眉を寄せ、うーんとうなりながら腕組みを始めた。どうやら、彼女をどう呼ぶべきかを考えているらしい。
悩みに悩んだ挙句、少年は、人狼の娘をまっすぐ見つめながら、はっきりと呼んだ。
「オルガ」
それは、人狼の娘が少年と出会った頃に教えた、彼女の名前だった。
少年に名前で呼ばれるという新しい経験に、しばらく視線が定まらなかった人狼の娘であったが、やがて、彼女も小さな声でつぶやく。
「ク、クルト……」
少年の名前。
人狼の娘から名前で呼ばれた少年は、頬を赤く染めながら、口の端が自然と上がっていくのが抑えられないようだ。
ところが、提案をした当の本人は、名前で呼ばれることの恥ずかしさに耐えられなかったようで。
「や、やっぱりダメだ! 『ねーちゃん』のままでいい!」
「何だよ! オルガが言い出したんじゃないか!」
少年の声色は怒りを含んでいそうな強いものだったが、顔がにやけたままでは、その意味合いも変わってしまう。
それに。
何よりも、少年から名前で呼ばれた人狼の娘の尻尾が、喜びを隠しきれずにぶんぶんと振られているようでは、彼女の否定的な言葉も逆効果というものだ。
ねーちゃんと呼ばないで RomeoAlpha @ryuichi_aisawa
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