第4話

 人狼の娘の足の怪我は深刻なものだった。

 少年と狼たちによって行われた処置と看病とのおかげで、何とか一命はとりとめたものの、命を落としていても不思議ではないほどの出血を引き起こした裂傷だけに、体力の回復もままならないし、傷の深さを考えれば、後遺症が残るのは間違いない。

 それに、まだ完全には治っていないから、今後、満足に歩けるかどうかもわからないのだ。

 少年から与えられた肉のスープ――とはいえ、肉はほとんど入っていない。一週間の絶食の後、いきなり肉をがっついては、胃が壊れてしまうという少年の配慮からだった――をゆっくりと飲みながら、人狼の娘はぼんやりと今後のことを考えていた。

 だが、はっきりとしない頭で将来のことを考えたところで、不安が募るばかりで、人狼の娘は押しつぶれそうになる。

 そんな人狼の娘を元気づけてくれるのは、狼たちはもちろんだが、少年の存在も大きかった。何しろ、彼女をここまで連れ戻ってくれたのは彼だったし、彼女の脚の傷の手当てをしてくれたのも彼だった。

 一方、少年はといえば、人狼の娘が足を負傷したことによほど腹が立ったのか、普段だったら絶対に見せないような態度と行動とを取っていた。

 まず、人狼の娘が罠にかかった場所へと戻ると、狼たちの手を借りて、トラバサミのいくつかを回収してしまったのだ。娘を苦しめたトラバサミに対する怒りや憎しみもあったが、何より、それが鉄でできているというのが最大の理由となった。

 人狼たちは鉱山を持っていないし、鉱山から鉄鉱石を掘り出すという概念を持っていない。そんな彼らが刀や弓の矢じりを鉄で作れているのは、ヒトやドワーフといった他の種族から鉄のインゴットや鉄製品を購入しているからだ。

 また、人狼の村には鍛冶を生業とする者もいるが、彼らは古い鉄を熱して鍛え、自分たちが欲するものに作り替えることで、様々な鉄製品を作り出している。

 村から離れた人狼の娘ではあったが、つながりを完全に断ち切るようなことはしていなかった。例えば、少年の腰に差してある手斧は、少年が群れに加わってから、人狼の娘が手に入れたものだった。何か必要なものができたときは、人狼の村へと戻っては、物々交換などの方法で、それを入手してくるのだ。

 少年は、娘の怪我に対する報復とともに、人狼の村での今後の取引に使えると考えて、まさに鉄製品であるトラバサミを回収したのだった。

 さらに、少年は、トラバサミが仕掛けられていた森からさほど遠くないヒトの村へと侵入し、家畜として飼われていた牛を連れ出して、群れのねぐらの側まで引っ張ってきた。

 何しろ、群れは生き延びられるギリギリのところで生活している。牛一頭がまるまる獲物として食べられるのならば、一時的にではあるにしろ、群れの食糧事情は一気に改善される。

 ねぐらの側まで引いてこられた牛は、付近に潜む狼たちの気配を感じて、暴れて逃げようとしたが、少年は冷酷にも、腰に差した手斧を牛の頭部へと振り下ろし、その場で牛を解体し始めた。

 群れの仲間に肉を配りながら、少年は、牛の皮を剥いでなめすことも忘れなかった。皮を加工して革にすることができれば、何かと役に立つ。

 それから、肉の一部については、干し肉に加工して保存しておくようにもした。塩が手に入るのであれば、塩漬けにして保存する方法もあるのだが、残念なことに、塩は岩塩という形でも見つかっていないため、それはかなわない。

 干し肉の加工作業には、体力が回復しつつある人狼の娘も加わった。彼女も、支えなしで歩くことは無理だったが、杖をつかって左足をかばいながらであれば、多少は動けるようになっていたのだ。

 群れは少しずつ、在りし日の姿に戻りつつある。

 しかし、もう決してあの頃には戻れないということも、人狼の娘は理解していた。

 もちろん、少年も。


 森が雪に覆われてかなりの日数が経過した頃、人狼の娘の脚に巻かれていた包帯は外され、なんとか杖なしで歩けるまでに回復はしていた。しかし、それでも、歩き方はどこかぎこちなく、走るなど論外だった。

 すでに冬になって長い時間が経過していることもあり、狼たちの活動もおとなしい。何しろ、獲物になる獣の数が少なくなっているから、活発に活動していては、失われた体力を回復できるほどの獲物に巡り合えない可能性がある。

 そんなある夜のことだった。

 人狼の娘は、たき火の中に折った枝を放り投げながら、深いため息をついた。

 最近では、主に少年がやっていた土器づくりや、木材を加工してさまざまな生活用品を作成する作業などに手を出してみているのだが、どうも少年のようにはうまく作れないのだ。

 だからといって、再び狩りに出て獲物を捕ってこれるかと聞かれると、この脚の状態では不可能に近い。狼たちに獲物を駆り立ててもらい、こちらに向かってきた獲物をしとめるようにすれば、あるいは可能かもしれないが、最適な場所への移動については、自分の脚で動かざるを得ない以上、難しい場面が出てくるのは間違いない。

 その点、最近の少年はめざましい活躍を見せている。

 それまで人狼の娘が行ってきたことのすべてを、彼が代わりになしとげられるのではないかと思うくらいだ。

 少年の成長は素直に嬉しい反面、自分が群れに必要とされなくなっているどころか、負担にすらなっているということを認識してしまうと、不安はつのるばかりとなる。

 とりあえず、今の彼女にできることといえば、狼たちとともに狩りに出かけた少年の帰りを待ちながら、彼らが戻ってきたときのために、たき火の炎を消さないように番をすることくらいしかないのだ。

 手元にある薪のひとつを取ると、人狼の娘はそれをたき火の中にくべた。

 再びため息をついた人狼の娘だったが、彼女の表情に警戒の色が浮かぶ。

 何かの物音と、誰かの気配を感じたからだ。

 全身の神経を集中させて、接近してくる何かの正体を把握しようとしていた人狼の娘だったが、その集中をあっさりやめて、落ち着きを取り戻した。

 誰が近づいてきているかを認識できたからだ。

 これまで火を絶やさぬことに集中していた人狼の娘は、今度は火の勢いを強めるべく、薪のいくつかをたき火に投入した。

 群れの仲間が戻ってくるのだから、ねぐらは温めておいた方がいいだろう。


 戻ってきた仲間たちは、なかなかの戦果をあげていた。

 二頭のヤギだった。

 ヤギも狼と同様に群れで生活する生き物であり、その群れを効率よく襲うことができれば、複数の獲物を得ることも可能となる。

 ヤギのうちの一頭は、狼たちが仕留めたものらしく、喉元にくっきりと歯形がついている。

 もう一頭はといえば、こちらも首筋に傷を負っているのだが、この傷は狼たちが付けたものではなく、どうやら矢が突き刺さった痕らしい。

 つまり、このヤギを仕留めたのは少年ということになる。

 群れの仲間でヤギの肉を分け合いながら、人狼の娘は少年の姿をちらりと見た。

 実にたくましくなった。

 顔立ちはまだまだ子供らしさを残してはいるが、少しずつ大人への仲間入りをしている最中であり、体格などは、出会った当初から比べると、かなり男らしくなってきている。

 狼たちとも会話こそできないものの、意思疎通は十分にできているようで、今も群れの中で一番若い狼とじゃれあって、楽しそうに笑っている。

 そんな少年の姿を見ると、人狼の娘の心の中に、ふとした疑問が浮かんでくる。

 自分はもう、この群れに必要とされていないのではないか。

 というものだ。

 不安を表面に出すまいと、気丈にふるまっている人狼の娘だったが、ほんの些細な普段との違いを、少年は的確に見抜いたらしい。それまで一緒に遊んでいた狼と離れると、人狼の娘の隣にそっと座った。

「ねーちゃん。まだ、脚は痛む?」

 少年の視線の先には、人狼の娘の左脚があった。

「いや、かなり良くなったよ。今では杖なしで歩けるようになったしな」

 人狼の娘は左脚の傷跡をさすりながら答える。

「全部、お前たちのおかげだよ。本当にありがとう」

 柔和な笑みを浮かべながら、人狼の娘は少年に礼を述べた。

「……でも、どうして急に?」

 娘の問いに対し、少年は心配そうな表情で答える。

「だって。痛みのせいで食欲がないのかな? と思って……」

 少年が指さしたのは、人狼の娘用に切り分けられたヤギの肉だった。

 以前の彼女ならば、すでに平らげてしまっているサイズのはずだが、渡されたときの半分くらいの大きさになった状態で、彼女の手の中に残っている。

「あ、いや。別に、そういうことではないんだ」

 人狼の娘は、あわててヤギ肉を小刀で切り取って口に放り込むと、いつも以上によく噛んでから飲み込んだ。

「お前たちが捕ってきてくれた獲物だから、しっかり味わって食べようと思って、な」

 自分に笑顔、笑顔と言い聞かせながら、人狼の娘は少年に対して答えた。

 しかし、少年の方はあきらかに不満そうな表情を浮かべている。

「ねーちゃん。俺ってそんなに頼りない?」

 すっと上体を人狼の娘に近づけながら、少年は人狼の娘を見つめた。

「何か悩んでるんだったら、俺、いつでも話を聞くよ?」

 そんな少年のまっすぐな瞳の力に押されてか、人狼の娘は少年から視線をそらし、ねぐらを雨から守ってくれる、崖の張り出しを見上げながら答える。

「ん? ああ、そうだな……」

 残念ながら、驚くほどよく観察していると思わざるを得ない。

 適当な言い逃れをしてみたところで、この子は確実にそれを見破るだろう。

 人狼の娘は覚悟を決めた。

 そして、その胸の内に秘めた思いを、少年に語り始めた。


 歩けるようにはなったものの、走れるかどうかわからぬ不安。

 群れの負担になっているという苦しみ。

 そして、少年がたくましく育っていることへの喜び。

 人狼の娘の話を、少年はだまって聞いていてくれた。

 そんな風に話を聞いてもらえるだけで、彼女の胸の中にある不安の一部が、炎の前の雪のように溶けていく。

 いつにない安心を得たせいだろうか。人狼の娘は心の中にひっかかっていた思いを、明確な意思にもとづかぬままにつぶやいてしまった。

「野山を駆けまわれぬのであれば、群れの中にいる資格はない。自分の食い扶持すら狩れぬようでは――」

「俺が狩るよ!」

 そんな人狼の娘の言葉を、聞きたくないと言わんばかりに叫んだのは、少年だった。

「ねーちゃんが走れなくなったとしても、俺がねーちゃんの分も獲物を捕ってくるよ! そもそも、あいつらだって、ねーちゃんの脚の具合は知っているし、そのことで文句なんて言わないさ。だから、自分は群れにいらないなんて言うなよ!」

 少年のあまりの剣幕に、人狼の娘が何も言えずにいると、少年はさらに続ける。

「それにもし、絶対にありえないけど、群れの仲間たちがねーちゃんを見捨てるようなことになったら、その時は、俺は、ねーちゃんと一緒に群れを離れるから」

 胸に手を当てながら、少年は力強く宣言した。

「俺は絶対に、ねーちゃんを一人にはしない!」

 目に涙をためながらそう叫ぶ少年の姿を見て、人狼の娘は、彼の頭に手を伸ばすと、その頭をそっと撫でる。

「お前は、優しいな……」

 つぶやくように言った人狼の娘は、少年を手元に引き寄せると、彼を優しく抱きかかえた。

 急に抱きかかえられたことに対し、最初は戸惑っていた少年だったが、今では人狼の娘の胸の中でおとなしくしている。

 ……おとなしくしているはずだったのだが。

 徐々に、少年の落ち着きがなくなってきた。

 身をよじったり、身体をこわばらせたりしている。

 怪訝におもった人狼が少年を解放すると、そこには顔を真っ赤に染めた少年がいた。

「ごめん。ねーちゃん……」

 人狼の娘が恥ずかしそうにしている少年の姿を観察していると、彼が彼女の視線から何かを隠そうとしていることに気が付いた。

 少年の腰を覆う毛皮の一部が隆起している。

 少年のちょっとした隙をついて、人狼の娘が毛皮の端を引き上げると、そこには、少年のたくましい男性自身が、誇らしい姿を保っていた。

 少年の頬がさらに真っ赤に染まっていく。

 人狼の娘は、視線を少年の下半身から少年の顔へと動かしたが、そこで少年と視線が重なる。

「だ、だって!」

 誰もそれを求めてはいないというのに、少年は急に釈明を始めた。

「ねーちゃんの胸、すっげー柔らかいし、ねーちゃんの身体からはいい香りもするから、その、それで……」

 その語尾は、徐々に弱く、小さくなっていく。


 最近は、本当に驚かされることばかりだ。

 まだまだ子供だと思っていた少年に、命を救われたこともそうだし、彼が群れのリーダーを務められそうなくらいに成長していることもそうだが。

 そんな少年が、性的にも一人前の男になりつつある。ということにも。

 本当に、驚かされる。


 人狼の娘は、少年に問いかけた。

「私を見て、私と触れ合って、そうなっている。ということか?」

 少年は、小さくうなずく。

「そうか……」

 崖の張り出しを再び見上げながら。人狼の娘は、先ほどの少年の言葉を頭の中で繰り返した。

「……ちょっと、嬉しいな」

 少し伏し目がちにしながら、人狼の娘は少年を見つめる。

「その……。私を、一人の女として認めてくれている。ということだろう?」

「ねーちゃん……」

 人狼の娘は、少年の視線から逃げるように顔をそらすと、手近にあった薪のひとつを火にくべる。

 ねぐらの中に、ぱちんと炭がはねた音が響いた。

 あまりの静けさに周囲を見回すと、いつの間にか、たき火の周りから狼たちが消えている。

 まるで、二人だけの時間を作ってあげようとしているかのようだ。

 しばらく続いた沈黙の間に、何かを決意した少年は、まっすぐ人狼の娘を見つめると、ひとつ深呼吸してから、しっかりとした口調で言った。

「俺は、ねーちゃんが好きだ。大好きだ!」

 少年の顔は、今では耳まで真っ赤だ。

 だが、その眼は真剣そのもので、嘘や偽りを述べるときのそれではない。

 少年のまっすぐな好意を前にして、人狼の娘は、自分の心の中が喜びに満たされていくのを感じた。

 この子は、こんな私のことを愛してくれている。

 じゃあ、私は?

 その疑問に対する答えを、人狼の娘はそのまま声に出した。

「私も、お前のことは大好きだよ」

 そして、両手を伸ばすと、再び少年を引き寄せて抱きしめようとする。

 だが、少年は思わぬ行動に出た。

 人狼の娘に抱き寄せられた少年は、彼女の頬を両手で包むと、自分の唇を彼女のそれに重ねたのだ。

 目を白黒させている人狼の娘に対し、重ねていた唇を放した少年は、恥ずかしそうに語る。

「ヒ、ヒトの間では、愛しい相手に対して、こうするんだ……」

 その行為の意味を教えてもらった娘は、その意味をしっかりと理解したうえで、少年の唇を奪った。




 人狼の娘と少年は、ただの男と女として、お互いを求め合う。

 少年の初めてを受け止めた人狼の娘は、自分の奥に放たれた少年の暖かさを感じるのだった。




 名残惜しかったものの、互いに無理な姿勢を取らずに寄り添いあうことができるようになったことは、かえって好都合だった。

 人狼の娘は、尻尾をふりふりと振りながら、少年の胸元に頬を幾度も摺り寄せる。

 そんな人狼の娘をそっと抱きしめた少年は、やがて、人狼の娘と共に眠りへと落ちていった。

 愛しいヒトを、互いの腕に抱きながら。


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