第3話

 たった一匹で駆け戻ってきた狼を見て、少年は軽い胸騒ぎを覚えた。一緒に狩りに行ったはずの群れの仲間と、人狼の娘の姿が見えないからだ。

 短く一声吠えると、さもついて来いと言わんばかりにこちらを振り返る狼の様子に、差し迫った何かを敏感に感じ取った少年は、あわてて腰に手斧を差すと、狼の後に続いて走り出した。


 狼に案内された少年が、人狼の娘のもとにたどり着いたとき、陽は完全に落ちていた。かわりに顔を出した大きな満月が、夜の森の中を意外なほど明るく照らしている。その明るさは、少年が松明の類を用いずに、周囲の状況を目視で把握できるほどだった。

「ねーちゃん!!」

 少年は人狼の娘に駆け寄ると、幾度か彼女の頬を叩いてみた。だが、反応はない。

 彼女を苦しめいているものがなんであるかは、一目で理解できた。

 トラバサミ。

 中央の仕掛け部分を踏むと留め金が外れ、左右に分かれた半円状の部品が互いに合わさるような形で閉じる。半円状の部品には鋭い歯がついていて、捕らえた獲物を逃がさないようになっているのだ。

 彼女が捕らえられたトラバサミは、大型の獣に対して使われる大きさのものであり、小型の動物がこれを踏んだ場合、足首を骨ごと粉砕され、最悪の場合は切断される恐れすらある。

 走っている最中に捕らえたのか、彼女の足にはトラバサミの歯がつけた裂傷が走っている。そして、その裂傷からの出血を止めるためか、ふくらはぎのあたりが紐でしばられていた。

 少年は、これまでの人生で培ってきた知識のすべてを総動員して、どうすれば彼女を救えるかだけを考えていた。

 少年は真っ先にトラバサミに手を伸ばした。彼女を痛めつけているこの憎たらしい罠を、少しでも早く外したかったからだ。

 だが、残念ながら、トラバサミの挟む力は強すぎて、少年の力では、この罠の顎から人狼の娘の足を抜き取ることはできない。

 少年は小さく舌打ちした。

 何か道具が必要だ。

 少年は周囲を見渡すと、手ごろな大きさの石を拾い上げ、トラバサミの顎の部分に押し込んだ。これ以上、トラバサミが閉じるのを防ぐためだ。これで、彼女の脚にかかる負担も多少は和らぐだろう。

 彼女が罠にかかった場所がどこだかはわからないが、これだけの怪我を負いながらも、ここまで移動してきたということには素直に驚いた。そして同時に、彼女が這って進んだ跡がしっかりと地面に刻まれてしまっていることにも気づく。

 もし、この罠を仕掛けた人間がこの跡をたどってくれば、我々と遭遇してしまうだろう。

 もっとも、今は夜だから、罠を仕掛けた猟師が追ってくる心配はそれほどない。夜の森に足を踏み入れるような危険を冒す人間など、そうはいないからだ。

 それでも、とにかく、一刻も早くここから離れなければならない。

 何しろ、敵は人間だけではない。例えば、他の狼の群れだったり、何がしかの肉食獣と遭遇すれば、衰弱しきった彼女をめぐる争いが発生するのは避けられないだろう。

 さて、少年と狼の群れはここから移動するわけだが、人狼の娘をどうやって運ぶかが問題になる。

 少年は順調に成長しているとはいえ、人狼の娘と比べると、わずかに身長が低い。

 いや。訂正する。

 正直に言うと、頭ひとつくらい低い。つまり、体格的には劣っている。ということになる。もちろん、体力面でもだ。

 ゆえに、彼女を抱きかかえて連れて戻るのは、腕の力の関係上、不可能だろう。

 だからといって、彼女を引きずりながら移動するのは論外だ。地面に移動した跡が残るし、彼女の身体にさらなるダメージを与えかねない。

 彼女を乗せる担架を作る。というのも方法のひとつではあるが、今は一刻も早くこの場を離れたい。となると、この案も使えない。

 となれば、残された選択肢はひとつ。

 少年は、人狼の娘を背負った。

 意識を失ったヒト特有の、ずしりしたと重みが全身にかかるが、重すぎて動けないほどではない。

 さらに、少年は、トラバサミからぶら下がっている鎖を手に取る。これを引きずった跡を残しては、彼女を背負った意味がないからだ。

 少年は不意に、狼がたった一匹で戻ってきた理由を理解した。群れの仲間は、傷つき倒れた人狼の娘を守るために、彼女の周囲に広がりながら、警戒していたのだ。

 その狼たちが、今では少年と人狼の娘のもとに集まってきている。

 少年は、群れの仲間たちに指示を出した。

「僕は夜目がきかない。だから、みんなで周囲を警戒してくれないか?」

 当然ながら、少年の言葉を狼たちは解しない。しかし、声の調子に身振り手振りを加えて話す少年の様子と、現状とを考慮すれば、狼たちにも少年が何をしようとしているかは理解できる。

 狼の一頭が、よく響く声で遠吠えをした。

 それにならい、群れの狼たちが遠吠えを重ねる。

 周囲の獣たちへの警告だ。

 俺たちはここにいるぞ。と。

 ひとしきり吠えた狼たちは、少年と人狼の娘を囲うようにして広がっていった。

「ありがとう。みんな……」

 自分の意を察してくれた狼たちに礼を言いながら。少年は、人狼の娘を背負いなおすと、群れのねぐらへと向かって歩き出した。


 気づくと、ふわふわとした温かい何かに包まれていた。

 いや、包まれているのではない。背負われているようだ。

 狼の背中。

 懐かしい香りがする一方で、何か違和感も感じる。

 自分を背負えるような体格の良い狼は、群れにはいないからだ。

 不意に、別の香りを感じ取った人狼の娘は、自分を背負っているのが誰かということをはっきり理解した。

 人狼の娘の口の端が、笑みを浮かべるかのようにゆっくり上がる。

 まったく。いつの間にか立派になって……。

 少なくとも、罠を仕掛けたヒトに捕まる危険性はなさそうだと判断した彼女は、心から安心するとともに、再び意識を失った。


 ねぐらにたどり着いた少年は、背負っていた人狼の娘をそっとおろすと、彼女を苦しめているトラバサミに再び向き合った。

 狩猟用の罠としては割と一般的な部類に入るトラバサミは、少年の記憶の片隅にも、いくつかの断片的な情報として残されていた。

 村を囲う森の一部には、このトラバサミが仕掛けられているから、絶対に立ち入ってはならない。と、大人たちから言われたこともそうだったし、猟師をしていた叔父の手伝いで、いくつかのトラバサミを背負って森に入ったことも、少年の記憶の一部として残っている。

 そして、叔父の取った行動のひとつが、今、彼が必要としている情報そのものであった。

 叔父は、地面に無造作にトラバサミを置くと、トラバサミと鎖でつながった杭を地面に踏みつけて打ち込んだ後で、トラバサミの片側にある曲がった金属の板を踏んだ。すると、固く閉じた罠の部分がゆっくりと開き、口を開いた状態になったのだ。

 叔父は手早く留め金を動かして、踏み板につながる棒に接続すると、上体を起こして安全な距離を取ってから、踏みつけて曲げていた金属板から足を放した。

 曲がった金属板は元の姿に戻ろうとするのだが、トラバサミの顎の部分が留め金によって押さえつけられているため、口を開けた状態が保持される。

 獲物が踏み板を踏むと、留め金を抑えている棒がずれ、留め金が顎の部分から外れてしまう。次の瞬間、元の姿に戻ろうとしている曲がった金属板は跳ね上がり、先端にあるリング状に加工された部分が、顎の根本を閉めるように作用する。その結果、トラバサミは獲物の脚にがっちりと噛みつくことができるのだ。


 少年は改めて、人狼の娘の脚に喰らいついているトラバサミを見た。

 顎となる半円状の部品の両端に、曲がった金属板がついている。つまり、ばねとして利用されている金属板がふたつもある。ということになる。その分、娘の脚を閉める力は強力になっているわけだ。

 この金属板を踏みつけて押し下げることができれば、トラバサミは自然と開くはずだ。

 少年は、ねぐらに敷いた毛皮の上に寝かせていた人狼の娘を、なんとか抱え上げると、崖の壁面に寄り掛かるようにして寝かせた。そして、罠に喰らいつかれている左足を動かし、立膝の姿勢を取らせる。

 トラバサミが地面に着いた。

 少年は覚悟を決めると、ゆっくりと片方の金属板の上に足を乗せる。その結果、金属板は曲がった。だが、もう一方の金属板は上がっている状態なので、トラバサミの顎は開かない。

 もう片方の金属板に少年が足を乗せると、両方の金属板は等しく曲がり、娘の脚を拘束している力が弱まる。だが、金属板は完全には下がりきっていない。少年の体重だけでは、トラバサミを開き切るには足りないのだ。

 少年は身体をくの字に折り曲げると、地面と水平になった背中を指さしながら狼たちに叫んだ。

「ここに乗ってくれ!」

 当然、狼たちに少年の言葉はわからない。

 それでも、狼たちが少年の意図を察するのに、それほど時間はかからなかった。少年と娘を囲んでいた狼うちの一匹が短く吠えると、少年の求めに応じて、彼の背中に飛び乗る。

 金属板がさらに沈み込み、トラバサミの顎が娘の脚から離れた。

 だが、それでも、金属板を曲げきれるほどの重さには届いていない。それに、留め金は娘の脚の陰に隠れてしまっていて、トラバサミの顎を部分を固定することはできずにいる。

 もっとも、少年はそれを望んではいなかった。

 彼は、トラバサミの顎から彼女の脚を引き抜けるだけの余裕さえ得ることができれば、それで十分だったのだ。

 少年は、人狼の娘の脚に手を伸ばすと、彼女の脚をトラバサミの顎から素早く引き抜いた。

 そして、周囲の安全を確認したうえで、踏んでいた金属板から足を放す。

 トラバサミは再び顎を閉じたが、その口にはいかなるものも挟まれてはいなかった。


 トラバサミから人狼の娘の脚を解放した少年だったが、やることはまだまだ残されている。

 彼女の傷の手当てをしなければならない。

 彼女の左足に刻まれた傷は、かなりの深さと長さがある。それにもかかわらず、あまり出血をしていないのは、彼女が止血のために脚を縛っておいたからだ。

 だが、少年が気付いていないことがある。

 あまり長い時間止血していると、養分と酸素を供給する血流が失われてしまい、細胞組織が死に始める。ということだ。

 人狼の娘は、一度拘束を解いて血流を回復させ、その上で再び縛り上げたわけだが、それ以降、血流を回復させる動作は行われていない。

 しかし、知識として知りえぬ以上、少年は自分ができることをする以外に方法がなかった。

 少年は、かつては彼が着ていた服の一部であった布の切れ端を、ねぐらの奥から取り出すと、たき火の燃えさしの上に置いた土器の中へと放り込んだ。

 実に不格好な土器だったが、これも少年が作ったものだった。

 ある種類の土は焼くと硬くなることを、祖父から教えてもらっていた少年は、ねぐらの周囲にある土のいくつかを集めると、平らな板状に加工して、たき火の中にくべてみた。

 ほとんどの土は期待外れの結果になったが、川の側から採取した土は、少年が期待した通りの姿になった。

 少年はその土を集めると、いろいろな器の形を作ってはたき火の中に放り込んでいった。

 ろくろはないし、土から小石のような不純物を十分に取り除けていないし、気泡だって抜き切ることができていないため、薄く加工することなど不可能だったから、どの器も不格好だった。それに、土器を焼くときの火の加減も難しいため、器としての機能を備えた土器はほとんど完成しなかった。

 だが、それでも、かなりの数を作ったおかげで、いくつかの土器は器としての機能を満たすことができていた。今、少年が使っている土器も、そんな努力の結果のひとつだ。

 布を放り込んだ土器の中には水が注がれており、たき火の燃えさしから十分に熱せられているおかげで、煮立った状態になっている。

 いわゆる煮沸消毒だ。

 これは祖母から習った知識で、少年は、包帯として使う布は、ただ水で洗うのではなく、鍋の中に放り込んで煮たうえで、冷ましてから使った方がいいと教えられていた。

 十分な時間をかけて布を煮てから。少年はやけどをしないように棒を使って、湯の中から布を取り出すと、燃えさしの上に隙間をつくるように渡したいくつかの棒の上に広げて置いた。これで濡れた布を乾かそうという意図だ。

 布を乾かしている間に、少年は、ねぐらの近くにわざわざ植えておいた薬草を手早く摘んでくると、薬草をしっかりと揉んでから、彼女の脚の傷に押し当てた。

 次に、燃えさしの上で乾かしていた布をつかむと、空中で振り回して冷ましてから、彼女の傷を覆うようにして貼り付けた薬草がはがれないように、ぐるぐると巻きつけていく。それも、なるべく強めに。だ。

 彼女の左足の傷をすっかり覆い尽くすと、少年はそこで初めて彼女の脚を拘束していた紐を緩めた。

 しばらくすると、彼女の脚を覆う包帯の一部に血がにじんできた。だが、傷の大きさに比べると、思ったほど大量の出血をしているようには見えない。これは、包帯を強く巻いたことによる圧迫止血はもちろん、少年が摘んできた薬草が持つ止血効果も原因のひとつではあるが、少年が傷への処置を行う前に、彼女が流した血そのものが、彼女の傷口の殆どにふたをしてしまったという事実があるからだった。


 少年はこれだけの処置をやりとげると、強力な睡魔に襲われ始めた。

 無理もない。

 狼の後を追ってかなりの距離を走った後は、同じ距離を人狼の娘を背負った状態で歩いて戻ってきたからだ。

 最近の食糧不足もあって、疲労は極限に達していた。

 少年としては、人狼の娘の看病をしたい気持ちは強いのだが、彼の体力はそれを許さない。

 少年は、人狼の娘の身体を横たえると、その隣で気絶するかのように眠り始めた。


 少年が目覚めると、人狼の娘は、固く閉じられた口の奥から小さなうなり声を上げていた。かなり苦しそうな声だ。

 彼女の身体に触れると、驚くほど冷たくなっている。

 少年はあわてて毛皮の類をねぐらの奥から取り出すと、人狼の娘の上にかけてやった。

 次に、火の世話をしなかったために、燃えさしすら残らずに消えてしまっているたき火のもとに薪を集めると、手慣れた調子で火を起こした。

 それから、狼たちの一部を呼び寄せて人狼の娘に添い寝をさせるとともに、自分も彼女の傍らで横になり、身体を密着させる。

 たき火の炎と、狼と自分の体温とで、人狼の娘の体温を回復させよう。ということだった。

 かなりの時間はかかったが、彼女の体温は徐々に回復していき、平熱に近いものになっていった。

 ところが、今度は逆に、彼女の体温は平熱を超えて上がり始めていた。人狼の娘の口が開き、舌を出して荒い呼吸をし始める。

 少年は、これまでとまったく逆の対応をすることになった。

 川で汲んできた水を布に浸して湿らせると、彼女の身体を拭いていく。人が汗をかくのと同様に、彼女の身体を湿らせて、水分が蒸発するときの気化熱で体温を下げようとしたのだ。

 それから少年は、人狼の娘の口の周りを濡れた布で湿らせてやったり、彼ができるあらゆる手段をつかって、彼女の看病をし続けた。

 人狼の娘の回復を信じながら看病を続ける以外に、彼が取れる行動はなかったからだ。

 狼たちも、人狼の娘につきっきりで世話をしている少年のために、彼らができることを黙々とこなしていた。小さいながらも獲物を取ってきて、群れの仲間全員の飢えをしのいだり、少年が疲れて眠ってしまっている間に、人狼の娘の様子を見たり。といったものだ。

 そんな少年と狼たちの努力は、一週間という長い時間をかけてようやく実を結ぶ。

 人狼の娘が、目を覚ましたのだ。


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