第2話

 あの日以来、一番下っ端の仲間として群れに加わった子供は、人狼率いる群れに少なからぬ影響を与えていた。

 最初の騒動は、彼が火を使い始めたことだ。

 人狼の娘は、狼たちが炎を恐れることを知っているから、これまでに火を使ったことは一度もない。しかし、ヒトの子供は、生肉が食えないという理由と、夜の寒さに耐えられないという二つの理由から、実にあっさりと火をともして見せた。

 人狼からもらった紐と、すこし湾曲した木の枝とで火おこし弓を作ったのだ。

 あとは、枝を落として表皮を削って磨いた木の棒を、火おこし弓の弦の部分に幾度か巻き付けて、刻み目を入れた硬い木の板なり皮なりに押し付けて、火おこし弓を前後に素早く動かせば、棒と板との間に生じる摩擦熱によって、火種を得ることが可能になる。

 火種さえ得られれば、あとは枯草などで火種を優しく包んで、ちょっとした風を送ってやれば、あっという間に火がつく。

 子供がたった一人で火をつけられるということにも驚いたが、もっと驚いたのはその手際の良さだ。実に手慣れたもので、幾度も経験して身につけたとしか思えない。

 どうも、これら一連の手順は、彼の祖父から伝授されたものらしく、よほど湿った環境でもない限り、さほど時間をかけずに火をつけることができるらしい。

 最初は炎を恐れて、たき火を遠巻きにしていた狼たちも、それが日常になってしまうと、火に対する恐れも消え、今ではたき火のそばで身体を温めるようなことまでするようになった。

 群れの変化はそれだけではない。

 ある日、仲間の狼の一匹が、狩りの獲物として追っていたイノシシから、手痛い反撃を受けたことがある。群れに追い立てられて逃げるはずのイノシシが、群れへとまっすぐ突進してきたのだ。それはあまりにも素早く、狼の一匹はイノシシをよけきれなかった。そして、その狼はイノシシの牙によって、足の付け根に裂傷を負ってしまったのだ。

 この場合、群れの仲間にできることは、彼の回復を祈ることだけだったし、傷を負った狼は、ただじっと体力の回復と傷の治癒を待つことしかできなかった。もちろん、回復がかなわずに命を落とした仲間も、これまでにはいる。

 ところが、あの子は、小川から真水をすくってくると、狼の傷口を丁寧に洗った。そして、あたりを必死に探し回って見つけたらしい草を、よく揉みほぐしてから傷口にそっと当てた。そして、それを毎日繰り返したのだ。

 すると、どうだろう。

 普段なら長い時間をかけてふさがる傷が、思ったよりも早く治ったのだ。あれだけの怪我をしたならば、下手をすれば死ぬ可能性だってあったというのに。だ。

 子供が言うには、婆ちゃんから切り傷に効くと教えられた薬草を、教わった通りに使ったのだという。

 この出来事が、群れの中での彼の地位を確固たるものにするきっかけになった。

 当初はヒトの子供をしぶしぶ受け入れていた狼たちも、彼は群れの役に立つと気づいたのだ。今までなら生死の境をさまよいかねない怪我を、治せる可能性があるというのは、狼たちにとっては驚き以外の何物でもなかったからだ。

 人狼の娘から弓の使い方を教えてもらい、自分の力でそれなりの獲物を取れるようになると、その地位はさらに増した。

 そのおかげで、今では彼も、狼たちから群れの一員として完全に認められている。

 その証のひとつが、彼が身に着けている狼の毛皮だろう。

 深い森の中での生活は、ヒトが作った服を瞬く間に損耗させる。そのため、彼が着ていた服は、あっという間にただのボロ布へと変わってしまった。

 服を失い、生まれたままの姿になってしまった彼が、あまりにも恥ずかしがるので、人狼の娘は獲物の皮をなめして服を作ってやった。しかし、それもすぐダメになってしまう。

 もっとも、その最大の理由は、彼が成長期を迎えて、見る見るうちに身長が伸びていくことにあったのだが。

 腰のまわりに申し訳程度の毛皮を身に着けていることと、足を保護するために革を巻いている以外は、特に着るものなどなかった少年は、死期の迫った狼からひとつの願いを託された。

 自分が死んだら、その毛皮をなめして、身にまとってほしいと。

 仲間の毛皮をなめして着るという事態を受け入れきれず、最初は断った少年であったが、本人のたっての願いと聞かされては、断り続けることもできなくなった。

 死期の近づいた狼は言う。

 君が私の毛皮を身に着けていてくれれば、自分が死んでも群れの仲間と共にあることができる。それは、自分の喜びに他ならない。と。

 ほどなくして死を迎えた狼を前に、号泣した少年は、生前の約束通り、丁寧な仕事で、彼の毛皮を生前と見間違うかのように完全な状態で保存した。そして、彼はその毛皮を誇りをもって身に着けている。

 彼が来てから、群れは三度の冬を越した。

 その間、少年の群れの中での地位は、人狼、最年長の狼の夫婦に続く、第三位にまで上がっていた。


 そんなある日のことだった。

 その年は、夏があまり暑くなかったこともあり、植物がよく育たなかった。

 その結果、草食動物たちの数が減り、それを餌としている狼たちも飢えている。

 人狼の娘は群れのために、普段なら足を踏み入れぬヒトの住む村の近隣にまで出かけ、獲物を探すようになっていた。

 流石に、人間が育てている家畜を襲うのはリスクが高すぎる。しかし、人里に近い山林は手入れがされているおかげで、下草を食む草食動物たちの数もそれなりにあった。彼女はそれを狙ったのだ。

 風上からゆっくりと探索を続ける。狼たちも左右に展開し、獲物の気配を探って歩く。

 草の揺れ動く微かな音が聞こえたのは、その直後だった。

 狼たちの耳がぴんと立ち、獲物の姿を見つけようとにおいを嗅ぎ、目をこらす。

 次の瞬間、飛び出してきたのは灰色のウサギだった。

 身体は小さく、群れの全員の腹を満たすことはできないが、今ではこれでも立派な餌だ。狼たちが一斉に動き出す。

 人狼もそれにならった。だが、彼女は狼たちとは違い、手にした武器がある。

 弓だ。

 これなら、獲物が遠く離れていても、射貫いて仕留めることができる。

 人狼の娘は、よりよい射点へと移動すべく駆け出した。狼たちはウサギを追い立て、彼女の前へと導いてくれるはずだ。

 だが。

 全力で走る彼女の左足を、何かが捕らえた。

 トップスピードに乗っていた彼女の身体が、強制的に停止させられる。

 地面に全身をしたたかに打ち付けた人狼は、朦朧とする意識の中で、自分の左足を見る。

 金属の何かが自分の足に食い込んでいた。

 まるで獣のあごのようだった。

 尖った歯を持つそれは、彼女の足を挟むようにして拘束している。全力疾走していた彼女の足は、その鋭い歯によって切り裂かれ、大量の出血を強いられていた。

 このままではほどなくして失血死すると悟った彼女は、左足のふくらはぎのあたりを紐で緩く縛ると、小刀の鞘を通してから、ぐるぐると回して締め上げた。止血のための応急処置だ。

 完全に油断していた。

 久しぶりの獲物を前に、興奮していたというのもあるだろう。

 だが、嗅覚を研ぎ澄ませば、自然ならざるもの。つまり、この錆びついたヒトの罠に気づかぬわけがなかった。それほど鉄錆の臭いが漂っているのだ。

 気づけば、罠にかかった人狼の娘のまわりに、狼たちが集まっていた。

 心配そうな顔でこちらを見ている。

 人狼の娘は、狼たちに命じた。

「逃げろ。今、すぐに」

 言われた狼の方は戸惑っている。当然だろう。群れの仲間を見捨てて逃げるなんて、彼らの誇りが許さないのだ。

 だが、人狼の娘は重ねて言う。

「これはヒトが仕掛けた罠だ。いずれヒトがここに戻ってきて、どんな獲物がかかったかを確認しにくる。お前たちまで巻き込むわけにはいかないんだ」

 頭では理解できていても、やはり、それを実行するのはためらわれる。

 尻込みしている狼たちを叱咤するように、人狼の娘は叫んだ。

「早くしろ! 逃げるんだ!」

 いつになく語気強く言い放った人狼を前に、狼たちはゆっくりと彼女の周りから離れ、そして、脱兎のごとく駆け出していく。

 そうだ。

 それでいい。

 群れの仲間を巻き込まなくてすんだことに、心から安堵した人狼の娘は、そこで意識を失った。


 どれくらいの時間、気を失っていたのだろう。細かいことはわからないが、すでに陽が落ちかけていることから、半日近くは経過しているのは間違いない。

 足を締め付けていた紐をわずかにゆるめ、血行を取り戻してから。ぼんやりとする視界の中で、あたりを見回した。

 狼たちはいない。

 きちんと言うことを聞いて、この場から立ち去ったらしい。

 これで、群れのみんなを巻き込む恐れはなくなった。それが唯一の救いだ。

 無論、悔いがないわけではない。ヒトの罠に捕らわれた以上、自分の運命は確定している。

 きっと、この罠の持ち主は、思ったよりも大物が罠にかかったことに満足を覚え、獲物の皮を傷つけないように丁寧に剥いでから、剥製なり毛皮なりに加工して、誇らしく飾るのだろう。

 そう思うと腹立たしいことこの上ないのだが、今の彼女にできることは何もない。

 出血にしろ、ヒトの手によるものにしろ、ただ、緩慢にやってくる死を受け入れるしかないのだ。


 思えば、人狼の里にいた頃から、この白い毛並みには満足を覚えたことがない。森の中を行くには目立って仕方がないし、そのせいで獲物を逃がしたことも一度や二度の話ではない。

 結局、この純白の毛並みが人狼の仲間たちに与える不利益を考えた末に、群れから離れることを選んだ彼女にとって、この毛並みは忌まわしきものでしかない。

 忌まわしきものでしかないのだが。

 そんな自分を「かっこいい」と言ってくれたヒトがいた。

 あの少年だ。

 まあ、女性に対して「かっこいい」というのはいかがなものかと思わなくもないが、少なくとも、好意から発せられた言葉であることは間違いない。

 今にして思えば、自分はあの少年に自分自身の姿を重ねていたのではないかと思えなくもない。

 人狼の群れを飛び出して、森の奥で狼たちだけを友として生きてきた自分と。

 ヒトの村を飛び出して、森の奥で狼に食われて自らの命を絶とうとした少年とをだ。

 なぜ、ここであの少年のことを思い出したのかはわからないが、人狼の娘は、このまま罠を仕掛けたヒトに捕まっては、少年に「かっこ悪い」と言われてしまうだろうなと、漠然と思った。

 次の瞬間。

 瞼の裏に現れた少年が、泣きながら自分を怒っている姿を見てしまった。

 当然、それは幻覚や幻影の類で、少年がこの場に現れたわけではない。

 それでも。

 人狼の娘は、声を出して笑った。

 よもや、あの子に励まされるとは……。

 それが幻覚でもかまわない。

 人狼は、自分が置かれたこの状況から抜け出すべく、努力を始めた。

 少年と、狼たちが待つあの群れに、帰るのだ。


 人狼の娘は、自分を捕えている罠をじっくり観察した。

 罠の構造はいたって単純。中央の板を踏むと留め金がはずれ、左右にある顎のような部品がばねの力で閉じるというものだ。

 そして、罠にかかった獲物が逃げぬように、この罠をこの場所に固定するための仕掛けもある。

 いや、仕掛けというのは少し仰々しい。

 単純に、鎖がつながっているだけだからだ。

 その鎖は、近くにある樹に縛り付けてある。

 ただ、それだけだった。

 それもそうだろう。この罠は、知能のある獣を対象として仕掛けられているわけではないからだ。

 彼女は、痛む左足をかばいながら、鎖が縛られた樹のもとへとにじり寄った。

 そして、樹の幹に縛りつけられた鎖を外す。

 これで、ここから立ち去ることができる。

 とはいえ、前途は多難だ。

 左足は使えないから、歩いたり走ったりはできない。

 そうなると、狼たちのように両手と右足を使って獣のように進むか、それとも、這って進むかしかない。


 彼女は、這って進むことを選択した。

 身体の構造上、四本足の獣のように進むのは難しいし、早く進むこともできない。であれば、左足をかばいながら、這って進む方が合理的に思えたのだ。

 だが、しばらくして、これも失敗であることに気づく。

 何しろ、這って進むから跡は残るし、下草に行く手を阻まれるおかげで、簡単には進めない。

 体力ばかりが削られていく。

 それでも、ただ前に進むしかない。

 人狼の娘は、自分が再び意識を失うまで、ひたすら前進を続けた。


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