ねーちゃんと呼ばないで
RomeoAlpha
第1話
朝日が木漏れ陽として射すことすら許されぬほど深い森の中を、粛々と進んでいく一団がある。
狼の群れだ。
もっとも、その狼の群れの中心にいるのは、狼であって狼ではない。
獣人と呼ばれる種族のひとつで、狼と人が融合したような姿をしている。体格はヒトのそれで、身長は人よりも頭ひとつないしふたつ分は高い。それに、膂力もヒトのそれよりもはるかに強い。
もっとも、この群れの中をゆく人狼は、人狼たちのなかでも体格的には恵まれていないようで、ヒトの身長とさほどかわらないようだが。
人狼の頭部は、周囲を歩く狼たちのそれとまったく一緒で、顔だけ見れば、狼なのか獣人なのかの区別はつかない。
体つきからいって女性と思われるその獣人は、全身が渇いた泥にまみれていた。そんな泥だらけの背中には、仕留めたばかりのシカを担いでいる。群れで共同で駆り立てて捕らえた獲物だ。
これで、この群れは、これから二、三日の間は腹いっぱいの状態で過ごすことができるだろう。
満足そうな笑みを浮かべながらも、周囲への警戒を怠らずに歩いていた獣人は、川に差し掛かると担いでいたシカを下ろし、迷うことなく川へと入っていった。
川は深いところでも彼女の腰くらいまでしかないので、全身を水浴びしたいと思えば、潜るか、身体を傾けるか、水をすくって浴びねばならない。
彼女が選んだのは、頭までどっぷりと川の中に潜ることだった。
潜水しながら川面の下を泳ぐことしばし。息継ぎのために浮上してきた彼女の姿は、あきれるほど美しい純白の毛並みだった。
獣人のうち、ワーウルフと呼ばれる人狼たちは、通常、数人の仲間とともに行動することで知られている。狼たちとも交流を持つことができ、中には互いの欠点を補いあうよきパートナーとなる例も報告されてはいる。
しかし、彼女のように、人狼の仲間とともに行動せず、狼とだけの共同生活を送っている人狼の例はあまり知られていない。
実際、彼女も昔は人狼たちの集まる村で過ごしていた時期があるにはあった。だが、彼女の外見からくるコンプレックスと、狩りに与える悪影響を思いはかった結果。自ら村を立ち去ることにしたのだ。
以来、彼女はヒトとも人狼ともかかわらず、深い森の中でひとり暮らしている。まあ、狼たちがいるので完全にひとりではないのだが、少なくとも、言葉を使った会話など、もう何年もしていない。
だが、彼女はそれで満足だった。
水から上がり、全身を振るって水滴を飛ばすと、彼女は再びシカを背負って歩き出した。
群れがねぐらとしている、張り出した崖の下のくぼみに向かう途中で、ちょっとした異変があった。
狼たちがうなっている。
嗅ぎ慣れぬにおいを嗅いだからだ。
それは、これまでに嗅いだことがほとんどないにおいだということは、彼女も理解している。
少なくとも、森に棲む獣ではない。
では、何だ?
人狼の率いる狼たちの群れは、尻尾に警戒の色を見せながらゆっくりと歩いていく。
彼女たちが利用する獣道のうちひとつに、その解答が示されていた。
足跡が点々と続いているのだ。
その足跡は、どうやら靴を履いているらしい。
これで、獣ではないことは確定した。だが、靴を履くヒトのものだとしても、かなり小さい。ということは、これは子供の足跡ということになる。だが、こんな森の奥にヒトの子供がひとりでやってくるとは思えない。
それでは一体、誰なのだ?
何よりも面倒なことは、その足跡は、彼女たちがねぐらにしている方角へと向かっているということだ。
いつもより警戒を密にして進む群れは、ねぐらの付近まで近寄ると、その警戒心をさらに増した。
何者かの気配を感じたからだ。
獣道に残された足跡は、いまだにねぐらの方向を目指しているし、その人物に、自分たちのねぐらが占領されている可能性もある。
人狼の娘はシカをそっと下すと、弓と矢筒を地面に託し、腰に佩いた剣をすらりと抜いた。
片刃の曲刀。
ぎらりと光る刃をちらつかせながら、人狼の娘は忍び足でねぐらへと向かい、狼たちもそれに合わせるかのように間合いを詰める。
なんとなくだが違和感はあった。
気配はあるのだが、押し殺した緊張感といったものは感じない。むしろ、どこか弱々しい雰囲気さえ漂う。
ねぐらに到達したところで、人狼の娘は深いため息をついた。
そこには予想外の者がいたからだ。
ヒトの少年だ。
いや、少年というのも早すぎるかもしれない。まだまだ幼い子供だ。
ねぐらの奥で小さく丸まって眠っている。
しかし、そんなヒトの子供が、なぜ、こんな森の奥深くに、一人で?
人狼は手にした剣を腰のさやへと戻した。ばかばかしくなったからだ。ヒトの大人ですら人狼とはまともに戦えないというのに、こんな子供を相手に何を警戒する必要があるというのか。
人狼の娘はヒトの子供へと忍び足で近寄ると、軽く足で小突いた。
「おい!」
実に数年ぶりとなるヒトの言葉を発しながら、子供の身体をつついて起こす。
外部からの刺激を受けて、小さなうめき声を上げた子供は、むくりと上半身を起こして周囲を見渡す。
まだ寝ぼけ眼だ。
何が起きているのか、完全には理解できていないらしい。
彼女の姿をぼーっと見つめたあとで、子供は両手でそれぞれの目をこすった。
再び視線を周囲に巡らせたヒトの子供は、自分の周りを囲う狼たちの姿を見たうえで、再び彼女へと視線を戻した。
長い沈黙が流れる。
子供の鈍い反応を目にした人狼の娘が、問いかけるべく再び口を開こうとした瞬間、子供の瞳は急に輝き始めた。
「か、かっけー!!!!」
つい先ほどまで眠っていて頭がハッキリ活動していなかった子供は、周囲の状況を自分なりに理解できる状態になった瞬間、あふれ出る好奇心がとまらないといった表情を浮かべながらまくしたてはじめた。
「ね、ねえ! それって本物? 毛皮を被ってるんじゃないの?!」
子供は人狼の娘の腰のあたりに手を伸ばすと、少しの遠慮もなく毛並みを引っ張った。
「い、痛い!」
本当に遠慮なく引っ張られたので、人狼は思わず悲鳴をあげてしまった。
それを受けた子供もあわてて手をひっこめる。
「ご、ごめん……」
素直に謝り、悲しそうな表情を見せた子供ではあったが、やはり興味が上回るのであろう。再び顔全体に好奇心をにじみ出させながら、人狼の娘を見上げる。
「でも、本物なんだ。すげー! ねーちゃん、かっこいいよ!」
人狼の娘は再びため息をついた。
想像を絶する事態に、発するべき言葉が見つからなかったからだ。
それにしても、まあ、ここまで狼に対して恐怖心も持たずに接してくるヒトも珍しい。
敵対する恐れもなさそうなので、人狼の娘は仕留めたシカを再び背負うと、ねぐらの中に運び入れた。
その様子を興味津々で見守る子供をよそに、人狼は狼たちにシカを切り分けて与えていく。
狼たちが今日の獲物にありつく中、人狼の娘はそれなりの大きさの肉を切り取ると、子供にも渡してやった。
狩りの獲物を分けてもらえるとは思っていなかったらしい子供は、ちょっと戸惑った顔を見せたが、すぐに笑顔になって礼を述べる。
「あ、ありがとう!」
自分の分の肉を切り取った人狼は、そこからさらに一口サイズに切り取ったシカ肉を口の中に放り込むと、子供に出会ってから疑問に思って仕方がなかったことを問う。
「で、お前はなんでこんな山奥にいるんだ? 迷子にでもなったか?」
シカ肉を大事そうに手に持った子供は、そのシカ肉に視線を落としながら、力なく答える。
「違うよ。自分で望んで来たんだ……」
「……家出か?」
人狼の娘の指摘は的を射たらしい。子供がついと顔をあげ、人狼の娘をにらむように見る。しかし、何かに気づいた様子の子供は、人狼から視線を外すと、再びシカ肉へと戻す。
長い沈黙の後、子供は言葉をしぼりだすかのようにつぶやきだした。
「俺、いらない子供なんだ……」
シカ肉を握る子供の手に力が入る。
「母ちゃんは俺を産んだ直後に死んじゃったんだ。それで親父は俺を憎むようになって、放っておけば殺されかねない状況だったらしくって、爺ちゃんと婆ちゃんが俺を引き取って育ててくれたんだ」
子供が独白を続ける間も、人狼はシカ肉をちぎっては、自分の口の中に放り込んでいく。
「でも、爺ちゃんも婆ちゃんも死んじゃって、俺は親戚に引き取られたんだけど。その親戚も酷い連中でさ」
不意に顔をあげて人狼の娘を見た子供だったが、人狼が黙って聞いていることを確認したのか、再び下を向いて話し続ける。
「叔父さんに『手前の食い扶持も稼げないクソガキが。森の奥で狼にでも食われて死んじまえ』って言われたから……」
そこまでを途切れ途切れにつむいできた子供は、そこでぴたりと止まってしまった。
子供の言葉を静かに聞き入っていた人狼は、最後のシカ肉を咀嚼して飲み下すと、冷たい目線を子供に向ける。
「それで、森に入ってきたと?」
「うん……」
「狼に食われて、死ぬために?」
「うん……」
人狼の娘は子供の頭に拳を振り下ろした。当然、本気で叩いてはいないが、それなりの力は入れている。
いきなりの衝撃に頭を抱えていたがる子供に、人狼は怒りをあらわにした。
「お前はバカか? 子供の成長を願わぬ親などおらんだろうに。たとえそれが親戚になったとしても、同じ血族の者同士なら、助け合うのが自然というものだ。それなのに、ちょっと怒られたから家出だなんて……」
怒りは最後には呆れとなってしまったが、人狼としては、そのような言葉を受けたからといって、素直に家を飛び出した子供に対し、同情の気持ちを素直には抱けなかった。
あきらかに見下されているという雰囲気を感じ取った子供だったが、彼の口から出たのは、胸の中にとどまり続けている疑問だった。
「……そうかな?」
子供はついと顔をあげ、今度は、崖の張り出しが天井となっている部分を見上げる。
「少なくとも、俺はこれまで、生きてきてよかったなんて思ったことはなかったよ」
じっと天井を見つめていた子供だったが、そこで何かを思い出したのか、子供は首をふるふると横に振った。
「いや、言い過ぎかな。爺ちゃんと婆ちゃんと一緒に暮らしてたときは、それなりに楽しかったな……」
「ふむ……」
悲しそうにくすりと笑う子供を前に、人狼はあごの下に手をやると、視線を子供から外して虚空を見上げる。
彼女が何かを考えているときに見せるしぐさだ。
しばらく考えた末、人狼は次の疑問を投げかけた。
「……お前、いくつになった?」
「一〇歳だよ。……あと六日で」
そんな年齢の子供が「死んでもいい」などと言っている姿を見ていると、無性に腹が立って仕方がない。
正直に言って、人生をナメているとしか思えない。彼はつらい人生から逃げようとしているのだ。
だが。そんな逃避を許してやるほど、人狼の娘は甘くはない。
人狼の娘は、自分の出した結論を子供に告げる。
「お前の言う通り、群れのみなで食ってやろうかとも思ったが、やめた。それではお前のためにならない」
人差し指で幾度も子供を指さしながら、彼女は続ける。
「お前を我らの群れに加える。まあ、うちも『働かざる者食うべからず』だから、お前の言う叔父さんとの生活と、大差はないかもしれんがな」
子供の眼前にまで顔を近づけた人狼の娘は、口の端をくっと引き上げて笑って見せた。
「逃げ出すなら、今のうちだぞ?」
彼女としては、子供がここから逃げ出して、ヒトの群れへと戻ってくれることを期待していた。人狼や狼と共にヒトの子供が暮らすなど、不可能ではないにしろ、困難であることは間違いないのだから。
しかし、目の前の子供が出した結論は、意外なものだった。
顔全体に驚きの表情を浮かべながら、探るように問いかけてくる。
「……一緒に、いて、いいの?」
この返事に、今度は人狼の娘が驚く番だった。
まさか、ここに残るという選択肢を選ぶとは……。
しかし、群れに加えると言ってしまった手前、ここで前言撤回するのも恰好がつかない。
人狼は深いため息の後に、絞り出すようにしてつぶやいた。
「本当につらい生活になるぞ。……それでもかまわんのか?」
娘の言葉に、子供は手にしたシカ肉をぎゅっと胸元に抱えながら、喜びをあらわに言う。
「あ、ありがとう!」
そんな子供の姿に、一抹の不安を覚えなくもない人狼ではあった。だが、彼女は気を取り直すと、先ほどから指摘したくてたまらなかったことを言葉にした。
「ああ。あと、その肉。食わないなら返してもらうぞ!」
ビシッと子供の胸元に指先をつきつける。そこには、子供が両手でもてあそんだ結果、かなり悲惨な状態になっているシカ肉があった。
しかし、子供は驚きの表情を浮かべて反論する。
「待ってよ、ねーちゃん! 俺、生肉なんて食えないよ!」
人狼の娘は絶句した。
まさか、ヒトが肉が食えないとは思ってもいなかったからだ。
正確に言えば、子供は焼いた肉であれば食べられると言っているのだが、人狼の娘にはそういった意識はない。
思い悩んだあげく、人狼の娘は言葉をしぼりだす。
「……努力しろ。何とかなる」
「そんなぁ!」
がっくりと首を落とす子供を前に、人狼の娘は再びため息をもらした。
群れに新たな仲間が加わった。
狼ではない。ヒトの子供だ。
これからいろいろと、大変なことになるかもしれないが、これもひとつの変化だろう。
人狼の娘は、すべてを受け入れることにした。
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