とりあえず状況を整理します
啓斗がそれを見つけたのは、偶然のことだった。そこは彼にとっては縁もゆかりもない海辺で、気まぐれに訪れた場所だった。
大学二年生、女子ウケを狙って見た目にも気を遣いたいお年頃である。今日も、白多めのシンプルなボーダーロンTと、ネイビーのアンクル丈パンツで、海っぽくキメてきたつもりだ。さわやかなカラーリングが、ダークレッドに染めた髪と似合ってなかったらどうしようとはかなり悩んだのだが。
八月終わりの海辺には、たくさんの家族連れがいた。大学生らしい集団や、カップルもちらほらしているが、ひとりで砂浜をうろついているのは、啓斗くらいのものだった。
和気あいあいとした集団から距離を置くように、啓斗は海岸を人気の少ない方向へ歩いていった。
ソレを見つけたのは、そんなタイミングだった。
「楽譜……?」
拾い上げた紙は、海水に浸って変色していた。灰色にくすんでいるというかむしろ青っぽいというか、とにかく変な色だった。
その小汚い紙を持ち帰ったのは、啓斗がギタリストだからだ。
音楽には人一倍興味があった。だから、目を止めたし、そのまま捨てなかった。彼以外の人間に拾われたのなら、再び海に沈んだに違いない。
それは奇妙な楽譜だった。
いや、本当に楽譜なのかはっきりとしない。
音符が書いてあるから楽譜だと思ったが、その紙には、ト音記号どころか五線すらない。TAB譜でもない。
「これじゃ、どんな曲か全然わかんねぇじゃん」
要するにそれは、音楽になりそこなった単なる音符の群れだった。楽譜の体を成していない音は、誰にも伝わらないし、認められない。そこにどんな才能が眠っていたとしても評価されることはない。
その無意味さに、啓斗は同情した。
どこかのだれかが費やしたであろう、徒労を哀れんだ。
それは、啓斗自身のことだったのかもしれない。
彼は、その紙片を捨てることができず、安宿まで持ち帰った。
* * *
宿に帰った啓斗は、ギターを引っ張り出した。
「とりあえず、最初の音が
楽譜を読むのは苦手だ。はるか遠い音楽の授業を思い出しながら、啓斗は音を拾っていく。
「C, D, E, F……間がいくつ空いてんのかもよくわかんねぇなあ」
安宿のベッドに腰かけて、ギターを抱える。
それはまさに雲をつかむかのような作業だった。走り書きの譜面から作曲家が意図した音色にたどり着くのは、一流の音楽家をしても困難だ。市販の楽譜すら読むのに苦労する啓斗では、なおさらだった。
それでも彼は、解読を諦めなかった。
大変な価値が眠っているかもしれない、誰からも見向きもされない音楽。
啓斗にとって、それは自分自身の投影だった。
才能はある。あるに決まっている。それなのに、誰も見てくれない。
芸能事務所に作曲したデータを送っても返事は来ないし、学園祭で弾いてみてもぜんぜん盛り上がらない。
才能がないのではない。その才能を見つけられる奴がいないだけだ。
みすみす宝石の原石を捨てようとするバカな奴らに失望していた。
認められない自分自身に、傷ついてもいた。
その譜面から音楽を掬いあげることは、彼自身を救うことに似ていたのだろう。
日が落ち、夕刻を過ぎても、啓斗はその作業に没頭していた。
夕飯を食べることさえ忘れていた。
弦を弾く指は痛みを訴えていたが、気にならなかった。
彼がこれほど何かに没頭したことは、これまで一度もなかった。
「CでもDでもEでもない……それなら……」
ぶつぶつとつぶやく啓斗。彼には次第に正解へ向かっている確信があった。ひとつずつ階段を上っていく実感は、彼にエネルギーを与えていた。
そして、遂にその瞬間が訪れた。
「これだ!」
指はスムーズに動いた。何百回と繰り返したフレーズは、これまで弾いたどんな曲よりも指に馴染んでいた。
それはポップスでもロックでもなかった。そんなフレーズをどう分類するのか、啓斗は知らなかった。もっとも分類することに意味はないだろう。
啓斗が耳なじみのないそのフレーズを弾ききった瞬間、だった。
部屋が突然暗くなる。
ベッドの感触も消えた。
「はっ?!」
疑問の声を上げるのが精いっぱいだった。
予告なしに支えを失った啓斗は、自然の摂理に従って後ろに倒れ――
そのまま意識を失った。
* * *
そして気が付くと、啓斗は暗い部屋に頃だっていた。セラの部屋だった。
そんなワケあるか。話が繋がってない。どう考えたっておかしい。
船の連中と旅館がグルで、何らかの犯罪にまきこまれているというのが、最後の現実的な推測だろうが、それにしたっておかしい。規模が大きすぎるし、メリットがどの辺にあるのかわからない。
「いい加減にしてくれっ! あんた達に帰す気がないんなら、オレは勝手に出ていくからな!」
叫んで、啓斗は駆けだした。制止の声が聞こえた気もするが、無視した。
適当に廊下を進み、適当にドアを開け、どこをどう行ったか分からないまま、それでも闇雲に突き進んだ。
その時の啓斗には、幸運の女神が味方していたのかもしれない。いや、もしかすると堕天の悪魔だったのかもしれない。それがどれほど違うのか、はっきりと知る者はこの世にはいない。
遂に啓斗は、他と違う扉を見つけた。これまですべて木製だったドアが、そこだけは金属で作られていたのだ。
(出口だ!!)
確信した啓斗は、ドアノブに手をかける。重い。簡単に開くようには作られていない。
だが、さほどの猶予はなかった。後ろから追いかけてくる足音がする。啓斗は力を振り絞って、扉を押した。
火事場の馬鹿力というヤツだろうか、扉はゆっくりと外に向けて、開く。
「……なんだよ、これ」
目の前に広がるのは、青だった。
海の青、空の青。境界すらもハッキリしない果てしなく続く青。
それは、大海の真ん中だった。陸地の影も形もない。
「嘘だろ……」
どこからどうやって連れてこられたにせよ、ここから帰ることは不可能だった。着の身着のまま海を漂流して生還できると思うほど、啓斗はバカではない。
あまりに絶望的な、状況だった。
「危険です」
背中に届いた声に反応することはなかった。
これ以上逃げ回ろうという気も起きなかった。
「危険です。ドアを閉めてください」
肩を引かれ、強制的に振り向かされる。そこにもまた、青が居た。しかしそれは圧倒的な厚みを持つ青に比べると、あまりに薄く褪せて見えた。それは所詮、まがい物の青に過ぎなかった。
その水色の髪の女は、アイマスクの上から片手で目を押さえている。
「そこは行き止まりです。閉めてください」
それは、魔女の宣告だった。逆らうことは出来なかった。
啓斗を押しやって、女がノブに手をかける。男の啓斗でさえ力いっぱい押してようやく開いた扉は、細い女の腕に簡単に引き戻された。
重い音がして、扉が閉まる。
まばゆい青は閉ざされて、あたりは暗闇に侵された。
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