また後で
「悪い子だ」
頭を押さえつけられる。目の前に水面が迫っている。両手でバスタブの縁を掴んだがまるで抵抗できなかった。息を吸う間もなく水没する。目を閉じて、酸素を使わないよう体を固くして無駄な動きを止めた。すぐに苦しくなって、たまらずもがいた。それでも頭を押さえつける力は緩まない。一層強くなる。息を吸おうと体が勝手に口を開いて肺が動く。水が流れ込んできて、喉の奥が冷たくなった。
そこでようやく、頭の拘束が緩んだ。襟元を掴まれて引き上げられる。水を吐き出してむせ返った。ひゅう、ひゅう、と、喉から変な音がする。
そしてまた、頭を押さえつけられて水に顔を漬けさせられた。
ただそれをひたすら、何回も繰り返された。だんだん、何も考えられなくなる。ぼうっとして、体も動かせなくなってくる。そうなってようやく、わたしは風呂場に投げ捨てられてすべてが終わった。
ぼんやりと、冷たいタイルの上に横たわって黒カビだらけの天井を見上げた。
すると突然、ざぶんと音を立てて体が沈んだ。天井が遠くなっていく。体がひっくり返って、暗くて何も見えない底が見えた。呼吸がまた苦しくなって、上へと浮かび上がろうと水の中をもがいた。
何かがわたしの首を掴む。正面を見ると、純白の鎧がわたしの首を掴んでいた。水中なのに、平然と立っている。遊泳している様子はない。わたしがいくらもがいて、首を掴んでいる腕をひっぱたいても何の反応もない。全身をバタつかせて抵抗してもびくともしない。
「先輩!」
声が聞こえて、ふっと体が楽になる。目が覚める。暗い水底も純白の鎧も消え去って、明るい蛍光灯の光が目に刺さる。
「………………ああ」
眠っていたらしい。
視界に入って来たのは、隣のベッドに腰かける燐。それから部屋の白い壁と、いくつかの調度品。木製のキャビネットとテレビ台。病院というよりビジネスホテルに近い雰囲気の部屋だった。
体を起こす。右手に体重をかけるとわずかに傷んだので、左腕を使った。
「ここは?」
「鎧獣研究所だそうですよ。研究所の宿泊施設です」
「あっそう」
ナイトテーブルは新聞が置かれていた。号外と記されたそれには、早くも草霧高校での騒ぎが載っていた。
「あれからどうなった?」
「その新聞に詳しいですけど、先輩があの変な鎧を倒したお陰で被害は少なかったみたいですよ」
新聞を手に取る。号外は一面で大きく鎧獣の再出現の衝撃を伝えていた。中を開くと今回の事態で生じた被害についての詳細と、4年前に起きた鎧獣事件の概略が簡潔にまとめられて載せられていた。
号外によると、被害者は26名。内訳は教師3名と生徒23名。現場で死亡していたのが教員1名と生徒1名(生徒というのはあの男子生徒だろう)。搬送中または病院で死亡が確認されたのが生徒3名。残りは重軽傷を負って現在入院中、あるいは意識不明の重体だが現状は不明。他にも草霧高校には多くの生徒、教員がいたが、いずれも教室に留まっていた。教室に留まっていたのは、運動場に出現した鎧獣に恐怖し硬直していたからというだけでなく、運動場から死角になった教室で部活動をしていたため騒ぎの理由が分からず行動しようがなかったという理由もあったらしい。いずれにせよ、身体的に負傷しなかった生徒についても精神的なケアが必要となる。また避難誘導が不十分であったことは批判の対象になりうるが、根本的に鎧獣の再出現の可能性を考えていなかった政府自治体の対策不足もある以上、議論は慎重に行うべきと記事は締めくくっていた。
「…………やたら詳しいな」
「英雄さん――木皿儀さんに聞いたんですけど、研究所の人を通じてリークしたらしいです。あることないこと書かれて無駄に恐怖を煽るよりはいいって」
「あいつの考えそうな手だな」
立ち上がる。そういえば、ブレザーこそ脱がされているが相変わらず着ているのは制服だった。燐はどこで調達したのか知らないが寝巻を着ていた。
「どこに行く気ですか?」
「儀典のところ。ここ研究所だよね? だったらどっかにいるでしょ」
「もう11時ですよ」
ベッドのヘッドボードを燐が指さす。確かに、備え付けの時計は『11:26』と示していた。
「あと木皿儀さんから言われていたんですけど、詳しい話は明日するそうです。もし先輩が目覚めたらそう伝えてくれって頼まれてたんでした」
「それは先に言え」
新聞をナイトテーブルに落とす。そうしてベッドにまた横たわった。
「寝るんですか? 着替えた方がいいですよ」
「めんどう」
「そうですか。じゃあおやすみなさい」
「ああ、そうだ」
部屋の照明を落として燐も隣のベッドに潜り込む。そのタイミングで、聞こうと思って聞けなかったことを尋ねた。
「燐、気にしてる?」
「何がですか?」
「体育館にいた人、助けられなくて」
「助けられたじゃないですか。まああたし何もしてないですけど」
「いや、体育館にいるって気づいたのは燐だし――」
それに燐がいなければ、わたしは鎧と戦ってはいない。いや、そうじゃなくて。
「助けられたって言える?」
燐の方は見なかった。じっと天井の暗がりを見つめる。
「あたしは助けられたと思いますよ」
「でも、誰も無傷じゃすんでない。二人死んだ」
「もうちょっと死んじゃうかもしれないですね。重体の人が何人かいるって話でしたし」
「…………………………」
考えたくないことをさらっと言う。
「でも、たぶんこれが最少ですよ。あたしが動かなかったら、いや先輩が動かなかったらあそこにいた人たちみんな死んでたんですよ。だからこれでいいんです」
「そんなものかな」
燐の言葉を思い出す。「一歩踏み出せばできることがあるのに、踏み出さないと後悔しますよ?」と彼女は言ったけれど、あれはあまり今回の場合と合致しないような気が、今になってしてきた。今回の場合、彼女は自分が無力なのを知っていたはずだ。儀典に体育館の場所を教えて、自分は避難。それがベストのはず。彼女が救出に動くのはベターどころか、下手をすれば自分も要救助者になりかねないわけだから悪手だ。燐はそれを計算できないだろうか?
それに、まるで知らない人が死んで涙を流す燐が、これから先さらに死ぬ人のことをけろっと言うのもどこかちぐはぐだった。燐は何か、別のものを見ているんじゃないかという気がした。
本当は体育館にいた人たちのことなんてどうでもよくて、別の何かを守るために動いていたんじゃないかと。まあそれは、わたしがいくら妄想をたくましくしても分からないことなのだけど。
「先輩。鎧獣のこととか、後で教えてくれるって言いましたよね。いつ教えてくれるんですか?」
「後で。もっと後で。今は寝る」
目を閉じる。今度こそ悪い夢を見ないようにと願いながら。
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