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「じゃあ簡単に説明しますね」

 服部と名乗ったそのお兄さんは爽やかにいった。色素の薄そうな肌と髪を持つそのお兄さんは、文句の付けようもないイケメンだった。ほわわんという効果音が聞こえてきそうな、どことなくドジッ子要素を含んだそのお兄さんは「簡単に」という割には詳しく、優しく説明してくれた。いや、正直どこの派遣登録でもよく聞くような内容だったが、お兄さんの爽やか具合のお蔭か、他の派遣よりも懇切丁寧に聞こえた。

「当社は、ざっくり言ってしまうとイベント業務の派遣会社です。業務内容としては大きく分けて5つです」

 そういって資料を見せられる。


・サンプリング

 フリーペーパー、試供品などを配布。


・キャンペーン

 商品やサービスの販売促進・認知拡大を目的としたPR活動。


・運営

 受付、誘導、警備、ご案内などの現場運営業務。


・企画、進行

 イベントに関する事項の企画、または当日までのスケジュール調整及び管理。


・アッセンブリ

 本番日に向けて配布資料やパンフレットなどを袋詰めする下準備作業。


 一通り説明をすると、

「えっと……河下さん、は、これまでアルバイトもたくさんされているようですが、この中にもやったことあるようなものありますか?」

 名前をすぐには覚えられないタイプなのか、来て早々渡した玲央奈の履歴書を何度も見直しながら上目遣いで聞いてくる。

 なんだこの可愛い生き物。自信なさげに少しプルプルしている姿がチワワみたいで抱きしめたくなる。そんな衝動はとりあえず理性で押さえて、

「そうですね……サンプリングの経験があります。特にノルマとかないものだったんですけど。友人と一緒にやってたんですが、過去、用意されていた1日分のサンプリングを数時間で全てハケさせたことはあります」

 そう、これまで色んなバイトをしてきたが、サンプリングだけは自信があった。結局、サンプリングは数打ち勝負の仕事だ。ひたすらアタックしまくれば何人かは受け取ってくれるもの。受け取ってくれる率は配布物にもよるが、大抵は遠目からターゲットを決め、狙いを定め、目を合わせたまま笑顔で距離を詰めていく。そして少し進行を遮るように身を乗り出し、手元へモノを差し出せば自然と相手は受け取ってくれるものである。大分感覚的スキルや経験値はいるが。

 そんな玲央奈の話を、目を輝かせ聞いていたお兄さんだったが、しかし、すぐに何故かシュンと切なそうな顔になる。

「あ……でも、すみません。うちの派遣、ほぼ8、9割イベント運営のお仕事ばかりなんです」

 チワワが潤んだ眼を更に潤ませておる……っ!!

「いえ、そんな。確かに経験はあまりありませんが、イベントにも興味がありますから!」

 慌てて答えると、お兄さんの目尻が更に垂れ、口元を緩ませた。

「しかし凄いですねぇ。サンプリングって断られても人にどんどん声をかけなきゃいけないじゃないですか。僕、断られる度にすぐ心折れちゃうんですよね。それに比べて、河下さんは結構物怖じしない人なんですね。カッコいいなぁ」

 くっ、お兄さんの笑顔が眩しい。そうか、楽園はここにあったのか……。

などと考えていた玲央奈は気づかなかった。お兄さんのその眩しさに惑わされていることに。そう、お兄さんが「なら、問題はなさそうですね」と小さく呟いていたことに――。



 給与について。

 案件によって金額はまちまちだが、基本は日給で、月払い、週払い、翌日払いと選んで振り込みも出来るし、当日手渡しも可能である。

 案件について。

 前以て空いている日を提示しておくと前日までに案件候補の連絡が来る。勿論その際断ることも可能だが、自分が出来ると判断すれば追って詳細メールが送られてくるという仕組みになっている。

「っと、お話すべきことはこのくらいでしょうか。河下さん、これまでの話で何かわからなかったことなどありますか?」

「えーっと、大丈夫です」

「ちなみに河下さんは週どれくらい働かれる予定ですか?」

「あー……まだ他にも面接受けて結果待ちしているところがあるので、その辺りの予定がハッキリしないことには……。とりあえず暫くは、こちらでは最低週1くらいで考えてます」

 わかりましたっ。弾むような声だった。

「では、もしわからないことなどありましたら、その都度どんなことでも構いませんから質問してくださいね」

 天使の笑顔炸裂である。声も出せず頷き反応すると、

「では、こちらの契約書に目を通していただいて、問題ないようでしたらサインを頂けますか?」

と、一枚の契約書が出てきた。よく見るタイプの内容だ。

 職務中に知り得た情報は漏洩しないだとか、退社後もそれは適応されるだとか。時間厳守なんて項目もある。

 はいはい、そんなことしませんって。そう心の中で呟きながら読み進める。と、初めてみる違和感にぶつかった。これまで色んな誓約書や契約書をみてサインをしてきたけどこんなのは見たことがなかった。契約内容とサインを書く欄の間のスペースに、丸や三角といった記号が2行程並んでいる。

 なんだこれ。

 お兄さんに目をやると、変わらずニコニコと満面の笑みを浮かべている。

 玲央奈は、んーと軽く唸りながら、この記号の意味について頭をフル回転させながら暫く考えてみたが、考えることを放棄した。

 こんなほわわんとしたお兄さんがいる会社の契約書だ。多分、そういうデザインの契約書なんだろう。もしくはメールとかの終わりに*で線を作って本文と送信者の連絡先とかを分けるようなアレだろう。

 何も考えずサインをする。

「はい、ありがとうございます。これで契約完了ですね」

 書類を受け取ると、トントンと机の上でそれを跳ねさせお兄さんが今日一番の微笑みを見せた。

「早くて今日の夜、お仕事の電話があると思います。内容を確認してもし問題ないようでしたらお仕事へのエントリー、お待ちしていますね」

 そして、その言葉通りその日の夜、玲央奈の携帯が震えたのだった。


 ***


「はぁ!?」

 そんな声が出たのは不可抗力だった。

「河下さんご希望のサンプリングの案件ありました!」

と服部から電話があったのは数分前のこと。ティッシュ配りとその案件内容も、拘束時間も特に問題なく、はい、はいと相槌を打っていると直後「日給は3万円となっています」という耳慣れない言葉が聞こえてきた。

 ……ちょ、ちょっと待って。なんだその呪文。あれ、今この人日給3万とか言わなかった? バイトで3万なんて、普通多く見積もっても3、4日働かなきゃ貰えない額だよね? 日給3万ってどんな激レアバイトなの。3万あれば何ができると思ってんの。ある程度のことは出来るわ。てか、どこからその金額のお金は発生するの。あれ、もしかしてティッシュ配りと言いながら、実は別のもの配るっていう危ない橋でも渡らされんのか!

 慌てふためいているのが電話越しに通じたのか、

「えっと、河下さん。誤解しないで頂きたいんですが、決して犯罪に加担するような、日本の法に触れるような案件じゃないんで安心してください。うちで取り扱っている案件は少しばかり依頼元が特殊でして。そういったものは基本、日給万を超えているものばかりなんです。あ、勿論日給8千円なんていう通常価格とでも言いますか。そういうお仕事もご案内できますから」

 そんなことをいわれたところでそう簡単に納得できるわけもなく。

「……どうされますか……?」

 電話越しに泣きそうなチワワがいる。プルプルと震えている姿が安易に想像できてしまう……ぐぅっ。

 ふと視界の隅に、現在の全財産、145円が映った。

 ……なんだこの試練。私は試されているのか……!

 うーうーと数度唸った後、玲央奈は大きく息を吸った。

「……3万の案件でお願いします」

 人は目の前の大金には勝てない、そう悟った瞬間だった。



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