第57話 ナタナエル その5
あの日の言葉を、彼がどんなつもりで言ったのかは、成長するに従って徐々に分かってきた。
それでも、ナタナエルは向き合えないまま何年も経っている。
そうしている限り、今の暮らしが変わらないから。平穏が続くのならば、それにも、フィリポにも、気付かないふりをして接している自分は、確かに汚い人間なのだろう。積年の内にナタナエルの中で自責の念が募っていく。
けれど、そんな日々はあっさりと終わりを告げた。フィリポの足の回復によって。よたよたと頼りない足取りだったが、それでも、彼は杖を持たないまま歩いている。
ヨハネの予言が、また当たった。
「よかったな・・・、フィリポ」
人に取り囲まれ、嬉しそうに微笑んでいるフィリポに祝いの言葉を述べる。
「うん。うれしい」
昔の、心からの笑顔を浮かべる彼にずきりと胸が傷んだ。
「あのさ、その足・・・」
「予言どおりの救世主に会ったよ」
彼の穏やかな口調に息を飲む。
救世主。ヨハネによって予言されたその人物が本当に現れたのか。どくん、どくんと心臓が脈打つ。焦燥感に体中が痺れた。
「ナザレのイエスだって言っていた。あの人こそ、ヨハネの言っていた救世主かな」
「・・・・ナザレ、だって?」
意外な地方の名前によけい苛立が募る。
聖書が正しければ救世主はベツレヘムから現れるはずなんだ。ナザレのような田舎町の名前が出て、ナタナエルは目を丸くした。
「ナザレから、何が出るって言うんだい!」
焦燥感と自責の念から思わず叫んでしまい、しまった、と思う。フィリポが不思議そうに首をかしげた。
「ナタナエル? ・・・・・・・・・どうしたの?」
「あ、いや・・・・。なんでもない・・・」
心配そうなパートナーの顔をこれ以上見ていられなくて、すぐに振り返りその場から立ち去る。
心を焼き尽くしそうな絶望に急き立てられる。
ああ、ヨハネ。その通りだ。
俺は、確かに怖いんだ。
怖くて、怖くて、それを認められないんだ。
足が治ったフィリポの周囲には人が集まるようになっていた。神の奇跡だとフィリポを讃えるその口はほんの1週間前には彼を非難していたというのに。
フィリポの足が治り、彼が幸せそうに日々を過ごすのを見ていると、ナタナエルの頬も緩む。けれど、彼の周囲の反応が嫌で、足が治った日から彼はフィリポに近づけないでいた。
「なぁ、今からフィリポの昇級祝いに外へ出るんだが、お前も一緒に行かないか?」
そんなある日、祭司の一人に呼び出され、会議室へ向かう廊下を歩いていると、後ろから友人に呼びかけられた。更に後ろにフィリポが立っている。
「昇級? ・・・・フィリポ、試験に合格したのか?」
「うん。まだまだナタナエルには及ばないけれど」
嬉しそうに微笑む彼に、いたたまれなくて顔をそらす。
ああ、やっぱり。
多分、彼はこれからどんどん上へ登っていくだろう。
「そっか、よかったな。・・・・・せっかくだが、俺はちょっと、行くところがあるから」
「そっか・・・・」
ナタナエルはフィリポから視線をそらす。フィリポの目が寂しそうに揺れた。
ここのところ、彼を見るとナタナエルは言い知れない不安を感じていた。
しくしくと、膿んだように痛む胸を押さえて、彼は会議室へと向かった。
「おお、ナタナエル」
「こんにちわ。一体、何の用ですか?」
祭司の一人に呼び出されていたのは本当だった。ナタナエルはうやうやしくお辞儀をする。
「お前、祭司長の直属として働く気はないか?」
「え、」
息を呑む。
祭司長の直属とは、彼の下について仕事の補佐をする。そこに抜擢されたということは、大躍進でありこのまま行けば祭司長も夢ではなくなる。
「最近のお前の昇級っぷりはすばらしい。いっそ今のうちから教えを叩き込もうと祭司長御自らおっしゃってくださっているのだ」
「・・・・・・・そう、ですか」
それなのに、何故だろう。やはり、喜べない。
「考えさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「考える? 何故だ?」
ナタナエルが二つ返事で引き受けると思っていた祭司は眉をひそめた。
「私はまだ若輩者なので、このまま経験をつまないままそのような大役を仰せつかってもいいものか、と思案しております」
それらしい理由を言うと納得したのか、祭司は残念そうな顔をした。
「そうか・・・。しかし、悪い話ではないだろう? 経験というのならば、今からつめばいい」
「ええ・・・、そうなのですが」
「まぁいい。それなら1週間ほど時間をやる。その内に考えておけ」
「・・・・・・・はい。あの、祭司様」
祭司が手を振りナタナエルに下がるように指示するが、ナタナエルは動かず言葉を続けた。
「なんだ」
「フィリポが、昇級しましたね」
「ああ、それが?」
なんでもないように返す。ナタナエルは慎重に言葉を選びながら続けた。
「彼は頭がいい。律法を完璧に諳んじることが出来ます。それなのに何故今まで昇級することが出来なかったのですか?」
祭司の目が細められる。ナタナエルには何故か彼が狡猾な狐のように見えた。
「・・・・・・・・・足が使えなかったから、ですか?」
「違う。私達は信じて待っていたんだ。彼の足は神の下された試練であり、彼がそれを乗り越えるのを」
きっと、昔の彼だったらその言葉を信じ込んで、やはり祭司様はすごいなぁ、などと言っていただろう。ナタナエルははやる心臓を押さえこもうと拳を握った。
「では、そんな彼に何故巡礼をさせるためにロバやラクダを貸し出さなかったのですか?」
「神の試練は自力で超えるべきである」
「・・・・・それならば、私は神に試練も与えられていない」
告げると祭司は眉をひそめると唸るように返した。
「・・・・・お前とあいつは違うだろう!」
「・・・・・・・・・・・・・」
冷めた目で、祭司を見る。
「では、今年、もしも彼の足が治らなければどうなさるおつもりだったのですか?」
「治ったのだからいいだろう?」
「それは結果論です。どうなさるおつもりだったのですか?」
祭司はうるさそうに彼を見た。こんな事を聞くと出世に響くかもしれない。以前の彼ならばそうした打算から口をつぐんでいた。
「出て行ってもらう所だった。当たり前だろう」
「足が治らない限りは、彼が“罪人”だったから、ですか?」
「そうだ」
「・・・・・・・・・そうですか。ありがとうございます」
礼をして外へ出る。
瞬間、廊下の空気がひどく冷えているように感じた。鼻がつんと痛む。
足が動かないフィリポ。病にかかり、エルサレムでも隔離されることになってしまった人たち。彼らの姿が頭をめぐる。
「おかしいと思わないか? この世で最も救いを求めているはずの病人や貧しい人々が虐げられて、司祭や支配者ばかりが富んでいる。何故、神はそんな世界を許している?」
昔、この場所に見切りをつけ出ていった級友の言葉が頭をよぎる。忘れられなくて何度も浮かんでは打ち消してきた言葉。
着ている服が重い。学院でも高級位を示すこの衣は、ナタナエルにはひどく不恰好に思えた。
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