第54話 ナタナエル その2
額に冷たい手の感触を感じ、ナタナエルはゆっくりと目を開けた。
目の前に白い腕があり、それを辿るとフィリポがベッドの脇に置かれたいすに座り、彼を見つめていた。
あまりにも見慣れた天井に、ナタナエルは自分達の部屋でベッドに寝かされているということに気付く。
「・・・・・・・家畜の世話は」
自分の状況を理解したナタナエルが一番に尋ねたことは自分の仕事のことだった。フィリポは苦笑する。
「俺がやっといた。覚えてる? ナタナエル、集会室でいきなり倒れちゃったんだよ」
「・・・・・・・・・ああ」
「先輩達が運んでくれたんだ。あとでお礼を言っておいたほうがいいよ」
「・・・・・うん」
淡々と会話が進み、起き上がろうと力を入れると、フィリポの手がナタナエルを押し返した。
「今日一日は休んでおいたほうがいい。まだ、体はしんどいでしょう?」
「しかし・・・、べ」
「勉強はだめ。どうせ、頭に入らないでしょ」
「・・・・・・・・・でも」
ぐぅ、とフィリポをにらむと、その手はナタナエルの瞼の上に移動した。必然的に彼の視界は真っ黒になり、瞳を閉じる。
「俺はこうしてるから、今日は勉強をしないよ」
「・・・・・・・・・・・・・・」
驚いて目を開ける。感触が分かったのだろう、フィリポは優しく手でナタナエルの瞼を再び閉じさせた。
「ナタナエルは、家が有名な祭司の一家で、プレッシャーに感じている事はわかってるよ。だから不安で、少しでも時間があるなら勉強したいって事も。……次こそは一位を取りたいって気持ちも…。だから、せめて俺は今日は君が寝ている間は何もしない。君が不安に感じないですむように」
小さく優しい声が耳に届く。彼はフィリポに内心を見透かされ、そのような提案をされたことを苦々しく思った。いかにも子供の提案だ。ライバルはフィリポだけではない。けれど、あまりにも彼が真っ直ぐな目をして言うものだから毒気を抜かれてしまった。
「・・・・・・・・何?」
「いや・・・。なんでもない」
苦笑するナタナエルに不思議そうな声を出すフィリポ。少なくともこの瞬間に、彼がフィリポに感じていた苦手意識は消え去った。代わりに言いようのない暖かさが胸に訪れる。
次第に熱が伝わり暖かくなっていく手のひらの感触を感じながら眠りについた。
彼が寝ている間に、本当に彼が何もしなかったのだとわかったのは、目が覚めたときすぐそばにぐっすりと眠りながらも、ナタナエルの頬に手を置くフィリポの姿を見たときだった。
彼はその姿を見て少し笑い、それから小さな同級生をベッドに招き入れた。
まだ彼が足を怪我する前、パートナーにもなる前の、小さな頃の出来事だった。
この日以来、二人は急激に仲良くなって、その次の年に無事に学院のメンバーとなることが出来た。
悪夢を見て再び寝付けない早朝は必ずその出来事を思い出す。
あの優しい眠りが欲しい。
そう思いながら一人の部屋で布団にもぐる。
フィリポの足が動かないのは彼の信仰心が足りないために神が下した罰なのだ。そんな彼を祭司たちが苦々しく思っているのは見ていれば分かる。足が動かないのならばラクダやロバを貸し、洗礼に行かせればいいのに、それをしない。
だからといって追放するかと思えば生かさず殺さずの位置でとどめている。その理由を考え、けれど結論部分まであえて考えないようにして頭を振る。もうずっと、その繰り返しだった。
なのに、あのヨハネ出奔の日からは、その度に耳に冷たい声が蘇る。
「ただ君は、認めるのが怖いだけなんだ」
「・・・・・・・・違う」
何度目になるかも分からない否定は、舌の上を軽くすべるだけだった。追い討ちをかけるように、今度はフィリポの声がした。
「それでも、自分の疑問と向き合って、行動をした。それはとてもすごいことだと思う」
ああ。
それなら、自分の問題に向き合うどころか、認識すら拒む俺はなんと卑怯者なのだろうか。ナタナエルは胸のつかえを吐き出すように深呼吸したが、未だ心は重いままだった。
ヨハネが死んだというニュースを聞いた。友達伝いに聞いたその話に、ナタナエルの心臓が震える。
彼が死んだということは勿論悲しかったしショックだったけれど、それ以上に彼の予言が当たったという事のほうがナタナエルにとっては衝撃だった。
「本当に、アンティパス王に囚われて首をはねられたらしい」
事件を聞いてすぐに彼はフィリポの元を訪ねた。
いつもうすぼんやりとしている彼でもこのニュースにはショックを受けたようで、顔が青くなった。
「・・・・・・本当に、」
「あいつはヨルダン川近辺で洗礼を始め、それが功をなして、何百という人があいつの所を訪れたんだとさ」
「そして、アンティパス王にその影響力を恐れられて首をはねられた・・・?」
フィリポはナタナエルから目をそらすと窓の外を見た。
「いや、あいつは自分からアンティパス王の所へ行ったらしい。彼の政治に対する不満を持って」
「・・・・・・どうしてそんな、死ぬと分かっていて・・・」
痛ましそうな顔をして俯く。理解出来ない様子の彼とは逆に、ナタナエルはなんとなく、彼ならば分かっていても行動するだろうなと思った。
「・・・もう、逃げていられる期間は終わったんだろ。文字通りに」
「・・・・・・・・そう」
フィリポが自分の足を見る。彼の足もヨハネの予言通り治るのだろうか。彼の足が動くようになれば、どうするのだろう。
フィリポも、出ていくのだろうか。
ヨハネのように。
「・・・・・・・フィリポは・・・、」
そこまで言いかけて口をつぐむ。彼はもしかしたら、足が治らなくても出ていかなくてはならないかもしれないのだ。
年に二回の昇級試験にこのまま落ち続けていれば、いずれそうなる。
「え?」
「いや、なんでもない。それより、ちゃんと試験の準備はしているか?」
あえて元気な様子を見せると、今度は逆にフィリポが困ったような顔をした。
「うん・・・」
「次こそ受かればいいな」
心の底からそう言う。けれど言葉を告げれば告げるほどフィリポの顔は曇っていった。
「・・・・うん」
「フィリポは頭がいいのに、なんで受からないんだろうなぁ」
「なんでだろうね・・・。前回も自己採点ではほぼ満点だったのに」
一緒に答え合わせをしたからそれはナタナエルも把握していた。次こそは受かると思っていたのだ。
「・・・・・・・・まさか、上の方であえて落としているとかはねぇだろうなぁ」
冗談交じりに言うが、たまにその可能性が頭に浮かぶ。そのたびにナタナエルは必死に否定していた。
尊敬すべき祭司長が、そんな事をするわけがない。
「そんなまさか・・・」
「まぁ、まさかだよなぁ・・・・」
ここ数年ですっかり見慣れてしまった感情の見えない笑みをフィリポは顔に貼り付けた。
「ナタナエルは、面倒見がいいんだねぇ」
ため息を突きながらフィリポが苦笑する。
「・・・・・・・・・・まぁな」
そう言われると何かが違う気がする。彼はパートナーだし、心配するのが普通だと思っていた。
「俺、そろそろ着替えるから、」
言外に帰るように言われる。
もう少し彼と話したかったナタナエルは物足りなく思う。
「手伝おうか?」
「いいよ。もうそんな子供でもないし。いざとなったらイサクもいるし」
昔は足が使えない彼の着替えを手伝うこともあった。
けれど、フィリポは言いながら部屋の隅に居る同室の男に目を向ける。彼はナタナエルとフィリポの部屋が別れてから数カ月後にフィリポと同室になった生徒だった。
ナタナエルもそちらに視線を送ると、イサクはビクリとした様子で彼の方を見た。
「・・・・じゃあ、イサク、こいつが転びそうになったら助けてやってくれよ」
「は、はい!もちろん」
彼の元気のいい声に苦笑を返す。いつもニコニコしている良い子だった。彼に任せておけば大丈夫だろう。
そう思うものの、腑に落ちないような複雑な気持ちを抱えたままナタナエルはフィリポに促されてその場を後にしたのだった。
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