第53話 ナタナエル その1
暗い、暗い闇の中、その顔だけは鮮明に浮かぶ。
昔この学院を出て行った級友の顔だ。
元級友は彼を見つめ、ぱちぱちと手を叩く。
「おめでとう、ナタナエル。おめでとう。祭司長就任おめでとう」
わざとらしい様子で祝いの言葉を述べた。誰にでも人当たりが良かった彼の笑顔は、ナタナエルの夢に出てくるといつも歪で嘲笑されているような気がした。
どろり。彼の姿が溶ける。
「この学院で、神のお膝元で、順調に出世して、もう祭司長だ。わぁすごい。すごい、すごい。ここにいる人はみんな君に服従するね。みんな、君を敬うね。みんな、君の命令を聞くね。わぁすごい。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・で?」
先程まで微笑んでいた彼の顔が冷たいものへと変わる。
「・・・・ヨ、ハネ・・・」
ひりつく喉で彼の名前を呼ぶ。
「祭司長になって、それで?」
「うるさ、」
「あんな理不尽な神のお膝元で、一番になって、だから何?」
再びヨハネの表情が嘲笑に染まる。
記憶の中では彼はこんな人を見下すような顔をしたことはない。全てナタナエルの妄想だ。
「うるさい!」
頭を振って幻像を追い払う。けれど脳にこびついて離れない。
真っ暗だった周囲に仄かな明かりがともり、いつかの夜の風景になった。
ここには見覚えがある。
彼が出奔していった日の、塀の中。
「ただ君は、それを認めるのが怖いだけなんだ」
「違う!」
自分の声で目を覚ました。
あの日からたびたび見る悪夢は今日もナタナエルを苛む。浅く呼吸を繰り返し、周囲を見渡す。昇級して与えられた一人の部屋は今までの二人部屋に比べて豪華で綺麗に設えられたものだった。
けれど、部屋の中にその姿がないというだけでひどく心が空虚になる。
「・・・・・・・・・・フィリポ」
この夢をみた日は、無性に彼に会いたくなる。
会って赦しを、乞いたくなる。
エルサレムから遠く離れた荒野に祭司の学院はある。
学院のメンバーになるにはまず祭司の子供であることは絶対条件だったが、さらに2度ほど面接試験を受けた後、2年の見習い期間が与えられ、その間に毎年行われる2回の試験を合計4回パスしてやっと僧院のメンバーとなるのだった。
彼は首席合格を目指していた。
昔から何でもすぐにこなすことが出来ていたこともあり、この学院へ入っても出来ないことなんか何もないと思っていた。事実、面接試験では同時期に入ってきた者の中では一番成績がよかった。
ただでさえ彼の家は一家の兄弟全員が主席で卒業している。ナタナエルはそんな兄たちを見て育ってきた。自分も同様に期待されていることを意識して毎回の試験に臨んでいた。
しかし。
「・・・・・・・・また、負けた・・・」
ナタナエルは仏頂面で自分の試験の結果の書かれた通知書を見る。そこには点数と共に順位がつけられており、大きく2位と書かれてあった。
「負けたって・・・。たった2点差じゃないか」
悔しそうに集会室の机に突っ伏す俺にフィリポが困ったように返す。彼の通知書には1位と記載されていた。万能感に溢れていた当時のナタナエルにとって、初めての挫折が彼だった。
面接で8割、この2年間の試験でさらにその中の6割が落とされる。それほどにこの僧院へ入る試験は厳しかった。
「くそ・・・、綴りを少し間違えたくらいでこんなに減点しなくてもいいじゃないか」
一緒に渡された解答用紙を見て舌打ちをする。フィリポのほうはというと、すべてを完璧に記述できており、直されている所はなかった。
残すところ後一回の試験を控え、次こそは1位をとってやる、と俺は試験の成績が返ってきたその日から寝る間も惜しんで勉強をするようになっていた。
入学試験の間は受験者全員が同じ部屋に住む。
ナタナエルはフィリポと隣のベッドを与えられていた。日に日にやつれて行く当日の彼をフィリポは心配そうな目で見ていたのだったが、面と向かって何かを言うことはなかった。
ナタナエルが倒れるまでは。
その日はひどく寒い日だったようにナタナエルは記憶している。
「ナタナエル、お早う」
日が昇りしばらくしてやっと起き出したフィリポが集会室で勉強していたナタナエルの隣に座る。
「・・・・・・・ナタナエル、顔色が悪いよ。風邪?」
挨拶をしながら級友の顔を見たフィリポが眉をひそめる。
「あー・・・、そういえば、朝から少し寒気がするな」
「本当? 大丈夫? 今日くらいは休んでいたほうがいいんじゃない?」
「そんなこと、出来るもんか! 試験まであと10日しかないって言うのに」
フィリポの言葉にナタナエルは激昂する。これが他の人間だったら素直に話を聞けただろうに、他でもない、彼に勝ち越しているフィリポに言われたものだから彼の幼いプライドが聞き入れることを拒んだ。
「でも・・・、体を壊したら、元も子もないだろう?」
「・・・その間にもフィリポは勉強をするだろう?」
「・・・・・・・・・へ?」
ぽかん、と頭を傾げるフィリポに、失言だったと口をつぐんだ。ナタナエルは自分の中にある焦りを彼に悟られたくはなかった。
「なんでもない。それより、勉強をするから少し黙ってくれないか」
「あ、うん。ごめん」
恐縮したようにフィリポは謝り、隣で聖書を開いた。その姿に胸の奥がちりちりと焦れる。勉強している時間は彼のほうが多いはずなのに、フィリポはとても頭がいいのだ。
昼を過ぎて、仕事をしなければならない時間になった。
学院で飼われている家畜の世話などは主に見習い祭司の仕事だったが、受験生がいる間は体験入学の一端として、ナタナエル達にも仕事が回ってくる。
今日は彼が当番の日だった。
ひどくなっていくめまいを抑えて立ち上がると同時に、ナタナエルは意識を手放していた。
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