第52話 フィリポ その11




 くぼ地の中で、足を動かすものの、鋭い痛みからどうにも動かなかった。ずきん、ずきんと痛みを放っている箇所が左足だったことで焦燥感が募る。こんな、獣や野盗が出そうな場所で動くことも出来ず、次第に不安が広がっていった。フィリポをここに連れてきた彼らが、昔彼をあざ笑っていた時のことを思い出し、その不安はいっそう強いものとなる。

 もしかしたら、彼らにはめられたのかもしれない。

 頭に浮かんだ可能性を頭を振って否定し、何とかここから出る方法を模索する。

 月がすっかり昇ってしまっている。

 誰か助けに来てくれないだろうか、と考えをめぐらすが、あの二人がいない以上、誰が助けに来てくれるのだろう。外に出るのも帰るのも自己責任なのだ。自分を奮い立たせ立ち上がろうとするが、やはり左足がずきずきと痛む。何度目かの挑戦の後、フィリポはその場に寝転がった。

 痛むのが昔動かなくなっていた左足だというのがひどく怖い。

 また動かなくなってしまったら、彼は今度こそ捨てられる。静まり返った中で、彼は初めて寂寥感に心が震えた。あの時、男が言っていた寂しいという言葉の意味が分かったような気がした。

 捨てられたくない。

 一人になりたくない。

 そう思うのに、フィリポは頼れる相手が見つからないのだ。

 学院の中で、友達に囲まれている間も誰のことも信じていなかった。それ以前から、ヨハネやナタナエルが彼に優しくする理由を猜疑心を持って探っていたのだ。

 だからだろう。

 今この頼るべきものがいない状況はひどく悲しく、孤独に思えた。まるで世界には自分以外いないような気すらした。

 


 背後から聞こえるかすかな息に現実に引き戻される。振り返ると、狼がフィリポをじぃ、と見つめていた。今にもかぶりつきそうな形相でにらんでいる。


「っ・・・・・・・・!」


 息を呑み、その場から離れようとするが、足が動かない。狼との距離は次第に縮まってくる。

 立ち上がろうとして、不意に恐怖で力が抜けた。

 同時に、狼が襲い掛かってくる。


「・・・・・いや・・・、いやだ・・・・。だれか・・・・」


 体が震える。

 ほぼ無意識に、彼は叫んでいた。


「ナタナエル!」


 耳を劈くような悲鳴を、自分が発したものだと気付くのと、衝撃を感じたのはほぼ同時だった。

 肩に痛みが走り、狼の爪がぬるり、と光る。


「・・・・・・っ」


 更に狼が俺に襲いかかろうとしていた。フィリポが死を覚悟したその時だった。


「フィリポ!」


 ぶす、と狼に矢が刺さり、悲鳴を上げて逃げ出していく。


「・・・・・・・ナタナエル」


 呆然と、声のした方向を見る。松明を持ったナタナエルが窪みのふちに立っていた。彼は松明をその場に置くと、慎重に中へと降りてくる。

 信じられない気持ちでその衣をつかみ、腕に触る。

 夢ではない。その証拠に、こんなにも暖かい。

 堪えきれなくなって、フィリポはナタナエルに抱きついた。嗚咽が後から後からとあふれ出る。


「ナタナエル・・・、ごめん、ごめん、ありがとう・・・」

「ったく・・・。すっげぇ心配したんだからな」


 ナタナエルの手が背中をなでる。


「ありがとう・・・。でも、なんでここにいるの?」

「フィリポを探しに来たんだよ」

「俺を? なんで?」


 フィリポは首を傾げる。一緒に過ごすことが少なくなった今、フィリポの不在に彼がよく気がついたものだ。


「あいつら・・・、お前と一緒に行ったやつらな、が、お前を見失ったって言っててさ。どうせ歩けるんだし、子供じゃないんだから自分で帰ってくるだろって言ってたのを聞いてさ」

「・・・・うん。俺も、自分で帰らなきゃって思ってた。でも、足をくじいちゃって・・・」

「足?」


 すぐさま彼はフィリポの左足を見る。うまく動かない様子を見て顔を青くした。


「・・・大丈夫。くじいただけだと思うから」

「馬鹿。それでまた動かなくなったらどうするんだ」


 フィリポの言葉にナタナエルが憮然と返す。


「うん・・・・。ごめん。・・・・それで、ナタナエルは探しに来てくれたの?」

「まぁ・・・、心配だったからな」


 その言葉に、ふと、心がじんわりと暖かくなっていく。

 ああ、

 あの男が言っていたのはこういう事だったのか。


「・・・・・俺、今、すごく嬉しい」


 フィリポはナタナエルから体を離し、正面から顔を見つめて告げた。


「は?」

「俺、“罪人”だったころ、いつ死んでもいいように思ってた。でも、自殺は出来ないから、ただなんとなく生きてたんだ。皆に邪険に扱われていて、どんどん俺の心が冷たくなっていって、誰も信じられなかった。・・・・・・・・・・・・君のことすら、信じてなかった」

「・・・・・・・・・・・」


 ナタナエルは真顔でフィリポを見つめる。


「俺、ナタが俺のこと心配してくれるのは、パートナーが“罪人”なのは体裁が悪いからだって、そう思ってた」


 そう思っている限り、楽だから。相手を信じなくてもよかったから。

 信じなければ、裏切られないから。


「・・・・・・・・・・」

「でも、いつだってナタは俺のこと、ちゃんと考えてくれてた。心配してくれてた。今だって、こんな暗くて危ないのに、ナタは俺を探しに来てくれた。君がここにいるってことが、すごく、すごくうれしいんだ」


 ぎゅ、と彼の袖を握りしめている手に力がこもる。

 つらいだけのことも、幸せなだけなこともない。

 確かにそうだ。

 足が動かないという辛い状況でも、たくさんナタナエルやヨハネに助けてもらっていた。助けてもらえていた。彼は、自分の心を守ることに必死で、そんな事にも、気付いていなかった。


 「・・・・・・・・・・フィリポ」


 ナタナエルがフィリポの肩を掴み引き離す。

 向き合ったその目は、どこか追い詰められているかのようにも見えた。


「・・・・・・・・ごめん」


 さやり、と冷たい風がふく。

 ナタナエルが顔を伏せる。

 彼の手は、震えていた。

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