第51話 フィリポ その10

 あまりにもあっけなくフィリポは自分の足が治ったものだから、男の存在そのものが夢だったのではないかとすら思う。けれど、左足を見て実感した。昔歩いていたときの様子を思い出して足を動かす。

 前に進めることが不思議だった。

 うれしくて、涙が出てくる。

 その場で嗚咽を漏らして泣いた後、彼こそが救世主だったのだと思い至ったのだが、その時にはすでに彼の姿はなくなってしまっていた。








 歩いているフィリポの姿を見た周囲の人たちは口をぱっくりと開けて驚いた。


「すげぇ! 一体どんな奇跡が起こったんだ?」

「神のご加護か?」


 驚嘆と賛辞の声が俺に降り注がれる。

 終いにはフィリポは神の試練に打ち勝った人物として尊敬の目を集めることとなってしまっていた。




「よかったな・・・、フィリポ」


 皆が彼に喜びの言葉を送る中、ナタナエルはどこか複雑そうな顔をしてパートナーの姿を見ていた。


「うん。うれしい」

「あのさ、その足・・・」

「予言どおりの救世主に会ったよ」

「!」


 ナタナエルが息を呑む。酷くショックを受けているように見えた。


「ナザレのイエスだって言っていた。あの人こそ、ヨハネの言っていた救世主かな」

「・・・・ナザレ、だって?」


 ぴくり、とナタナエルが動いた。


「ナザレから、何のいいものが出るって言うんだい」


 叫ぶように吐き捨てる。

 常に無い彼の様子にフィリポは目を丸くした。


「ナタナエル?」


 彼の、どこか怯えているような様子にフィリポは眉をひそめた。フィリポが立っているのを見てから、パートナーの様子がおかしい。


「どうしたの? ナタナエル」

「あ、いや・・・・。なんでもない・・・」


 本当に? 聞き返そうとした瞬間、ナタナエルはすばやく踵を返して反対方向に歩き出していた。

 いつも自信に溢れている彼らしくないその態度に頭をかしげながらも、フィリポは自室へと戻ったのだった。








 今まで試験に通らなかったのはこの足のせいだったのかどうかはわからなかったが、今年の試験も何事もなく終了し、試験通過者としてフィリポのところに昇級の証書が届いた。まだナタナエルには遠く及ばないが、それでもうれしかった。

 少しずつ見えはじめた希望に胸が高鳴る。


「お、フィリポ。今年は受かったんだな」


 足が治ると同時に、フィリポの周りに人が増えた。

 今まで彼に近寄るものといえばナタナエルくらいだったのに、今では昔彼を馬鹿にしていたような人まで親しい顔をして近づいてくる。


「うん。やっと受かってうれしい」


 にこり、とすっかりお馴染みになってしまった笑顔を貼り付けて答える。


「やっぱり、その足が治ったことがよかったんだろうなぁ。神の奇跡を受けた人物なんて、この学院始まって以来じゃないか?」

「・・・・・そうかな」


 気安くフィリポの肩に手をかけてくる男に複雑な気持ちがしながらも避けることはしなかった。

 級友はさも良い事を思いついたとでも言いたげに人差し指を立てる。


「なぁ、試験も終わったことだし、ちょっと外へ出ないか? 美味しい葡萄の群生地を見つけたんだ」

「お、いいな。行こう行こう!」


 言いながら二人は歩いていく。


「あ、ナタナエル!」


 友達の一人が遠くを歩くナタナエルを見つけて手を振る。彼は彼らよりも何位も上の高級僧衣を纏って回廊を歩いていた。

 ナタナエルはフィリポの姿を見つけてバツが悪そうに後ずさった。

 なぜか彼はフィリポの足が治ってからは彼を避けることが多くなっていた。


「なぁ、今からフィリポの昇級祝いに外へ出るんだが、お前も一緒に行かないか?」

「昇級? ・・・・フィリポ、試験に合格したのか?」

「うん。まだまだナタナエルには及ばないけれど」


 嬉しさから笑って言うと、ナタナエルは顔を伏せた。


「そっか、よかったな。・・・・・せっかくだが、俺はちょっと、行くところがあるから」

「そっか・・・・」


 彼も喜んでくれると思い込んでいたフィリポは、そのよそよそしい態度に胸が痛んだ。

 パートナーであるフィリポの足が治って、昇級すれば彼ももう世間体の悪い思いはしなくてすむというのに。

 もう、迷惑をかけられないですむのに。


 そうして3人で出かけた、葡萄の群生地は本当に野生の葡萄がたわわに実っており、フィリポは甘いにおいのする一房を手に取り、その実を食べた。甘い味に頬が緩む。

 さらに他のものも食べようと、より大きな房を捜して足を動かした、その時だった。

 急に世界が真っ暗になった。

 ずきり、と足が痛む。

 葡萄に気をとられて穴のような大きなくぼみに落ちてしまったのだと気がついた。

 出よう、と体を動かすが、落ちた時の衝撃で痛くて動かない。

 声を張り上げ人を呼んでも誰の声もしなかった。

 そのまま刻々と時間が過ぎる。

 日が沈み、辺りが暗くなっても、誰も彼を探しには来なかった。





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